石田三成は、1560年(永禄3年)「近江国」(現在の滋賀県)に誕生。父は石田村の土豪で浅井家に仕える「石田正継」(いしだまさつぐ)です。石田三成の幼名は「佐吉」でした。
1570年(元亀元年)「小谷城の戦い」が勃発し、浅井家は「織田信長」と「徳川家康」の連合軍に敗れて滅亡。石田家の新しい主君は、織田信長の家臣である豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に替わりました。1574年(天正2年)、石田三成は小姓として仕官。敗者である浅井家の家臣出身であったにもかかわらず、賢く有能な石田三成は出世を遂げ、豊臣秀吉の臣下の中でも頭角を現していくのです。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」により織田信長が亡くなると、豊臣秀吉が天下取りへと地位を固めるようになりました。豊臣家の家臣である石田三成は、戦でも実力を発揮。1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では、敵の柴田軍の偵察行動を指揮し、実戦でも一番槍(いちばんやり:交戦の口火を切る軍団または個人)を務め、大きな功名を立てました。翌1584年(天正12年)には「小牧・長久手の戦い」にも従軍。また、内政面では近江国蒲生郡の検地奉行を務め上げました。
石田三成は豊臣秀吉の天下統一を支え、上杉家など力のある大名に対する重要な外交交渉や戦の後処理を担当。このことから、事務官としても有能だったことがうかがえます。1585年(天正13年)、豊臣秀吉は従一位関白(じゅいちいかんぱく)に就任。同時に、26歳の石田三成は「従五位下治部少輔」(じゅごいのげじぶのしょうふ)に叙任されました。
1586年(天正14年)には堺奉行を拝命し、同時に上杉家当主である「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の豊臣秀吉への謁見を斡旋。翌1587年(天正15年)に、豊臣秀吉は九州へと兵を進めます。石田三成は戦の後始末を行い、平定した九州の復興を担当しました。
さらに、豊臣秀吉の邸宅兼城砦である「聚楽第」(じゅらくてい)に「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招く行幸への対応や検地の手配など、石田三成に課せられた仕事は山積み。後世まで語られる豊臣秀吉の政策は、石田三成をはじめとする家臣達が実行していたからこそ成り立っていたと言えます。
1590年(天正18年)、佐和山城の城主になった石田三成は「小田原の役(小田原征伐)」に参加。東北地方の大名達との交渉や、戦のあとの仕置きも担当します。そして、1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は朝鮮に出兵を開始。もちろん石田三成も従軍し、船奉行筆頭として軍全体の兵糧や輸送の管理を担当した苦労は相当大きかったと推測されます。明との休戦交渉の対応も請け負うなど、石田三成は多忙を極めていました。
石田三成は「すべては豊臣秀吉の天下統一のために」という精神で奮闘。そんな中、大事件が起こります。1595年(文禄4年)、豊臣政権の2代目として当時の関白を務めていた「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)が切腹。権威の継承が済んだあとに、豊臣秀吉に実の息子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生したため、ふたりの関係に溝ができてしまったのです。
豊臣秀次の切腹は自身の意思なのか豊臣秀吉からの命令だったのか、歴史的解釈は分かれていますが、豊臣秀吉はこの事件を身内の恥と考え、同じ一族であるにもかかわらず豊臣秀次の妻子を含む関係者を大量に処断。謀反の疑いをかけられた豊臣秀次に対し、石田三成は本人に経緯を聞く役目を担当し、処断にも立ち会いました。後世に冷酷非情なイメージを伝える出来事ですが、石田三成は豊臣秀次の家臣達を自分の臣下に組み入れ、世話をしています。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。遺言により五大老と五奉行が後事を託され、石田三成は五奉行のひとりとして政務を行います。石田三成は朝鮮からの撤退をはじめ大名領の再編成など、豊臣秀吉が残した課題の解決に乗り出しましたが、朝鮮に渡っていた武将たちを中心に、たまった不満の矛先が石田三成に向かってしまったのです。そのため、1599年(慶長4年)に隠居を余儀なくされてしまいました。
しかし、石田三成は隠居しつつも、豊臣家の後釜を狙う徳川家康に反感を持つ大名を集め、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、西軍として徳川家康と対決。しかし、多くの武将の裏切りにあいます。その後、石田三成は捕らえられ、処刑されました。豊臣家のために力を尽くした知将は、平和な世を見ることなくこの世を去ったのです。