満州文化物語(8)

芥川賞作家・清岡卓行と、自死した後輩 戦争で失われた「故郷」への強い想いとは… 

【満州文化物語(8)】芥川賞作家・清岡卓行と、自死した後輩 戦争で失われた「故郷」への強い想いとは… 
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芥川賞作に大連の想い

《大連の五月は…こんなに素晴らしいものであったのかと、幼年時代や少年時代には意識しなかったその美しさに、彼はほとんど驚いていた》

前回、旧制旅順高のくだりで紹介した作家で詩人の清岡卓行(たかゆき=平成18年、83歳で死去)。芥川賞受賞作『アカシヤの大連』(昭和44年下期)には外国からの租借地を故郷とする矛盾に苦悩しつつも、大連への迸(ほとばし)る郷愁が綴(つづ)られている。

清岡は大正11(1922)年、日本統治時代の大連に生まれた。父親は満鉄技師。大連一中(旧制)から昭和15(1940)年に新設された旅順高(旧制・関東州)の1回生として入学するも、わずか3カ月で退学、フランス文学を本格的にやりたくて一高(同・東京)を受け直す。旧制高校でフランス語を第一外国語とする「文丙(ぶんぺい)」クラスがあった学校は一高など、わずかしかなかった。

一高から東京帝大仏文科に進んだ清岡は昭和20年春、約10万人が一晩で犠牲になった東京大空襲の直後、戦争から逃れるようにして大連へ舞い戻っている。日本近海の制海権は既に米軍に奪われつつあり、危険を賭(と)しての帰郷だったが、大連は拍子抜けするほど戦争の影がなく、食料や酒も豊富な「別天地」。清岡は実家で昼ごろ起き、散歩や読書、レコード鑑賞三昧の暮らしを送る。

僕にはもう故郷がない

終戦前の清岡の帰郷には同行者がいた。大連一中-一高を通じた後輩、原口統三(はらぐちとうぞう)である。満州の奉天(現中国・瀋陽)や大連で少年時代を過ごした原口も、この満州の地に、強い想(おも)いを抱き続けていた。

原口は終戦直前になってひとり東京へ戻る。そして、敗戦を経た昭和21年秋、原口は制服のポケットに石を詰め込み、逗子の海岸で入水自殺してしまう。まだ、19歳だった。

原口の遺稿『二十歳のエチュード』にこんなくだりがある。

《故郷はない。それなのに、僕は己の故郷以外の土地には住めない人間なのだ》

故郷の先輩であり、同じフランス文学を志す徒として、原口と強い絆(きずな)で結ばれていた清岡は後に『海の瞳〈原口統三を求めて〉』でこう書いた。

《原口統三の場合、〈風土のふるさと(※大連)〉は、敗戦によって完全に失われ、しかも、祖国(※日本)の風土にはまだなじむことができていなかった。〈言語のふるさと(※日本語という精神)〉だけが、自分と密接な関係にあった》。つまり、(租借地という)危うくて矛盾に満ちた土台の上に愛すべき故郷は存在していたのだ、と。

だが、これは戦後の後付けの匂いがしないでもない。「満州は日本が中国から奪い取ったのだ」などという人がいるが、戦前・戦中の大連の日本人にそんな意識は毛頭なかっただろう。少なくとも中国人の大多数を占める漢民族にとって満州は、異民族(清をつくった女真族など)の住む土地でしかなかった。

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