◆ 瀬古利彦さん
1956年三重県桑名市生まれ。四日市工業高校ではインターハイ800m・1500m、国体1500m・5000mの両大会で2年連続2冠。1浪して早稲田大学に入ると、箱根駅伝では4年連続で「花の2区」を走り、3・4年時に区間新記録を樹立した。中村清監督の勧めでマラソンにも取り組み、3・4年時に福岡国際マラソンを連覇。卒業後はエスビー食品に進み、マラソン通算15戦10勝という圧倒的な戦績を誇り、五輪3大会で代表に選出された。引退後はエスビー食品監督と母校早稲田大学コーチを兼任。第69回箱根駅伝優勝、全日本大学駅伝4連覇など母校の躍進に貢献した。現在はDeNAアスレティックスエリートアドバイザー、日本陸連ロードランニングコミッションリーダーとして、日本の長距離界を牽引。多くのレースで解説を務め、箱根駅伝でも1号車・放送センター解説としておなじみとなっている。


高校の頃までは、箱根駅伝は陸上雑誌で読んだくらいでした。地元・三重の中日新聞では小さく載っていたくらいでしたね。インターハイで2種目連覇したり、高校駅伝で区間賞を獲ったりしても、あまり意識はしていませんでした。大学入学を考えた時に「箱根駅伝という大会があるよ」と言われて初めて「すごい大会があるんだな…」と思ったくらいです。
当時は日体大や大東大が強かった時代。親の勧めもあり早稲田を受けましたが受験に失敗して浪人。それでアメリカ(南カリフォルニア大学)に留学するのですが、ホームシックにかかって10キロくらい太ってしまいました。向こうでは「早く帰りたい」とずっと泣いていましたよ。

一浪してようやく早稲田に入り、そこで出会ったのがその年に就任した中村清監督です。私は浪人生活で体重が増えていたのに、会ってすぐ「君はマラソンをやれば世界一になれるから、今日からマラソンをやりなさい。私を信じなさい」と言われました。中村先生は私の高校3年時のインターハイを見て、最後のキレに「これならマラソンで世界一になれる」とすぐに思ったそうです。1浪して早稲田に入った私と、就任1年目の中村監督。この出会いは運命でしたね。もし浪人していなかったら、会えていなかったかもしれません。

そこから中村先生との二人三脚が始まりました。
入学したときから「4年生でモスクワ五輪代表をめざす」と言われ、2年生から先生の家に下宿をさせてもらいました。節制もしました。レース前の調整では「昼飯を食べると体が重くなる」と言われ、昼食はパンを半切れくらい。腹が減った…と思いながら練習に明け暮れたのも、いい思い出です。2年生になると、12月の福岡国際マラソンから正月の箱根駅伝という連戦になりました。これにはOBから「何をやっているんだ」という反対意見も多かったそうです。それでも中村先生が「箱根も必ず走らせますから」と説得してくれたのだと思います。

箱根駅伝では4年連続2区を走りましたが、1年生の時はケガもあり、きつかったですね。当時の2区は距離が25キロでしたから。最初は何人か抜きましたが、ラストの戸塚の坂がきつくて…。結局、1年の時は区間11位。次に待っている3区の選手に申し訳ない。少しでも早くたすきを渡したい、ただそれだけで走りました。レース後記者に、「瀬古君、大したことなかったね」と言われたのが悔しくて、それがずっと頭に残って「来年はやってやる。絶対に言わせないぞ」という思いが、その後の原動力になりました。

箱根駅伝は、早稲田に入った以上は走るのが当たり前。駅伝もマラソンも両方走る事しか考えていませんでした。中村監督のためにという思いもありましたし。私はいろいろな大会に出られましたが、他の9人は1年間ほぼ箱根駅伝だけのために走っている。私は寮に入らず、先生の家に下宿して特別な食事を食べさせてもらっている。だからとにかく期待に応えたいと思っていました。その環境がなかったら、今の私はないと思っています。

箱根駅伝が無かったら、日本からこんなにマラソン選手は生まれていないでしょう。選手の数だけならケニアやエチオピアよりも多いのではないでしょうか。100年前に金栗四三さんが「箱根駅伝から世界へ」と作った大会が、実を結んでいますよね。ひと頃は「箱根駅伝はマラソンに悪影響だ」と言われた時代もありましたが、その頃は指導者が追い付いていなかったのだと思います。今は箱根に勝つためだけの練習ではなく、その先を見据えた指導者が増えてきましたね。私も力のある選手には「箱根で終わるな、世界をめざせよ」と言ってきました。私が中村先生に教えられたことを伝えてきたつもりです。櫛部(静二・城西大監督)や花田(勝彦・早稲田大監督)も同じように指導してくれていると思います。

解説者としての立場では、なるべく選手たちを褒めたいと思って放送しています。一生懸命頑張っているのは痛いほどわかるので。いい走りをした選手もそうですが、たとえいい走りじゃなくても、少しでも良いところを褒めて、次への励みにして欲しい。思い通りに走れない選手にも、解説を通してエールを送りたいと思っています。

箱根駅伝が無かったら今の私はありません。箱根が私を育ててくれたと、心から思っています。それにしても、よく100回まで来ましたね。戦争や災害を乗り越えて。やっぱり箱根駅伝は日本の宝、永遠に不滅です!