話の肖像画

元バレーボール女子日本代表・栗原恵(3)島で夢見たバレー選手

小学生のころは、夏になると地元・能美島の海で毎日のように遊んでいた=平成5年ごろ
小学生のころは、夏になると地元・能美島の海で毎日のように遊んでいた=平成5年ごろ

《瀬戸内海に浮かぶ能美島(広島県能美町、現・江田島市)で生まれ育った》

海も山もある自然に囲まれた島で、穏やかにゆっくりと時間が過ぎる雰囲気が今でも好きです。小学生のころは島内の名勝・入鹿明神社の前の海岸で泳ぐことが大好きで、夏休みになると毎日のように父に連れて行ってもらいました。

《両親の影響でバレーボールには幼少期から親しんでいた。本格的に競技を始めたのは小学4年生のとき。地元のスポーツ少年団で週2、3回、練習に励んだ》

父はママさんバレーチームの監督、母はその選手だった影響もあり、保育園のときから3歳年上の兄と一緒に両親と練習会場に行き、2人でパス練習をしていました。ボールを打つのが楽しくて、本当はもっと早くバレーを始めたかったんですが、少年団は小学4年生から。当時は「やっと始められた!」とうれしく思ったことを覚えています。

弱いチームで、そのなかでも決してうまい選手ではありませんでした。それでもボールに触れることがうれしくて、練習は楽しみでした。当時からみんなよりも頭一つ大きく、身長だけはあったので、ずっとアタッカーをやらせてもらっていました。少年団での練習だけでは物足りず、自宅の庭にボールをつるしてもらい、自宅でもスパイクの練習をしていました。

《地元の能美中学校に進学するころ、身長はすでに170センチ台後半になっていた。恵まれた体格が関係者の目に留まり、2年生に進級する際に兵庫県姫路市の大津中から声がかかった。全国大会に毎年出場する女子バレーの強豪校だ》

当時の私は、日本代表に入る少女を描いた漫画が大好きで、その影響で自分もバレー選手になりたいと思っていました。ところが島のチームは1回戦を勝つのがやっと。大津中には多分、身長の大きさだけで注目してもらったと思いますが、「もっと上手になりたい」と思っていたタイミングでもありました。

「まずは練習を見に来ませんか」と言われ、週末に父と2人で大津中の練習を見学に行きましたが、「本当に同じ中学生なのか」というのが第一印象。同学年にこんなにうまい人たちがいることに衝撃を受けました。ジャンプ力やスパイクのキレや強さ、練習の厳しさなど島のレベルと全く違い、圧倒されました。

見学後、最初は「ここに入れば上手になれるかな」と希望に満ちた思いだったのですが、気心の知れた島の友達と離れなくてはいけないとの思いもわいてきました。1学年が30人の1クラスというアットホームな環境から、1学年7クラスもあるマンモス校に入るのには勇気も必要です。父も母も仕事をしていたので、行くとなれば親元を離れた単身生活になるし、そこまでしてバレーをやる覚悟が自分にあるのか、と迷いました。現実が一気に押し寄せて、毎晩のように行われた家族会議ではただただ泣いてばかりで、見かねた父が「そんなに泣くなら行かなくていいよ」と言って、いつもそこで話が終わる。転校するなら「すぐにでも」と言われていましたので、決断までの時間はほとんどありませんでした。(聞き手 川峯千尋)

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