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B4孔版印刷10頁綴 新人会の解体に関する声明書 労働者・農民・兵士・革命的学生諸君 共産インターナショナル十周年記念闘争 児玉隊陳述要旨 昭和5年ほか
日本帝国主義統治下の朝鮮日本軍国主義の朝鮮侵略史, 1910-1945 일본군국주의의 조선침략사, 1910-1945朝鮮民主主義人民共和国社会科学院歴史研究所近代史研究室編 ; 金曜顕訳 出版社 朝鮮青年社 ページ数 320p 1978年初版カバー
【CD】吾妻光良&The Swinging Boppers / HEPCATS JUMP AGAINワン・アンド・オンリーのジャンプ・ブルース・バンド、吾妻光良&スウィンギン・バッパーズは今でも健在です。「おいこらお嬢さん」はチャレンジだった。日本語で歌うことに抵抗感があった吾妻光良が見事に吹っ切れた感のある本CDには、何曲ものユニークな日本語バージョンを聴くことができる。それにしてもおかしい!おもしれぇ!スゲェ!グレート!ただただ彼等のオリジナルティは天下一品だ。1. 極楽パパ2. SUGAR RAY3. WALK THAT MESS4. I NEED YOU SO5. GO.GO,GO6. 昔つきあってた女7. BONGO GOOGIE8. I CAN DREAM,CAN'T I9. WHY DID YOU SAY?10. T-TOWN BLUES11. あの娘のうちは千葉よりむこう12. BOOGIE WOOGIE ST.CLAUS13. ゴミの日来るまで盤質は良好です。
江戸の絵入小説 合巻の世界著者 佐藤至子 出版社 ぺりかん社 刊行年 2001年 初版 カバー 帯
国鉄監修 交通公社の時刻表1977年1月号 冬の臨時列車ご案内 年末・年始の帰省列車 スキー・スケート列車 日本交通公社 出版社 日本交通公社 刊行年 昭 52
セックスドキュメント モーテルの女王 ポスター72.5cm-26cm1973年5月12日公開、64分監督、構成 高桑信 ナレーション 小島三児 ナレーション 城恵美ナレーション 早乙女りえ今や、ソープランドと並ぶ二大セックス産業のひとつになったモーテル。この、日本で独特な形態で発展した各地のモーテルや部屋の装置を紹介するドキュメント。監督は「麻薬売春Gメン 恐怖の肉地獄」の高桑信、撮影は「やくざと抗争」の稲田喜一がそれぞれ担当。ストーリー湖畔に一台の車が止まっている。中ではカー・セックスの最中。やがて、この車は近くのモーテルへと吸いこまれていく。カメラは一転。日本一といわれる目黒エンペラーへ。一泊二万二千円の超豪華王朝風御殿の間、ラスベガスの味が楽しめるルーレットの間、SMムードの間、ビデオ・コーダーの間などなど、セックスの快楽の極致を楽しむための仕掛けがずらりと揃っている。モーテルは、はじめアメリカで車の旅行者のために生まれた。それが日本に導入されると、マイカーの増加とともに、温泉マークに簡便さとデラックスムードを加えたものとして異常に発達した。カメラは、アメリカのモーテル、日本の温泉マークの旅館を追い、再びゴージャスなモーテル内部へ戻る。そこでは、銀座のホステスと重役タイプの男、OLとその上役らしき男などの情事が繰りひろげられている。昼。昼の利用者も夜に決して劣らない。休憩時間を、フルに利用する人たち。会社の昼休みに、あわただしく肌を求めあうサラリーマンと恋人、家庭をぬけ出して開放感から獣のようにからみつづける人妻と恋人……。カメラは東京を出て、国道沿いに林立しているモーテルを写す。インター・チェンジのあるモーテル内。趣向をこらした多種多様の部屋。その中で、家庭教師と女生徒、新婚夫婦、レスビアン、男一人に女二人、サド・マゾなど目もくらむばかりの色彩の中で、スクリーンに展開されていく……。
曾我量深講義集 第十四巻 「仏陀のさとり」 彌生書房 昭63年初版函付き 曽我量深(1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)、1875年9月5日、新潟県西蒲原郡味方村(現、新潟市南区味方)円徳寺に、富岡量導の三男として生まれる。1897年、新潟県南蒲原郡新潟村大字指出(現、見附市)の浄恩寺に入寺、曽我恵南の養子となり曽我姓となる。1899年、真宗大学(現、大谷大学)本科を卒業。1901年、真宗大学が東京府北豊島郡巣鴨村宮仲(現、東京都豊島区上池袋一丁目・宮仲公園付近)へ移転・開校するにともない、東京に移住する。初代学監(学長)には、清沢満之が就任する(~1902年)。1903年3月、清沢満之が近角常観の留守宅にて主宰した私塾浩々洞に加入する。同年6月6日、清沢満之示寂。1904年7月、真宗大学研究院を卒業し、同年9月に同大学の教授に就任する。1911年、真宗大学を京都に戻し、高倉大学寮と合併し、真宗大谷大学と改称することが決定する。(1913年、移転。)同年9月、同大学の京都移転に反対して辞任し、10月には郷里新潟に帰り研鑽を続けつつ、同郷の金子大栄と親交を深める。1916年、金子大栄のあとを受けて、清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者として再び東京へ移住する。同年9月、東洋大学教授に就任する。1924年3月、東洋大学教授を辞任し、同年10月、再び郷里新潟に帰る。1925年4月、大谷大学教授に再任、京都に移住する。1926年、「如来表現の範疇としての三心観」を講義する。『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩と、唯識思想の阿頼耶識(第8識)とは本質的に同じであり、「本願の三心(至心・信楽・欲生)」と、「阿頼耶識の三相(自相・因相・果相)」とは同じものであると主張する。1927年、講義録『如来表現の範疇としての三心観』を著す。1930年3月、『如来表現の範疇としての三心観』における主張が、異安心とされ問題となり、事実上追放の形で、同大学教授を辞任する。(しかし、その後も自説を堅持する。)同年9月、金子大栄らと共に左京区鹿ケ谷に興法学園を開設する。同学園にて、研鑽と講義を継続し、多くの論文を発表する。1941年8月、真宗大谷派の最高の学階である「講師」に任ぜられる。同年11月、大谷大学教授に復職する。
曾我量深講義集 第十三巻 「正信の道」出版社 彌生書房 刊行年 昭62 函付き 曽我 量深(1875年(明治8年)9月5日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授。旧姓、富岡。法名、「無極院釋量深」。伝統的な解釈のもとに継承されてきた仏教・真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した功績は顕著で、近代仏教思想史の展開上、大きな足跡を残した。