岩手県宮古市・田老 「万里の長城」は残ったが…
明治(1896年)、昭和(1933年)と続けて大津波による壊滅的被害を受け、「万里の長城」と呼ばれる長大な防潮堤を築いた岩手県宮古市田老地区(旧田老町)。この防潮堤は、東日本大震災の大津波に対してどう機能したのか。
日経コンストラクション誌の記者2人は、2011年3月24日に開始した被災地取材で、この田老地区を最初の目的地に決めた。町に入ると、7~8割ほどの建物が倒壊していた。一方、町を囲う防潮堤は、健全なように見える。津波は海面から10mの高さを誇る防潮堤を越え、町を襲った。
二重の防潮堤の一端が崩壊
田老地区の防潮堤は二重になっており、上空から見るとX字状をしている。中心点から北方向と西方向にそれぞれ延びる陸側の防潮堤は、1934年から旧田老村が建設を始め、1958年に完成。その後、旧建設省が改良工事を施した。中心点から東方向と南方向にそれぞれ延びる海側の防潮堤は水産庁が整備した。1978年頃までに全体が完成している。
市街地は内陸側の防潮堤の内側だけでなく、海側の東方向に延びる防潮堤の内側にも広がっていた。東方向に延びる防潮堤は津波で破壊され、内側の集落は壊滅的な被害を受けた。
ハードに依存せず防災教育にも熱心
海側の防潮堤の一方を除いて、防潮堤は見た目は健全な形で残った。しかし、津波は防潮堤を越えて町を襲った。この防潮堤が津波被害を軽減したかどうかは分からない。
防潮堤が津波を一時的に食い止め、避難の時間をかせいだと考えることはできる。一方、防潮堤を越流した津波が流れを速めて威力を増したと考えることもできる。防潮堤の効果を検証するのは、行政や研究者の今後の役割になる。
田老地区を歩いて回ると、至る所で津波への注意を喚起する看板を目にする。「万里の長城」に代表されるハード対策に加え、避難などのソフト対策や防災教育にも熱心なことがうかがえる。
旧田老町は昭和三陸津波の70周年に当たる2003年3月3日、「津波防災の町宣言」を発表した。それには、「近代的な設備におごることなく、文明とともに移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」とある。まさに、津波は「近代的な設備」を越えてやってきた。
(日経コンストラクション 渋谷和久)
[ケンプラッツ 2011年4月1日掲載]