大川 橋蔵 (2代目) オオカワ ハシゾウ

本名
丹羽富成
俳名・舞踊名
舞踊名は藤間勘之丞
屋号
音羽屋
定紋
違い柏葉
生没年月日
昭和4(1929)年04月09日〜昭和59(1984)年12月07日
出身
東京

プロフィール

六代目尾上菊五郎の薫陶をうけ、若き日には菊五郎劇団の娘方で、七代目尾上梅幸、七代目中村福助(七代目芝翫)に続く存在だった。若手歌舞伎では立女形(たておやま)として大役を演じたが、東映に入り時代劇映画の黄金期最後の大スターとなった。甘いムードと品のある若侍ぶりで『新吾十番勝負』などが大ヒットし、東映の大看板だった。東映歌舞伎で舞台復帰し、市川右太衛門の大石でこの人が女形で浮舟太夫をつとめた舞踊劇など、さすがに菊五郎劇団で若女形として修業した素養を物語っていた。テレビの『銭形平次』も大ヒットし、長い間、歌舞伎座の師走は大川橋蔵公演が恒例となって続いた。第1回公演には三代目市川左團次や十七代目市村羽左衛門ら劇団の先輩が出演して花を添えている。毎回、『鏡獅子』や『紅葉狩』『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』など、師の当り役に挑戦し続けたのは、六代目への熱い思慕からだったのだろう。わずか55歳という男盛りでの早い死が惜しまれる。

【秋山勝彦】

経歴

芸歴

昭和10年3月四代目市川男女蔵(三代目左團次)に入門、歌舞伎座『先代萩』鶴千代で市川男女丸を名乗り初舞台。昭和19年10月丹羽家の養子となる。丹羽家は六代目の母方の家で音羽屋系の一門に繋がる。昭和20年10月帝国劇場『鏡獅子』の胡蝶の精で二代目大川橋蔵を襲名。昭和30年菊五郎劇団在籍のまま東映に入社、『若さま侍捕物帳』『新吾十番勝負』シリーズなどに主演し映画俳優として活躍。昭和40年代にはテレビ時代劇に進出し、『銭形平次』は生涯の当たり役となる。昭和42年より歌舞伎座で毎年12月に「大川橋蔵公演」を行ったほか、南座などでも定期的に公演をもっていた。

著書・参考資料

昭和37年『大川橋蔵舞台写真集』(木村伊兵衛ほか写真撮影、関逸雄編、和敬書店)、昭和60年『ふたりひとつ 私の橋蔵親分』(大川真理子著、フジテレビ出版)、平成16年『大川橋蔵』(丹羽真理子編、ワイズ出版)など。

舞台写真

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