自身が開いたブックカフェ「フルハウス」で、店や地域との関わりを振り返る柳美里さん=南相馬市小高区
自身が開いたブックカフェ「フルハウス」で、店や地域との関わりを振り返る柳美里さん=南相馬市小高区

 2011年の東京電力福島第1原発事故は、原発への規制や防災の在り方を根底から変えた。それから2023年3月で13年となる。事故を起こした東電はこの間、全7基が停止した柏崎刈羽原発の再稼働に向けた手続きを進めてきた。しかし、その後もテロ対策上の重大な不備などが発覚。問題が明らかになる度、新潟県民に不信感を与えてきた。発電した電気の大半を首都圏に送る柏崎刈羽原発は、県民に何をもたらしたのか。再稼働を巡る議論に焦点が当たっていく中で、長期企画「誰のための原発か 新潟から問う」を展開し、考えたい。原発事故後に福島県南相馬市に移住し、住民に寄り添いながら福島の現状を発信してきた芥川賞作家の柳美里さん(55)に、福島の受難や新潟県で再稼働の議論が本格的になされる前に訴えたいことを聞いた。

※取材は2023年12月。24年1月1日の朝刊に掲載した記事を公開しています。

<<福島・南相馬市に移住、柳美里さんの思いは?

-柳さんは原発事故の直後から、繰り返し被災地を訪れています。福島との関わりはあったのですか。

 「母が新潟との県境にある福島県只見町出身。子供の頃、只見にある田子倉ダムの湖の前で、ダム建設のため湖に沈んだ集落の話を母から聞いた。母は、目には見えない中で、あそこにお寺があったなどと話した。『ここには悲しみが眠っている。あまり近づくと悲しみに引っ張り込まれる』と。湖に沈んだ集落を見ることはもうできない。でも原発事故の被災地は、警戒区域として閉ざされる前ならば行くことができると考え、通うようになった」

柳美里氏

-2012年から約6年間、福島の臨時災害放送局でラジオのパーソナリティーを担当しました。放送局側からの依頼で始め、被災者600人の心のうちを聞き取りました。

 「番組タイトルは『ふたりとひとり』。1人に出演を依頼し、もう1人連れてきてもらう形にした。大体一番親しい人同士で来るので、出会いを聞く。東日本大震災以前の話が聞け、会話の中からかつての街の姿が見えてくると思った」

-大切にしたことは何ですか。

 「本当につらい思いは1人では負い切れない。悲しみの水かさが増して、自分の中で溺れてしまう。話したいことを話してもらい、ただ聞くということを大切にした。『背中に張り付いているコールタールが軽くなった』と話してくれた人もいた」

柳美里氏

 「震災後、首都圏には...

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