絵巻物の基本

平治物語絵巻とは - ホームメイト

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「平治物語絵巻」(へいじものがたりえまき)は、軍記物語「平治物語」をもとに、鎌倉時代に制作された絵巻物です。絵は力強い画面構成で、軍勢が攻め込む姿がダイナミックに描写されているのが特徴です。色彩が豊かで華やかな大和絵らしい作品。武具甲冑(鎧兜)が精緻に書き込まれ、躍動感のある迫力に満ちた描写は、合戦絵巻の最高峰とも言われています。今回は、平治物語絵巻について、詳しくご紹介します。

平治物語絵巻とは

平治物語絵巻の歴史と概要

「平治物語絵巻」は、平安時代の1159年(平治元年)に起こった「平治の乱」をもとにした軍記物語「平治物語」を描いた絵巻物です。平治の乱とは、「源義朝」(みなもとのよしとも)と「藤原信頼」(ふじわらののぶより)が手を組んで、「平清盛」(たいらのきよもり)と「信西」(しんぜい:本名は藤原通憲)を相手に挙兵した戦いのこと。結果、源義朝・藤原信頼軍が殺され、平氏政権が誕生しました。平治物語絵巻は、平治の乱の約100年後、鎌倉時代の13世紀後半に制作された物です。

源義朝

源義朝

平清盛

平清盛

「看聞御記」(かんもんぎょき:室町時代中期の日記)によると、1436年(永享8年)比叡山(ひえいざん:現在の滋賀県大津市)には、15巻の「平治物語絵巻」が保存されていたという記述がありますが、現存するのは「三条殿夜討巻」(さんじょうどのようちのまき)、「信西巻」(しんぜいのまき)、「六波羅行幸巻」(ろくはらぎょうこうのまき)の3巻のみ。現在は、以下の場所に所蔵されています。

  • 「三条殿夜討巻」→ボストン美術館(アメリカ合衆国マサチューセッツ州)
  • 「信西巻」→静嘉堂文庫美術館(せいかどうぶんこ:東京都千代田区丸の内)
  • 「六波羅行幸巻」→東京国立博物館(東京都台東区)

なお、「六波羅行幸巻」は、国宝に指定されています。絵巻の他にも「断簡」(だんかん:一場面が切り取られ掛軸になった物)が14図存在し、諸家に分蔵されています。刀剣ワールド財団では、この写しを所蔵。また、模本(もほん:写し)の「待賢門合戦の巻」(たいけいもんかっせんのまき)、「常磐の巻」(ときわのまき)もあり、東京国立博物館に所蔵されています。

なお、平治物語絵巻の作者は、鎌倉時代の絵仏師「住吉慶恩」(すみよしけいおん)という説がありますが、明らかになっていません。3巻と断簡はすべて震えるような独特の書風で書かれており、一連の絵巻であることが考えられます。ただし、絵については、各巻とも画風が一致するものの描法には違いが見られるため、数名の画家によって描かれたと考えられます。

平治物語絵巻は合戦の様子を描いた作品であり、群像の表現や細かい甲冑(鎧兜)の描写が特徴的。整然とした構図と鮮やかな色合いの絵は、合戦絵巻の最高峰とも言われています。

平治物語絵巻の見どころ

六波羅行幸巻

平治物語絵巻 六波羅行幸巻 写し

平治物語絵巻 六波羅行幸巻 写し
(刀剣ワールド財団所蔵)

「六波羅行幸巻」のあらすじは、源義朝・藤原信頼軍のクーデターを知った平清盛が巻き返しを図る話です。熊野参詣から戻った平清盛は、二条天皇を自宅である六波羅邸(現在の京都府京都市東山区)へ脱出させようと試みます。二条天皇の住む御所は、すでに源義朝の軍に囲まれていましたが、二条天皇は女装して脱出に成功し、平清盛の屋敷がある六波羅邸に逃れることができました。絵巻には、二条天皇が平清盛の六波羅邸に逃れる様子が躍動的に描写されています。

結果、六波羅邸を攻撃した源義朝・藤原信頼はクーデターに失敗。また、断簡として諸家に分蔵されている六波羅合戦の巻には、六波羅邸に攻め込んだ源氏が敗退してしまい、源義朝が東国に落ちる様子が描かれています。詞書には波打つ文字が見られ「弘誓院教家」(ぐぜいいんのりいえ:鎌倉時代前期の書家)の晩年の書風を継承していると言われているのです。

刀剣ワールド財団が所蔵する、「平治物語絵巻 六波羅行幸巻 写し」は、平清盛軍が六波羅邸に集結する場面。六波羅邸を警護する、大鎧をまとった武士達が色鮮やかに華やかに描かれています。

三条殿夜討巻

後白河天皇

後白河天皇

三条殿夜討巻のあらすじは、源義朝・藤原信頼軍が、「後白河上皇」の御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇と「二条天皇」(にじょうてんのう)を幽閉するというもの。

平清盛が熊野参詣で京にいないことをチャンスと考え、源義朝・藤原信頼軍は御所三条殿を夜討ちします。源義朝・藤原信頼軍は、屋敷を焼き、残虐の限りを尽くしました。

三条殿夜討巻は、火を付けられて炎上する三条殿の様子が圧巻。藤原信頼側の兵士が上皇方の兵士に襲いかかる様子や、逃げ惑う上臈(じょうろう:身分の高い人)に馬で襲いかかる兵士の姿などを描写しています。武士の姿は「つくり絵」(平安時代の技法。墨線で描かれた下絵にそって彩色し、顔貌などを補う)の手法によって丁寧に描かれているのが特徴。

絵巻をよく観ると描き直したり付け加えたりしている痕跡が見られるため、初発的に描かれたと見られているようです。

信西巻

信西巻には、信西の最期が描かれています。信西は平清盛のパートナーのような立場の学者・僧侶です。三条殿の夜襲では何とか逃げられた信西ですが、藤原信頼が中心となる公卿会議で、信西一族追補の決定が下されました。信西は逃げますが、見付かってしまい自害。源義朝・藤原信頼軍は、信西の首を切り落とし、京都へ戻り獄門にかけました。絵巻には、信西の首を見上げる人々の姿も描かれています。

信西巻は、群青色(ぐんじょういろ:あざやかな青色)を用いた風景表現が見られるのが特徴。戦いの場面であることから、躍動感があり、武具甲冑が精緻に描かれています。

平治物語絵巻が所蔵されている場所

ボストン美術館

ボストン美術館

ボストン美術館

三条殿夜討巻が、なぜボストン美術館に所蔵されているのかは、アメリカ人「アーネスト・フェノロサ」がかかわっていると言われています。平治物語絵巻は、もともと旧三河国西端藩(現在の愛知県碧南市湖西町付近)の藩主である「本多家」が所有していましたが、訳あって市場に流出し、道具商が売り歩いていました。それを手に入れたのがアーネスト・フェノロサです。

この人物は、明治時代に、東京帝国大学で哲学や政治学の教師をしており、のちに美術行政官になった人物。アーネスト・フェノロサは、明治政府により三条殿夜討巻の海外持ち出しが禁止されるのを恐れ、道具商に販売したことを口外しないように口止めしました。これは、国宝保存法により指定された美術品は輸出を制限されていたからです。ボストン美術館には、他にも、日本にあれば国宝となっていたであろう美術品を含む多くの名品が所蔵されています。

静嘉堂文庫

静嘉堂文庫

静嘉堂文庫

信西巻が静嘉堂文庫に所蔵された経緯は分かっていませんが、1843年(天保14年)に伊勢神宮(現在の三重県)の外宮神官「福島氏」が所有していたとされています。

その後、伊勢の「向井氏」に渡り、岩崎家の所蔵となりました。なお、信西巻が所蔵されている静嘉堂文庫は、1892年(明治25年)に「岩﨑彌之助」(いわさきやのすけ)と「岩﨑小彌太」(いわさきこやた)の親子により創設された文庫。

なお、岩崎彌之助は、三菱財閥の創設者「岩崎彌太郎」(いわさきやたろう)の弟です。静嘉堂文庫は三菱グループ経営の私設図書館として、1992年(平成4年)に東京都世田谷区に美術館を開館し、2021年(令和3年)に閉館。

2022年(令和4年)に東京都千代田区丸の内の明治生命館に移転し、再開館しました。現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、約200,000冊の古典籍(漢籍120,000冊・和書80,000冊)と6,500件の東洋古美術品が収蔵されています。

東京国立博物館

東京国立博物館

東京国立博物館

「六波羅行幸巻」は、豊後国日出藩(ぶんごのくにひじはん:現在の大分県日出町)の藩主「木下家」に伝わり、「松平治郷」(まつだいらはるさと)の頃、出雲国松江藩(現在の島根県松江市)藩主の「松平家」の所蔵になったとされています。

その後は松平家が代々引き継ぎ、1931年(昭和6年)に、旧国宝に指定。1938年(昭和13年)に帝室博物館顧問であった「松平直亮」(まつだいらなおあき)が帝室博物館に寄贈しました。これにより国宝指定が一旦解除されましたが、1949年(昭和24年)に再度旧国宝に指定。1955年(昭和30年)には新国宝に指定され、現在は東京国立博物館が所蔵しています。