千体国宝に、千鈞の重み 三十三間堂(もっと関西)
時の回廊
ほぼ等身大で細身の千手観音立像が約1000体。いずれも12面42手を備え、持ち物の細部、指先に至るまで気品をたたえている。堂内を埋め尽くすように金色の仏が整然と居並ぶさまは圧巻だ。
京都・三十三間堂。3月9日、文化審議会は千手観音立像1001体全てを国宝に指定するよう答申した。実際には東京国立博物館に3体、奈良・京都の国立博物館に各1体ずつ寄託されているため、三十三間堂にあるのは996体。
みな違う面差し
「第一尊」「尊宿尊」「法眼尊」「智行尊」……。1001体の一つ一つに名前がある。寄せ木造りの漆箔押しという造作は一緒だが、たしかによく見ると面差しは一つ一つ異なる。「丹念に探せば、もう一度会いたい亡くなった人の顔が見つかるといわれる」。三十三間堂を管理する妙法院門跡の杉谷義純門主は語る。
堂中央に安置される中尊・千手観音坐像(ざぞう)は一足先に1951年、国宝に指定。こちらを主役とすれば、左右両翼に500体ずつ居並ぶ立像はさしずめ脇役の重要文化財だった。それが晴れて主役級に昇格した。1001体の一括指定は重量級ともいえ、千鈞(せんきん)の重みだ。
実際、1973年に修理に着手し、国宝に一括指定されるまで、45年かかった。この間、妙法院の門主は6代交代。学術的にも調査が進んだ。
「調査できれいになり、お顔もすっきりと朗報を喜んでいるように思える」と杉谷門主は笑う。
実際、著名寺院の仏像は毎年「お身ぬぐい」というホコリ払いがあるが、ここ三十三間堂では立像が密集しているため、細部の破損を避けるべく清掃はしていないという。
正式には蓮華(れんげ)王院本堂という。もともとは平安末期に後白河天皇が退位後の移住先として造られた法住寺殿の一角。法住寺殿は鴨川河岸から東山の麓にかけ、南北は六条通からJR東海道線あたりまで広がる一帯を占めていた。
15年で877体復興
平安末期の権力者、平清盛が増進し、三十三間堂は1164年に完成。しかし1249年に火事で焼け落ちる。このとき千体仏のうち124体が救出された。焼失後も堂の再建、うしなわれた観音像877体の復興を急ぎ66年に完成する。
このとき運慶・快慶らで知られる慶派をはじめ院派、円派という当時を代表する奈良・京都の仏師集団3派がほぼ総動員され、約150人が造像に関わった。
規格品の量産は工業国・近代ニッポンのいわば「お家芸」だが、この時期はまだ一体一体が手作り。それでも15年という驚異的な早さで、しかも手を抜かずに造り上げたのは、仏師の気迫が感じられる。
三十三間堂の名は内陣の柱と柱の間が合計33あることから付けられた。「観音菩薩(ぼさつ)が民衆をお救いになるとき、33態に姿を変えるという信仰があり、これに根ざしている」と妙法院門跡執事の田渕清晃管理部長が説明する。
1001体の千手観音にも意味があるという。「1000が数え切れないほどの数量を意味し、それを1つ超えるともはや『無限』と昔の人はとらえた。そんな仏教的世界観を投影している」(田渕さん)
つまり設計段階から、三十三間堂は観音菩薩の慈悲をフルスケールで表したものなのだという。
文 編集委員 岡松卓也
写真 小川望
《交通・ガイド》京阪七条駅から徒歩5分。長さ120メートル、奥行き22メートルの細長い建築は、端に立つと軒や敷居など直線が収束していくように見える。空間特性を生かし、江戸時代は尾張と紀州両藩による通し矢の競技が行われた。南端から北端へ一昼夜かけて矢を射続ける。この故事にちなみ、毎年1月に弓道大会を開いている。