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建設業に貢献するIT化
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店主戯言(浅草的思考)060303 2006/3/21〜2006/3/31 "There goes talkin' MOMO"


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2006/03/31 (金)  
【二重螺旋モデル的IT化?】

午前8時20分起床。浅草は晴れ。

昨晩は夜なべをしてしまい今朝は遅い起床。
別に手袋を編んでいたわけではない。
以下は夜なべの内容についてである。

合理性の分類の図である。

参考にしているのは『マクドナルド化と日本』,p306である。

・形式合理性(第一象限)
技術的に計算したり推論することができ、一般的、普遍的に適応可能な法則や規則のもとで現実を捉えようとする。
科学法則、近代国家の法律、官僚制組織、資本主義経済制度。
西欧における「近代化」とは、形式合理性が生活諸領域へ浸透し、拡大していく過程。
→リッツアーの「マクドナルド化」概念

・理論合理性(第一象限)
世界を有意味な秩序のもとで体系的に捉え、倫理的に一貫した認知的方法によって現実を把握すること。

・実質合理性(第二象限)
一定の文化的価値前提のもとでの諸価値に合致した形で目標を達成する。
なので異なる価値前提のもとから見れば非合理的なものとなる。
→ 価値合理性

・実践合理性(第四象限)
日常の限定された生活体験のなかで特殊な目的を達成するために最良の方法を考えること。
これは所与の現実を受け入れた行為者の主観的な枠内での合理性である。
なので他者から見れば非合理的であることもある。

本来、形式合理性と実質合理性は対比的関係にある。
簡単に言ってしまえば、市場原理と談合システムの矛盾のようなものだ。

しかしリッツアーによれば、本来両立できない形式合理性と他の合理性との統合された状態が「超合理性」ということになる。それが日本では実現されれいた時期があったという(八〇年代までの自動車産業)。

『つまり、効率的な生産過程に見る形式合理性に、日本的な実質合理性(和の精神、集団主義)、理論合理性(教育重視)、さらに実践合理性(「稟議制」や「根回し」)を統合した超合理性』(『マクドナルド化と日本』,p297)

日本の文化システム(徳川時代のそれ)に形式合理性が内在していたのは確かだ(このことについては「060417東京独演会」で簡単に触れたい)。

故に日本に形式合理が受け入れやすかったのも事実だろう。

そしてそれをうまく利用できる合理的な要素以外の非合理的、情緒的な要因が強く関わっているのも確かだろう。

それらのハイブリッドとして「超合理性」があった。

とすれば、形式合理のシステムとしてのISOや合理的マネジメントシステムを導入し、それがうまく機能していないのであれば、「なぜ形式合理のシステムが当社ではうまく機能しないのか」の解は自ずと導き出されるかと思う。

それは「文化システム」つまり「組織文化」。「社風」の問題である。
それは前述の通り、非合理を孕む形式合理意外の合理性の問題である。

それで「060417東京独演会」に向けて考えていたのが、この超合理性と(↓)との関連。

(出展:『DNA』,p83)

DNAの複製である。(笑)
二重螺旋がほどけ、それぞれの鎖が複写される。

螺旋は弁証法的でもある。
二重はハイブリッドでもある。

しかし遺伝のモデルと社会学を直接結びつけるのはトンデモである。
でもミーム論者はトンデモなことで夜なべをする。(開き直りである。(笑))

なぜ超合理性が永続的に保存されないのかを考えている。
如何にインセンストタブーを犯さずに血(文化システム)を保存することができるのかを考えている。

それもITがフツーにある時代にである。

つまり円環からツイスト(ひねり)の二重螺旋モデル的IT化の考察。(笑)


合理性とか効率性という語彙は経営においてはあまりにもありふれた言葉だ。
あまりにフツー過ぎてその正体を意識することもない。

しかしこんな風にメタレベルで合理性について再考するのも面白いかと思う。

【セミナー】2006年4月17日(月)東京独演会
「社風の重要性とIT化との関係について―IT化は如何にして社風をつくりだすのか―」

■参考文献

マクドナルド化と日本

G・リッツア&丸山哲央(編集)

2003年11月30日

ミネルヴァ書房
3675円(税込)





DNA

ジェームス・D・ワトソン(著)
アンドリュー・ベリー(著)
青木 薫(訳)

2003年12月18日
講談社

2520円(税込)



2006/03/30 (木)  
【060417東京独演会】

午前7時30分起床。浅草は晴れ。

今朝は、060417東京独演会 「社風の重要性とIT化との関係について―IT化は如何にして社風をつくりだすのか―」のサマリーを書いていた。

「社風の重要性とIT化の関係について」は、私のIT化論では、今までミーム概念を使いながら説明してきたものだ。

それはIT化においては最も見えにくい部分であり、また期待もされていないものかもしれない。

しかし、社会学からのアプローチでは、日本的経営の歴史において、その最盛期(60年代〜80年代)に「超合理性」が実現されていたのではないか、という意見がある。

超合理性とは対立関係にあるはずの目的合理性と価値合理性(非合理性を孕む)が融合している状態と考えることができる。

つまりハイブリッド。

そしてグローバル化(合理性、効率性の追求)が進む中で、今再び「超合理性」としての日本的経営が注目されている。

なぜなら、それは(外来の合理のシステムである)ISOや他の合理の為のマネジメントシステム(形式合理性)が日本で機能するために必要な「仕組」の存在を見せてくれているからだ。

その仕組を今回は「社風」と読み替えている。

「社風」は非合理性を孕む。

しかしその非合理性に合理性(形式合理)が上書きされている状態を超合理性と考えることができればどうだろう。
「社風」は合理性が機能するための「基底」だということができる。

今回は〈目的合理性/価値合理性〉(価値合理は非合理性を孕むこと)、そしてG・リッツアーの「マクドナルド化」(効率性、計算可能性、予測可能性、制御)=形式合理性等の概念について、簡単な事例を用いながら理解し、目的合理性と価値合理性(非合理性を孕む)のハイブリッドである「超合理性」について考えてみたい。

そして「非合理性の上に合理性を上書きする仕組」である、「社風を形成するためのIT化」について、その具体的な手法を経験を踏まえたお話しをしたいと思う。

そしてある方からのリクエストである「ボロメオの結び目」(ジャック・ラカンの精神分析の位相)についても、IT化における「鏡像」として触れてみたい。

【セミナー】2006年4月17日(月)東京独演会
「社風の重要性とIT化との関係について―IT化は如何にして社風をつくりだすのか―」

2006/03/29 (水)  
【ThinkPad】

午前6時起床。浅草は晴れ。

私の道具であるThinkPad X30下半身剥き出しの図である。(笑)
裸にしても色っぽくもなんともない。
 

X30 は総じて躯体が弱い。
骨折癖があって旅に連れ出す度に新たな傷をつくっている。
最近キーボード・ベゼルの左パームレスト部分にヒビが入ってしまった。
こんな具合である(着脱後裏面)。
 

アロンアルファで応急処置をしていたのだが、どうも微妙にキータッチに影響するようで具合がよくない。
例えば「。る」キーがタイピングの角度によっては反応しなかったりするのだ。

部品を探していたのだが、漸くヤフオクで新品のキーボード・ベゼルを入手できた。
金額は9800円。(笑)

交換完了の図。問題なく起動した。
 

ThinkPadは昔からFRU( field-replaceable unit=保守部品)の交換が容易である。
キーボード・ベゼルの交換はその中でも手間のかかる方だろう。
なにしろキーボードをはずさなくてはならないし、ねじは全部で4種類16個も使う。

しかしマニュアルは図解された確りしたものがあるので、その通りに作業すれば15分程度でこの仕事はできる。
いくら非合理な私でも、こういうときにはマニュアルのお世話になるのは当然のことだ。

なにしろ私はこういうことに関しては素人なのだ。
素人が、まがりなりにもそれなりの仕事ができるようにするものをマニュアルというのだろうから、私はそれに忠実であろうとする。

さてこのX30 も使い始めて三年目になる。
購入した時から既に古いモデルであり(私はPCは新古品しか買わない)、その新古品も最近は見つけることができない。
機械的な寿命もある。
どこかで見切ることも必要なのだろうなとは思う。

しかし使い慣れた道具は出来れば長く使いたいものだ。

特にキータッチは重要で、私はX20 シリーズからこれに換えた時でさえ、その違和感に暫く苦労させられた。
今回もパームレストにヒビが入ってしまうだけでキータッチがくるってしまう。
二年も使っていればこのキータッチを身体が覚えてしまっている。
(ちなみに私のベストキータッチマシンはThinPad560の初代モデルである)

このX30 は、既にバッテリー、キーボード、HDDそして今回のキーボード・ベゼルがオリジナルとは違うものとなっている。

まるで飛行機のメンテナンスのようなのだけれども、でもそうすることでもう暫く頑張ってくれだろうという期待が沸く。

その期待にどこまで答えてくれるのかは分からないのだが、「頑張ってくれよな」とPCに向かって声を掛ける時、X30と私の関係は「1.5の関係」になっている。
これは非合理である。(笑)

2006/03/28 (火)  
【花見的構造】

午前7時30分起床。浅草はくもり。

昨日は天気も良かったのでお昼に上野公園まで出かけた。
普段ならタクシーを使うところだが、急ぐ用事も無かったので、台東区循環バス「めぐりん」を使ってのんびり出かけてみた。
 → http://www.city.taito.tokyo.jp/index/000020/012353.html
このバスはどこまで行っても100円である。
 
細い路地をすりぬける必要からか小さなバスである。
利用客はお年寄りを中心に多い。予想外であった。
普段は通らないところをめぐってくれるので、私には見慣れぬ風景が繰り広げられる。
海馬はとても喜んでいるようだった。


上野公園の桜は六分咲きというところだろう。
ここ二三日気温が下がるとの予報なので、満開になるのは週末だろう。
 
しかし暖かさに誘われてか月曜日のお昼にしてみれば多くの人出で賑わっていた。
この風情は花の蜜に誘われたミツバチのようであってなにか楽しい。

昨日は弁天堂へ向かった。
下の写真は参道の入り口(鳥居)からのものである(なので鳥居は写っていない)。
ここに見事な子宮的構造が写し出されていることが分かるだろうか。
浅草寺の仲見世の小型版を見ることができる。
 
鳥居はヴァギナである。
参道は産道である。
弁天堂は子宮である。
そこに集う人々は精子のようなものである。
人々はそこで古い「私」を脱ぎ捨て少しだけ再生する(プチ再生)。
〈エロス/タナトス〉の構造である。

私は弁天さまにお賽銭をさしあげ、御香をたき、ちょっとだけ死んで(出費による私の弱体化)、またちょっとだけ元気になって、そのお祝いにおでんとイカ焼きでビールを飲んでまた世俗を背負った。

その参道(産道)に沿って的屋は店を出している。
なぜならそこは公界であるからであり、彼らはそこで商うことを許された公界の人々だからだ。
公界には公界のルールがある。
ジャスコの店内に出店する店子のように。

この子宮的構造は人が集う基本構造だと私は理解している。
ここにはひとつの曼荼羅感覚がある。

『つまりそこへ行き、そこから帰ってくるひとつの中心、そこを夢み、そこへおもむきそこから取ってかえす、一口にそこでおのれを発見する一つの完全な場所』(ロラン・バトル,『表徴の帝国』)

それが歴史的・社会的に変容するのがマーケティングだろう。
要は弁天様の代わりに何を持ってくるかだけだ(機能等価物)。
基本構造は変わらない。

花見の構造は、花と動物の遺伝子学的相補関係が出来て依頼、ずっと変わらないもっとも根源的な「集めるシステム」なのだと思う。
それは子宮的構造のもっと根源にあるものだ。
つまり上野の弁天様や浅草の観音様は桜花の等価代替物である。
それを子宮的構造と私はよんでいるわけだが、それは人間の無意識に訴え、そして桜花の儚さを通年のものとするための、人間の智慧なのだと思う。

2006/03/27 (月)  
【花見というアウラ】

午前7時20分起床。浅草は晴れ。

昨日は墨田公園へ桜を観に行ってきた。
桜は律儀に一年周期を守り花を咲かせる。
そには自然のリズムがあって毎年同じような風情を見せる。

しかしそれはいつでもその瞬間のものでしかなく、時間と空間が墨田公園という場所で独特に縺れ合ってひとつになったものだ。

あまりにも当たり前なので意識することもない。
しかしその瞬間を楽しむことを花見と言い、そしてそれをアウラという。

早春のある日緩やかな風に揺れる桜の花を目で追う。
それがその桜の花のアウラを呼吸することに他ならない。
 
写真はその瞬間を写し撮ることでアウラを失う。
しかし微分された瞬間を記憶に残す(もはや人間の視覚ではない)。

墨田公園の桜は満開まではもう少し時間が必要だった。
けれども気の早い人々は花見を楽しんでいた。

植物が進化の過程で昆虫や動物をひきよせるために得たシステムに、私たちの無意識の深層が答えてる。

桜花の下には人が集う心地よい空間がある。
植物と動物がつくりあげた「ハレ」である。

しかしこの空間に的屋は店を出せない。
ここは墨田区の町内会が中心になって場を切り盛りしている。
的屋は道一本挟んだ牛島神社の近くに僅かに店を出している。
的屋は言ってみれば公界(くがい)の人々だがここでは文字通り公界に追いやられている。

それは悪いことではないかもしれない。
しかし私は「ハレ」の場に的屋の居る風景が好きだ。
「ハレ」の空間はそもそも公界だからだ。

そして何時もは目立つブルーシートの住居もこの時期は何処かへ消えてしまう。

「常識」の入り込んだ花見はもはや公界ではないのかもしれない。
本物の公界は外へ外へと追いやられている。

私はその追いやられた公界まで出かけ、おでんとイカ焼きを肴にビールを飲んだ。
子供は射的で遊んだ。
それが彼の「生活社会」となるように。


帰り道、雷門の向かいの松喜で牛肉を買った。
松喜は地元民御用達の店だ。
牛肉が食いたくなったらこの店で調達する。
質は高く値段は安い。
一番安い切り落としは特売日には180円/100gしかしない。
特売日である土日は行列ができる。
昨日も店の前は行列であった。
私は牛鍋にするのにこれも特売品の神戸牛の切り落としを選らんだ。
400円/100g。
ささやかな「ハレ」の延長である。
 

牛鍋とすき焼きの違いはよくは分からない。
ただ牛鍋という言葉の響きにはもうもうと湧き上がる湯気と肉体労働者の汗を感じる。
私はこの名指しが好きだ。

牛鍋は浅草で覚えた。
つくり方は「米久」のそれである。
少なめの割り下で煮る。
焼くのではない煮るのである。
ざく(野菜)は野暮でよい。
そして一日を語りながらひたすらに食う。
そしてビールを飲む。

さて今日は上野公園にでも出かけてみようかと思う。
あそこはまだ公界が残っている(はず)なのだ。

2006/03/26 (日)  
【マルカンデパート(花巻)】

午前7時15分起床。浅草はくもり。

昨日は午前9時42分発の東北本線普通列車で花巻を目指した。
目的地は(たぶん)花巻市唯一のデパートであるマルカンデパートである。

(↓)のサイトで「マルカンラーメン」なるものを知り、機会があれば行ってみたいなと思っていたのだ。
http://www14.plala.or.jp/sugachuu/031040/037/037.html

盛岡-花巻間は36分。650円。
JR花巻駅からは勘を頼ってうだうだと歩くこと約20分。
ようやくデパートらしきものを発見。
 
しかしこの商店街も人影が無い。
郊外化で地方へ行けばどこででも見る光景だが、大丈夫なのか?と心配してしまう。

マルカンデパートは近寄ってみると期待通りの佇まいであった。
 
浅草松屋というレトロなデパートに慣れている私でさえ驚愕の古臭さである。
昭和四十年代にはどこにでもあったデパートだ。
この六階に展望大食堂がある。
そう子供の頃家族で行った「ハレ」だ。

エレベーターは使わずに私はエスカレーターと階段を使って六階まで上ってみた。
売り場を見てみたいと思ったのだ。
どの階も予想通り客はまばらというよりも閑散としていた。
本当に大丈夫?と思ってしまう。

さて大食堂はワンフロアー全てが食堂なので恐ろしく広い。
600席ほどあるらしい。
午前11時に入ったので先客はうどんを食べているおばちゃんだけだった。
しかし樹立するポットがこれから始まる非日常を予感させていた。
 

食券を買って窓際の席に着くと、メイド服のお姉さんが食券を取りにきてくれる。
かなり古いデザインだがわざとらしく無い制服である。
その清楚さにはメイド好きな方なら秋葉のメイド喫茶よりも数段萌えるはずだ(まあ趣味の問題か…(笑))。

まずは目的の「マルカンラーメン」をオーダーする。
530円である。安い!そしてボリュームがある。
 
白菜、きくらげ、玉葱、豚肉、たけのこ、にんじん and etc.のあんかけ麺だ。
ただしスープの上にあんかけが乗っているのではなくスープ全体があんかけなので最初の一口は恐ろしく食べにくい。

細めの麺を無理やりあんの中からひきづり出す感じで麺を表出させなくてはならない。
その作業を何度か繰り返す初期化が必要なのである。
ただ時間と共に次第にスープは液状化してくるので初期化がすめばあとは楽だった。

味はキムチチゲのそれに似ていて程よく辛いが、白菜と玉葱から甘味が出ていて辛さに刺が無い。
私は辛いのは苦手なので(ある病のせいである)最初から完食は考えていなかったのだがそれでも九割は食べた。

11時20分を過ぎたころから人が増えだす。
突然沸いて出てきた感じだった。
それも最初はババァばかり。
 

しかしババァの食堂なのかと思えばさにあらず。
次第に家族づれそして若者のグループも増え、どう見てもデート中の若いカップルもいたりして客層は意外と多彩なのである。
一杯やりはじめている人もいる。
街の社交場のごときである。

客が増えれば空気がざわつき店内は猥雑さを標榜し始める。
それは感動的だった。
匂いがわきたってくるのがわかる。
まさに私が子供だった頃、つまり昭和の匂いだ。

それは私にとっては古層にある記憶の蘇りだが、たぶん若いカップルは「記憶なき世代」である。
郊外に足を伸ばせば花巻にだって何でもある。
しかしこの恐ろしくレトロな場に吸い寄せられるように老いも若きも人々は集う。

それを「アウラ」(ベンヤミン)と言いたい衝動に襲われた。
それを「生活社会」と言いたい衝動に襲われた。
それを「全体性」と言いたい衝動に襲われた。
それを「共同幻想」と言いたい衝動に襲われた。
それを「パトリ」と言いたい衝動に襲われた。

たぶんそれらはこの匂いのある側面を指し示してはいるのだろうが全てではないだろう。
私はただ自分の持っている語彙を駆使してこの場を指し示そうとしていた。
(これについては明日にでも詳しく書こうと思う)

子宮か…。

そして、たぶん山鹿の共同浴場もこんな感じだったのだろうなぁ、思いを馳せた。


さて、隣近所を見ていると皆さんうれしそうにソフトクリームを食べている。
ニコニコと笑顔でだ。
そこには笑いがあった。

私はこんなに幸福そうにソフトクリームを食べる人たちを見たことがない。
それは感動というよりも笑いだった。

ソフトクリームがこの店の「名物」であることは知っていた。
けれどもこの後に「高権」に寄って権麺を食べる予定でいたので、今回はソフトクリームは食べないつもりだったのだ。

しかしその幸福そうな顔を見せられたら、食べないわけにはいかなくなってしまった。

それで私もソフトクリームとコーヒーをオーダーした(食券を買いに行ったわけだ)。
幸福のおすそ分けでもいただこうと。

たしかにこの姿だけでも笑える。
 
見よ!この隆々とした螺旋を。
140円の弁証法である。

ここまででかいと食べづらいのは当然なのだが、地元の方々はなんと割り箸を使って器用これを食する。
私は割り箸でソフトクリームを食べる人々をはじめて見た。

先達曰く、郷に入れば郷に従えである。
私も見様見真似で割り箸で食べてみたのだがこれが案外具合がよい。
じつにきれいに食することができるのだ。
まるでバラの花びらのようである。(笑)
 

ということで私の胃袋はここで撃沈。
権麺は次回の楽しみにとっておくことにした。

2006/03/25 (土)  
【朝盛岡】

午前6時5分起床。盛岡は晴れ。

昨日は岩手県電業協会&電気工事業工業組合のIT推進委員会。
小さなゼミナール付き(その反省は後程)。
懇親会を経て市内のホテルロイヤルに宿をとる。
このホテルは無線LANがバリバリに使える。
インターネットを通じてつながることになんの不自由もない。

窓からは岩手山の端っこが見える。
穏やかでやさしい朝だ。

今日は花巻に寄って帰ろうと思う。
なにか非日常がよんでいるのだ。

2006/03/24 (金)  
【みる きく よむ そして書く】

午前6時起床。浅草はくもり。

みる きく よむ

クロード レヴィ=ストロース (著), Claude L´evi‐Strauss (原著), 竹内 信夫 (翻訳)

2005年12月19日
みすず書房

3045円(税込)






1908年生まれ構造主義の祖レヴィ=ストロース先生の(たぶん)最後の著作である。
原書は1993年に出ているがそれから13年も経っている。
しかし仏語のできない私はこの日本語訳の発刊を待つしかなかった。

レヴィ=ストロースの叡智に触れるとなぜか安心する。

哲学とは無縁であった私がレヴィ=ストロースの「野生の思考」(パンセ・ソバージュ)にはまったのは中沢新一の『フィロソフィア・ヤポニカ』を通じてである。

間主体、「種」について考えさせられた。
(主体が使う言語は共同体社会によって生み出された構造主義的なもで絶対的な主体などありえない)
流動的知性、対象性思考について想いをめぐらせた。
ひねること(ツイスト)を学んだ。

「個は種のミームの中で育ち種は個の変化による(種)のミーム変化を内包している」
「非合理に合理を上書きする」
「合理に非合理は上書きできない」

というような「種の論理」をIT化において語るようになったのは「野生の思考」に因る。

レヴィ=ストロースは眼差しのしっかりした人だと思う。
眼差しとは知性の視力のことであり。
頭の良し悪しではない。
名指し(区分)が的確なのである。
名指は簡単に言ってしまえばデコードのことだ。

私のIT化理論は単純である。
共同体性(コミュニティ=第四象限)を作ること。
自己言及(デコードとエンコード=ハイブリッド)のシステムをそれに孕ませること。

それは「みる きく よむ そして書く」の実践である。
それは合理を上書きするための非合理(遠回り)であり、私のIT化に孕ませた実践の哲学である。

だから実践しなければ理解できないことも多いし得るものがないのも確かである。

実践とは「みる きく よむ そして書く」である。
「書く」とは情報を発信することだ。
自己言及することだ。
コミュニケーション接続することだ。

私個人は(失われた十年を取り戻すべく)こうして「みる きく よむ そして書く」を続けてきた。
そしてそのコミュニケーション接続の結果(=共同体性)を得、それを非合理性を孕む第四象限として大切にしてきた。
(私はただひたすら自分のIT化論の実践を続けているに過ぎない)

それがコンサルテーションにおいては機能しているところもあれば機能していないところもある。

総じて公共事業という産業においてそれがうまくいかないのは(実践までたどり着けないのは)ひとえに私の力不足のせいだと考えている今日この頃。

各地で「一回限りの囚人のジレンマゲーム」がナイーブに行われ、簡単に共同体性が破壊されていくのを見聞するにつけ、私の心はきりきりと痛む。

この過剰流動性が開けた空洞をなにが穴埋めしてくれるというのだろうか。
結局「会社」という小さな社会におさまってしまうのはまだましか。

2006/03/23 (木)  
【ささやかな象徴価値若しくはささやかに踊る】

午前6時45分起床。浅草は小雨。

最近写真無しの日記が多かったので写真が沢山溜まってしまった。
なので其れを利用して今朝は書くことにしよう。

■20日夜の食卓。


これは千束通り商店街にある竹松食品のレバーの唐揚げ。
定番ではなく週に1回ほど売り出される。その上「売り切れ御免」の特別なものだ。
その特別な日が20日だった。

竹松食品は鶏肉を専門に商う。故にこの唐揚げも鶏のレバーである。
鶏レバー特有の歯にくっつくようなしっとり感を保ちながらもぼそぼそとした(どっちなんだよ)食感がなんともいえない。
ビールにもぴったしである。

そして何よりも普通に売っていないという「謎」が欲望に火をつける。
レバーの串焼きは普通に売っているのになんで唐揚げは定番じゃないんだ。
もしかしたら唐揚げはなにか特別なルートがあって何処か秘密倶楽部のような処で供されているのじゃないのか。
いや店の人たちが唐揚げ好きで作るそばから食ってしまっているのじゃないのか。
そういえば特売日の店員は総じて不機嫌であるな…。

想いは不可視なままテキトーに広がるのである。
つまり「象徴価値」である。
それもささやかな。

以下内田樹先生の解説。
 → http://blog.tatsuru.com/archives/000449.php より

象徴価値をボードリヤールは「その商品がもつ社会的な差別化指標としての価値」と定義している。
分かり易く言い換えよう。
「ローレックス」と「スウオッチ」はどちらも計時能力という使用価値においてはほとんど優劣がない。しかし、一方は100万円、一方は9800円。「どちらが欲しい?」と尋ねれば、多くの人は「ローレックス」と答えるだろう。
どうして?
もちろんローレックスをはめていると、見た人が「わ、すげー」と驚くからである。
見た人の目に「興味と懐疑と畏怖」の表情が浮かぶからである。
ローレックスをはめている人は、このような高額の商品を彼に供与しうる「なんからの回路」(濡れ手で粟の金融商品とか「リッチなパパ」とかヤクザとか)にアクセスしているという事実がこの「興味と懐疑と畏怖」の感情を構成する。
それが「差別化」ということの内実である。
差別化とは、端的に言うと「ここから先はオレは行けるけど、あんたはダメ」と言うことである。
つまり、象徴価値をもつ商品とは、「それを通じて迂回的にしか表象されえないものの存在を暗示する商品」のことである。
「不可視のもの」を背後に蔵していることによってはじめてある商品は「象徴価値」を帯びるのである。
お分かりだろうか。
(引用終了)


千束通り商店街は「桃組」の方々にはおなじみの「菜苑」のある商店街である。
ひさご通りから言問い通りを挟んで専門店が多いのが特徴だろう。

この商店街は吉原と共に栄え赤線の廃止と共に枯れてきた。
今はお世辞にも賑わっているとは言えない。

けれども私にとっては無くてはならない商店街だ。つまりかけがえがない。
うちの食材はこの商店街に負うところが多い。
浅草にジャスコはない。
そして千束通りには「不可視なもの」としての猥雑さがある。


■21日家人のカール工場見学のお土産。

カール鉛筆を除いて明治製品である。(笑)

カールの賞味期限は6ヶ月。
つまりこのカールは当日(3月21日)に作られたものである。
当然に食べてみたが出来立てというプレミアムの違いは分からなかった。

家人の解説によると、カールにはカールおじさんとカエルの形をしたスペシャルがあるらしい(と工場で説明を受けてきたらしい)。
それが入っている確率は40袋にひとつらしいが本当か嘘かはわからない。
今回も探したけれども見つからなかった。

しかし私はまたそれを探しにカールを買うのかもしれない。
そしたら「不可視のもの」を背後に蔵していることによってカールはささやかな「象徴価値」を帯びることになるだろう。
そして私はカールおじさんの戦略にまんまとはまったことになる。

ささやかに踊るのである。

でもいいじゃないか。
私は(何度も言っているように)そんないい加減さを孕む資本主義が好きだ。

2006/03/22 (水)  
【男時、女時、無限小】

午前7時起床。浅草は薄曇。
なにか頭がはっきりとしない。

昨日はWBC決勝「日本対キューバ戦」をテレビ観戦していた。
優勝おめでとうである。

しかし点差程に楽なゲームではなかったと思う。
キューバは本当に強かったし、技術的な差など無いに等しいのだろうと思う。

ただ勝負を決めたのは「流れ」のようなものを日本がうまく掴かんだ、ということじゃないのか。

特に昨日のような一発勝負ではゲームの中に波(流れ)があることがわかりやすい。
実況でも「流れを断ち切る」というような表現が使われていたかと思う。

それは世阿弥の言葉を借りるなら「男波(おなみ)と女波(めなみ)」であろう。

繰り返された韓国戦でも感じたことだが、このレベルでの勝負というのは「流れ」を見て取りやすいと思った(サッカーに比べると野球はそれが見て取りにくいのかと思う)。

『又、時分をもおそるべし。こぞ盛りあらば、今年の花無かるべき事を知るべし。時の間にも、時男・時女とてあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、必ず悪き事、又あるべし。これ力無き因果なり。』(『風姿花伝』)

男時(おどき)とは「ついているとき」であり、女時(めどき)とは「ついていないとき」である。
努力すれば報われるという因果とは別に、また人の力ではどうしようもない時のめぐり合わせがある。

昨日のゲームの中ではそれは周期の短い波動としてあった。
どちらのチームにもチャンスのイニングは必ずやってくる。

WBCの予選から決勝までをみても波動がある。
メキシコが米国に勝ったときから男時は日本に来てていた。
王監督はそれを見事に手繰り寄せてみせた。

私はその波を「無限小」(ライプニッツ)と理解したい誘惑に駆られる。
私は精神論は語らないが唯物論としいての「無限小」は語る。(笑)

しかし何を微分したところでそんなものは見えやしないので、よほど数学に詳しい方意外にそれを理解いただいたことはない(まあ、詳しい方からも反発を食らうのが常だが…)。

でも見えなくて良いのである。
それは感じるものだものね。


2006/03/21 (火)  
【妙】

午前5時50分起床。浅草はくもり。
家人はカール工場見学へ埼玉県へ。
私は自宅で仕事兼留守番(命の洗濯)。

昨晩の我家のブーム。
楽天プライズ
 → http://prize.rakuten.co.jp/

 

要はスロットル懸賞であって、やることと言えば左クリック(ドラムを回す)だけでしかないという退屈。
しかし当たりのタイミングには妙がある。

続けているとコンドラチェフ波動のような波を感じる。
これに魅せられていた。

コンドラチェフ波動
 →http://www.momoti.com/data/kondora.htm

私はギャンブルはやらない。
人生そのものがギャンブルのようなものなので他で運を使いたくない、という程度の理由でだ。

しかし株価の動きは好きだ。
そこにはやはり妙があると思うからだ。

「妙」とは(ここでは)「人力の及ばない美しい動き」というような意味だ。

しかしその美しい動きは私の勝ちを意味しはしない。
ただ、いいときもあるしわるいときもある程度の理解である。

だから好調なときには悪い時が来ることを予感し、苦しいときには良いときがくることを信じている。

ただいつでも転がる骰子のようにあろうとしながら(創造力を働かせながら)。
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