歌舞伎の基本

歌舞伎の屋号とは - ホームメイト

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「播磨屋」、「音羽屋」と、歌舞伎に行くと必ずかかる「大向う」(おおむこう:離れた席)のかけ声。歌舞伎ならではの雰囲気を醸しだす独特の慣習で、花道の出端(登場)、引っ込み、役者が「見得」(みえ)をするときなど、絶妙の間合いでかかる屋号のかけ声がなくては、どうにも締まりません。歌舞伎役者は、それぞれ家の屋号を持っています。しかし、なぜ屋号を使うようになり、そこにどのような謂れがあるのでしょうか。「名跡」(みょうせき)を継承する、役者の誇りでもある代表的な屋号と家の芸を紹介します。

歌舞伎の屋号とかけ声

成田山新勝寺

成田山新勝寺

江戸時代、武士以外の階級が苗字を名乗ることはできなかったとされます。

当時、歌舞伎役者は階級社会の低い身分におかれていたため、町人にとって憧れの存在でありながら、社会的には差別されるという複雑な境遇でした。

舞台上の口上で「一座高うはござりますれど」と謙る(へりくだる)のも、「お客さまより高いところから失礼」だけではなく「自分達のような者が」というニュアンスが含まれていました。

成田山新勝寺(千葉県成田市)_額堂にある七代目市川團十郎像

成田山新勝寺
額堂にある七代目市川團十郎像

そのような背景から商家、農家にならい、役者も屋号を用いるようになったとされています。「市川團十郎」(いちかわだんじゅうろう)の「成田屋」が屋号の始まりと言われ、初代・市川團十郎が「成田山新勝寺」(千葉県成田市)を信仰したことが屋号の由来と言われるように、屋号は一門の出自、歌舞伎以前の家業、副業など役者の背景まで感じさせます。

役者が見得をする瞬間、かけ声がかかると舞台と観客の距離がぐっと縮まり、芝居の空気がいっそう濃密に一体化するのが印象的。

義太夫狂言、舞踊劇の見せ場に、絶妙の間(ま)でかかる屋号のかけ声は、役者に対する最高の讃辞と言えるのです。

主要な屋号10選

成田屋 定紋「三升」(みます)

成田屋 定紋「三升」

成田屋 定紋「三升」

成田屋は、市川團十郎の屋号。「荒事」(あらごと:豪快な演技)の創始者として江戸歌舞伎の礎となった初代・市川團十郎が、成田山に子宝祈願をしたところ、2代目を授かり無事に成長したため、山村座で「成田不動明王山」を上演。

その際、大向うから成田屋の声がかかったのが屋号の由来とされます。

代表的な名跡は市川團十郎、「市川海老蔵」(いちかわえびぞう)、「市川新之助」(いちかわしんのすけ)など。成田屋の芸の演目集として「歌舞伎十八番」、「新歌舞伎十八番」があります。

音羽屋 定紋「重ね扇に抱き柏」(かさねおうぎにだきかしわ)

音羽屋 定紋「重ね扇に抱き柏」

音羽屋 定紋「重ね扇に抱き柏」

「音羽屋」は、京都・芝居茶屋の出方(でかた:客の世話係)であった「音羽屋半平」(おとわやはんぺい)の子で、屋号は「清水寺」(京都府京都市)に由来すると言われています。

代表的な名跡は「尾上菊五郎」(おのえきくごろう)、「尾上菊之助」(おのえきくのすけ)、「尾上丑之助」(おのえうしのすけ)、「尾上梅幸」(おのえばいこう)など。

音羽屋の芸の演目集として「新古演劇十種」が存在。なお、歌舞伎界で6代目と言えば、尾上菊五郎のことを指します。

当代7代目・尾上菊五郎は、「立役」(たちやく:男性の役)、「女方」(おんながた:女性の役)をこなし、特に「白浪5人男」の「弁天小僧」は半世紀以上演じてきた当たり役です。

高麗屋 定紋「四つ花菱」(よつはなびし)

高麗屋 定紋「四つ花菱」

高麗屋 定紋「四つ花菱」

「高麗屋」(こうらいや)は初代「松本幸四郎」(まつもとこうしろう)が、東京神田の商家である高麗屋に奉公していたことが由来。

代表的な名跡は松本幸四郎、「松本白鸚」(まつもとはくおう)、「市川染五郎」(いちかわそめごろう)など。

7代目・松本幸四郎は、生涯1,600回も「勧進帳」の「弁慶」を務めたことで知られます。

2代目・松本白鸚は、「忠臣蔵」の「由良之助」(ゆらのすけ)、「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)の「仁木弾正」(にっきだんじょう)などの当たり役があり、父・初代松本白鸚、祖父・初代「中村吉右衛門」から継承した「時代物」(江戸時代より古い舞台の作品)も得意。

10代目・松本幸四郎は代々の役に加え、「廓文章」(くるわぶんしょう)の「伊左衛門」(いざえもん)など、「和事」(わごと:やわらかで優美な演技)もこなします。

中村屋 定紋「角切銀杏」(すみきりいちょう)

中村屋 定紋「角切銀杏」

中村屋 定紋「角切銀杏」

「中村屋」は、江戸三座(えどさんざ:江戸幕府公認の芝居小屋)のなかで、最も歴史ある「中村座」の座号が屋号の由来。

「猿若勘三郎」(さるわかかんざぶろう)が改名した名跡を、17代目「中村勘三郎」(なかむらかんざぶろう)が復活。

代表的な名跡は中村勘三郎、「中村勘九郎」(なかむらかんくろう)、「中村勘太郎」(なかむらかんたろう)など。18代目・中村勘三郎は立役、女方、時代物、「世話物」(江戸時代の人情劇)とあらゆる役をこなした、昭和時代から平成時代の名優。

「歌舞伎座8月納涼歌舞伎」、「コクーン歌舞伎」、「平成中村座」など新たな歌舞伎に取り組む一方、尊敬する先達からの教えを大切にする芸熱心な古典主義者でした。その精神は、長男の6代目・中村勘九郎、次男の2代目・中村七之助に継承されています。

播磨屋 定紋「揚羽蝶」(あげはちょう)

播磨屋 定紋「揚羽蝶」

播磨屋 定紋「揚羽蝶」

「播磨屋」(はりまや)は、大坂三井の番頭「丹波屋甚助」(たんばやじんすけ)の子で、初代「中村歌六」(なかむらかろく)が、「播磨屋作兵衛」(はりまやさくべえ)の養子となったことが屋号の由来。

初代・松本白鸚の次男で、2代目「中村吉右衞門」(なかむらきちえもん)は、母方の祖父である初代・中村吉右衛門の養子となり、2代目・中村吉右衞門を襲名。

義太夫狂言における人物造形が深く、「俊寛」、「熊谷陣屋」(くまがいじんや)の「熊谷直実」(くまがいなおざね)、「盛綱陣屋」(もりつなじんや)の「佐々木盛綱」(ささきもりつな)などを得意としました。播磨屋の芸の演目集には、「秀山十種」(しゅうざんじゅっしゅ)があります。

成駒屋(成駒家) 定紋「祇園守」(ぎおんまもり)

成駒屋(成駒家) 定紋「祇園守」

成駒屋(成駒家) 定紋「祇園守」

「成駒屋」(なりこまや)は、4代目「中村歌右衛門」(なかむらうたえもん)が、4代目・市川團十郎から「成駒柄」の着物を贈られ、将棋の「成駒」と團十郎の成田屋をかけたのが由来。2015年(平成27年)に、4代目「中村鴈治郎」(なかむらがんじろう)の襲名を機に、中村鴈治郎一門は、屋号を「成駒家」へ変更。

代々歌舞伎界を代表する優れた真女方(女方専門)が多く、代表的な名跡は中村歌右衛門、「中村芝翫」(なかむらしかん)、「中村福助」(なかむらふくすけ)など。6代目・中村歌右衛門は、第2次世界大戦後の歌舞伎を代表する「立女形」(たておやま)とされ、成駒家の芸の演目集として「淀君集」があります。

澤瀉屋 定紋「澤瀉」(おもだか)

澤瀉屋 定紋「澤瀉」

澤瀉屋 定紋「澤瀉」

「澤瀉屋」(おもだかや)は、初代「市川猿之助」(いちかわえんのすけ、2代目・市川段四郎[いちかわだんしろう])の生家が、副業に薬草の澤瀉(おもだか)を扱う薬種商だったことに由来。

2代目「市川猿翁」(いちかわえんおう、3代目・市川猿之助)は、昭和時代から平成時代の歌舞伎に偉大な足跡を残しました。

10役をひとりで演じる「伊達の10役」などで観客を沸かせ、若手俳優の育成にも尽力。

革命児と言われる一方で、上方和事、義太夫狂言の研究にも熱心でした。澤瀉屋の演目集に「猿翁十種」、「澤瀉十種」、「猿之助十八番」などがあります。

山城屋 定紋「五つ藤重ね星梅鉢」(いつつふじがさねほしうめばち)

山城屋 定紋「五つ藤重ね星梅鉢」

山城屋 定紋「五つ藤重ね星梅鉢」

「山城屋」(やましろや)の屋号の由来は不詳。初代「坂田藤十郎」(さかたとうゆうろう)は上方(かみがた:関西)歌舞伎の創始者で、和事芸を確立した伝説の役者とされます。

江戸の市川團十郎と並ぶ名跡でしたが、3代目以降、継ぐ者がいませんでした。

しかし、2005年(平成17年)に3代目・中村鴈治郎が231年ぶりに名跡を継いで4代目・坂田藤十郎として復活。上方歌舞伎の継承者として演技、演出演目の復活と継承に尽力しました。

大和屋 定紋「三ツ大」(みつだい)

大和屋 定紋「三ツ大」

大和屋 定紋「三ツ大」

「大和屋」(やまとや)は、初代「坂東三津五郎」(ばんどうみつごろう)が養子に入った、初代「坂東三八」(ばんどうさんぱち)の屋号に由来。

代表的な名跡は坂東三八、坂東三津五郎、「坂東八十助」(ばんどうやそすけ)など。なかでも3代目・坂東三津五郎は、江戸時代後期の人気役者とされます。

5代目「坂東玉三郎」(ばんどうたまさぶろう)は「梨園」(りえん:歌舞伎界)出身ではありませんが、「壇浦兜軍記」(だんおうらかぶとぐんき)の「阿古屋」(あこや)、伽羅先代萩の「政岡」(まさおか)など、6代目・中村歌右衛門の大役を継承しています。

松嶋屋 定紋「七つ割二つ引」(ななつわりふたつひき)

松嶋屋 定紋「七つ割二つ引」

松嶋屋 定紋「七つ割二つ引」

「松嶋屋」(まつしまや)の屋号の由来は不明。代表的な名跡は「片岡仁左衛門」(かたおかにざえもん)、「片岡我當」(かたおかがとう)、「片岡秀太郎」(かたおかひでたろう)など。第2次世界大戦後、関西歌舞伎の復興に尽力し、上方和事の芸を究めました。

13代目・片岡仁左衛門は、「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)の「菅丞相」(かんしょうじょう)の気品が印象的。

15代目・片岡仁左衛門は、姿、口跡、演技すべてが良く、上方和事、時代物、「生世話物」(きぜわもの:写実的に江戸庶民を描いた現代劇)など、どの演技においても観客を陶然たる心地にさせる名優です。松嶋屋の芸の演目集として「片岡十二集」が存在。