最後の人 詩人 高群逸枝 石牟礼道子著
対象に飛び込み混ざりあう魂
題名から推察すると、高群逸枝の評伝かと思う。読み始めると、だいぶ違う。整理されたものではなく、一冊の姿としては混沌としている。しかし実に石牟礼道子らしいアプローチで、高群の根源に迫っていく。自らが透明なものとなって対象へ飛び込み、対象と混ざりあうのだ。渾身(こんしん)で水俣を鎮魂した『苦海浄土』を思い出してみればよい。このひとが、かの書に取り組み始めたのと、高群の『女性の歴史』に大きな衝撃を受け、高群にいよいよ強く惹(ひ)かれていったのとは、まさに同じ時期、エネルギーの横溢(おういつ)した三十代の後半だったという。
二人は、同郷人(熊本)として、土地の記憶を共有している以前に、なにか魂の開かれ方のようなものが同じであるという印象を持つ。石牟礼は書く。「逸枝は、あらゆる意味でわたしたちの時代の前の、まだ夢見てさえもいた時代の、いわば終りのときの揺籃(ようらん)として育てられた」と。「彼女を育てた風土のこころが、たぶん一生欠損することなく彼女自身の世界観をなしていた」とも。その風土とは、「古代九州的山野がそっくりそのまま生きていた火の国の山系」であった。
そして高群の傍らには、彼女を支え続けた夫、橋本憲三氏がいた。本書中、大黒柱として立っているのは、逸枝よりむしろ彼である。彼が語る高群像は天才であると同時に官能的。「彼女の舌の色が、非常にうつくしくあかく、それは、この世のものともおもえず、やわらかでした」
残された氏が暮らす、世田谷の「森の家」。石牟礼は一時、そこに仮寓(かぐう)し、氏と交流を深めながら、彼の内なる逸枝像を引き出していく。かつてここに、「面会お断り」の札をかけ、高群は女性史研究に没頭した。そんな妻の補佐役に徹した夫。美しい夫婦愛と片付けてしまうと、しかしどこかに違和感が残る。なんというお人だろうと思う、この橋本氏という人は。読むうちに、膨らんでいったのは、橋本氏への畏れだった。
題名の「最後の人」とは、その下に高群の名を冠しながらも、ついにはこの、影の人、橋本氏をさすようである。逸枝とともに彼自身を、柔らかな光で照らす本だ。
(詩人 小池昌代)
[日本経済新聞朝刊2012年12月2日付]