伝えたい橋

「急がば回れ」の語源 天下人・織田信長が本格整備 滋賀・瀬田の唐橋

「急がば回れ」の語源にもなった瀬田の唐橋=大津市
「急がば回れ」の語源にもなった瀬田の唐橋=大津市

琵琶湖(滋賀県)から唯一自然流出する河川・瀬田川に架かる「瀬田(せた)の唐橋(からはし)」(大津市)。この地は日本書紀にも登場する交通の要衝で、古くは船を何そうも並べてつなぎ橋とするなど数々の架橋が繰り返され、戦乱の時代には「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。琵琶湖経由の水路ルートよりも、瀬田の唐橋経由の陸上ルートの方が早いとする「急がば回れ」のことわざの語源としても有名。いまも現役の橋として地域に親しまれている。

交通の要衝

最終的に淀川に合流して大阪湾に注ぐことになる瀬田川の起点に架かるのが瀬田の唐橋。この地は交通の要衝で、その歴史は遡(さかのぼ)れば古い。

日本書紀などによると、第14代・仲哀天皇の皇后、神功(じんぐう)皇后に反乱した忍熊(おしくま)皇子が皇后側の軍に攻められ、瀬田の渡しで入水し自害したとされる。ただ当時はまだ橋がなく、渡し船だったとみられる。

橋が架けられた詳しい年代は不明だが、近江大津宮遷都(667年)の頃とも推定されている。

壬申の乱(672年)では、大海人(おおあまの)皇子と大友(おおともの)皇子の最後の戦いの場となり、大友皇子側が橋板を外して待ち構えたが、大海人皇子側に突破され、滅びたと伝わる。

この地に本格的な唐橋を架けたのは戦国武将・織田信長とされる。本能寺の変(1582年)の直後、明智光秀が信長の拠点・安土(滋賀県)を攻めるために橋を越えてくるのを阻止するため、信長側についた山岡景隆が唐橋を焼いたと伝わる。

目的に応じ

そんな数々のエピソードにあふれた瀬田の唐橋は、ことわざ「急がば回れ」の語源としても有名だ。

琵琶湖の東岸から西岸の京都に向かう際、船で行くと距離的には近いが、比叡山(標高848メートル)から吹き下ろしてくる強風で船が押し戻されたり、転覆したりするなど危険も多く、結局は瀬田の唐橋経由の陸上ルートの方が早く、安全で確実だという意味で広く普及した。

ただ、瀬田の唐橋をめぐっては実際、目的に応じて軍事の場合は陸路、平時の場合は水路など、うまく使い分けられていた可能性が高いという。

瀬田の唐橋の欄干
瀬田の唐橋の欄干

県文化財保護協会によると、琵琶湖でも特に南半分(南湖)は水深が浅く、大型の船舶を係留することが困難なため、古くから小規模な船が多用され、湖畔には統率されていない中小の港が群立していた。

そのため軍事の際、大軍勢が船で一斉に移動しようとすれば、方々の港に声を掛けて船を集める必要があり、対岸にピストン輸送している間に敵に囲まれる恐れもある。そのため陸上移動の方が断然有利だ。

一方、個人的な旅行など平時の際は、「瀬田へ回れば三里の回り ござれ矢橋の舟にのろ」という歌もあったほどで、水上ルートの方が好まれていたと考えられている。

実際に検証

とすれば「急がば回れ」ということわざは本当に正しいのか―。そんな疑問に答えるため、実際に琵琶湖上の水路と湖岸の陸路を移動し、検証した専門家がいる。「ことわざの現場を知れば、より深く意味が分かる」が持論の池田修・京都橘大学教授(国語教育学)だ。

かつて旅人を船が出る渡し場へと導いた琵琶湖東岸の矢倉道標(草津市)付近を出発点とし、西岸の県立琵琶湖文化館(大津市)付近までの移動時間を比べる検証で、平成28年、学生らとともに水路と陸路の2ルートを移動してみた。

まずは7月、「二度と経験したくない」と振り返るほどの厳しい炎天下、水分補給や休憩などを挟んで瀬田の唐橋を経由し、目的地まで歩き続けた。かかった時間は約4時間。

続いて8月。かつての水路移動に近い形という理由で2人乗りカヌーを使い、移動した。

実験した日は風速3メートル弱と比較的穏やかで、スイスイと移動。結果は1時間15分ほどと、陸路より圧倒的に早く着いた。

この結果だけをみれば、「急がば回れ」は正しくないように見える。しかし、池田教授は「安全性を考慮し、あえて波の穏やかな夏場の時期に検証しました」と明かす。

池田教授によると、琵琶湖周辺は天気が急変しやすく、特に冬や春には天候が荒れやすい。そうなれば船の運航は中止となり、回復するまで船ルート利用者は足止めされる。

「だとすれば結局、陸路の方が早いという考えも理解できる」と池田教授。さらに「文献もなく、確かなことは分かりませんが、歩いて京都に早く着いた旅人が、『急がば回れだよ』と自慢したようなことは心理的に十分考えられる」と指摘。「性急に進めるより地道な手段を好む日本人の心情にも合致し、ことわざとして普及したのでは」と推測してみせた。(土塚英樹)

瀬田の唐橋 大正13年に、それまでの木の橋から鉄とコンクリートの橋に架け替えられた。大橋と小橋で構成され、全長約223メートル、幅12メートル。高欄(こうらん)などの塗装が劣化したため平成21年度に塗り替え工事の入札が公告された際は、従来のクリーム色とする案や朱色に変更する案などが浮上し、住民を巻きこんだ論争に発展。最終的に、木造橋をイメージできる「唐茶」を基調とする色合いで決着した経緯がある。

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