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原節子さん死去 横浜が生んだ国民的女優95歳

カルチャー | 神奈川新聞 | 2015年11月25日(水) 23:13

女優、原節子さん。9月5日に死去していたことが分かった。95歳
女優、原節子さん。9月5日に死去していたことが分かった。95歳

女優、原節子さん。9月5日に死去していたことが分かった。95歳
女優、原節子さん。9月5日に死去していたことが分かった。95歳

 「東京物語」など小津安二郎監督作品で知られ、横浜が生んだ国民的大女優、原節子(本名・会田昌江)さん=鎌倉市浄明寺=が9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった。95歳。横浜市出身。

 原さんは1920年、横浜市保土ケ谷区生まれ。保土ケ谷尋常小学校を経て、私立横浜高等女学校(現・横浜学園)に進学するが、2年で中退。女優をしていた姉と義兄・熊谷久虎監督の勧めで、35年に日活に入社した。同年、「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビュー、清純な美貌が鮮烈な印象を与えた。37年、JOスタジオ(東宝の前身の一つ)に移籍、戦後は新東宝を経てフリーになった。

 戦後、民主主義啓蒙(けいもう)の映画が盛んに作られた時代には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」(46年)、吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」(47年)、今井正監督「青い山脈」(49年)など巨匠の作品に立て続けに出演、聡明(そうめい)で進歩的な女性を演じてファンを広げた。

 49年、「晩春」で名匠・小津安二郎監督の作品に初出演、大輪は開花する。以後も「麦秋」(51年)、「東京物語」(53年)、「秋日和」(60年)、「小早川家の秋」(61年)などで誠実さと優しさ、知性を兼ね備えたヒロインを演じ、小津芸術に欠かせない存在になった。

 62年の「忠臣蔵」を最後に、記者会見ひとつせずに引退。以後、メディアやファンとの接触を断ち、鎌倉・浄妙寺に接した自宅でひっそりと暮らしていた。生涯独身だったこともあり、ファンは原さんに“永遠の聖女”という呼称をささげた。


◆小津映画“永遠の聖女”
 かつて世紀の変わり目に、映画専門誌「キネマ旬報」が「20世紀を代表するスター」を選んだ。女優の1位に選ばれたのはオードリー・ヘプバーンさん、邦画は原節子さんだった。

 原さんにささげるファンの賛辞は最大級だ。「におうような美貌と気品」「日本的な美徳と近代的な知性」「清楚(せいそ)で、凜(りん)として」

 原さんは私立横浜高等女学校(現・横浜学園)を2年で中退する。義兄から女優への道を勧められたためだが、経済的事情もあった。1935年6月28日の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)は「日活の銀幕へ 近代的魅惑の美少女」と3段見出しと写真付きで報じている。

 記者は戦前の出演作では「河内山宗俊」を見たが、当時15歳の原さんは侵し難い美しさを漂わせている。戦後は「わが青春に悔なし」「青い山脈」などで民主主義の象徴になった。

 そして、小津安二郎監督と出会う。「晩春」「麦秋」「東京物語」などの小津芸術で、原さんは確かな演技力を示した。小津作品6本を手がけた元松竹プロデューサーの山内静夫さん(前鎌倉文学館館長)は「小津先生に対する原さんの尊敬の念は、もはや『信仰』だった」と振り返る。

 63年、小津監督死去。松竹出身の直木賞作家・高橋治さん=茅ケ崎市=は名著「絢爛たる影絵」で「あたりはばからずに号泣したのは原と杉村(春子)だった」と書く。小津監督の死後、原さんは映画に出演せず、鎌倉に隠せいした。

 大女優に、何があったのか。「独身を通した小津に殉じた」「容姿の衰えを気にしていたらしい」…。さまざまな臆測が流れ、ファンは原さんを「永遠の聖女」と呼んだ。

 若くして、自らを伝説のなかに閉じ込めた原節子さん。一つのゴシップも流さなかったが、51年11月18日の小津日記に「このところ、原節子との結婚の噂しきりなり」とある。泉下で原さんを迎えた名匠は、小津映画の笠智衆さんのように、ちょっと照れながら「やあ」と笑うだろう。

 
 

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