<考える広場>YMOとは何だったか?

2023年6月20日 07時20分
 世界的な人気を博した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」。細野晴臣さん、高橋幸宏さん、坂本龍一さんという卓越した才能が生み出した音楽は、さまざまな影響を与え続けている。高橋、坂本両氏亡き今、YMOの唯一無二の魅力について思いをはせる。

<イエロー・マジック・オーケストラ> 1978年、デビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を発表。「テクノポリス」「ライディーン」などを含む2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」(79年)が100万枚を超える大ヒットとなる。この年の欧米ツアーに、渡辺香津美さん、矢野顕子さんらが出演した。83年に「散開(解散)」宣言するも、93年にアルバム「テクノドン」を発表。東京ドームで「再生」コンサートを開く。2000年代以降、高田漣さんら若手ミュージシャンともライブで共演した。

◆リスクに耐えた演奏力 ギタリスト・渡辺香津美さん

 僕がYMOのワールドツアーに参加することになったのは、細野さんの作戦だったと思います。彼には、海外、特に米国の聴衆は、YMOの音楽を理解できないのではという懸念があったのでしょう。「ジャズのアドリブをふんだんに聴かせてくれ」と言われました。そこをきっかけに自分たちの音楽を受け入れてもらおうと考えていたのだと思います。
 でも、生のギターの音ってすごく実体感があるというか、生々しい。そのままYMOにシフトすると、水と油みたいになってしまいます。YMOのサウンドに合わせるべくクールでタイトな音が出るギターを特注しました。演奏面でも、譜面通りに弾くとジャズマンは「かっこ悪い」と思いがちなのですが、四分音符をそのまま弾いて音楽的に成立させるために、音色やタイミングをじっくり吟味するのは、自分にとって新鮮で面白い体験でした。
 (共演した)松武秀樹さん(シンセサイザープログラマー)とは「電圧で音程が変わるシンセサイザーを海外に持っていって、コンセント一つ抜けたらおしまいという中でよくやった。リスキーなんてもんじゃなかったなあ」という話をよくします。国内ツアーでは、実際データが全部飛んでしまって、シーケンサーが機能しないことがありました。回復するまで「デイ・トリッパー」か何かを演奏した記憶があります。みんな弾けるのだから、何かあれば生で演奏すればいいという信頼感がありました。
 五十歳を過ぎて分かったのが(ツアーを企画した)村井邦彦さん(アルファレコード創設者)のブランディングのすごさです。ニューヨークやロサンゼルスの超一流のホテルを借りて、会見を開き、ライブ会場にリムジンで降り立つ。「日本からすごいスターが来た」と思わせる計算された演出なのですが、当時の自分には少し照れくさかったです。現地には自分のジャズ仲間もいましたからね。
 坂本さんは、リムジンに乗った時点でもうなりきっていましたけれど、僕自身も今振り返ると相当ハイになっていたと思います。向こうへ乗り込んでいってだれも聴いたことがない音楽をやるというのは、とてつもなく不安だったし、なりきることによって精神の均衡を保っていた面がありました。YMOを成立させるために、自分自身を変えていった部分が、3人にもきっとあったのだと思います。(聞き手・中山敬三)

<わたなべ・かずみ> 1953年、東京都生まれ。71年に「インフィニット」を発表。「17歳の天才ギタリスト」と評される。坂本龍一さんのファーストアルバム「千のナイフ」(78年)にも参加した。

◆知的なかっこ良さ 衝撃 音楽評論家・スージー鈴木さん

 YMOの2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が発売された1979年、私は東大阪の中学1年生でした。1979、80年の初期YMOの大旋風はすさまじかった。音楽評論では理屈抜きに気持ちが良い、踊りたくなるような感覚を「腰が動く」と表現しますが、私はそれを、同アルバム収録の「ライディーン」で初めて体験しました。
 当時の日本の音楽シーンはアリスや松山千春らニューミュージックが大流行。自ら作詞作曲し、フォークギターを手に若者の恋愛や生き方を切々と歌うのですが、小中学生にはまだ理解しにくい世界観でした。対して「ライディーン」はシンセサイザーのピコピコした音で、こんなにキラキラした音楽を聴いたのは初めてだった。気持ちが良いし、歌詞もなくて分かりやすく、本当に衝撃でした。
 あらゆる層に浸透し、同アルバムはミリオンセラーを記録しました。YMOは知的でスタイリッシュなグループ。ファンのコア層は文化系の人たちでしたが、横浜銀蠅(ぎんばえ)やアナーキーを好んだ東大阪のヤンキーまでもがYMOのとりこになった。学生服の詰め襟を内側に折ってYMO定番の「赤い人民服」風にして「ライディーン」に合わせて当時はやっていたロボットダンスを踊っていましたね。
 もみあげを切りそろえたテクノカットを、誰がいつするかも非常に重要な問題で(笑)。「隣の中学校でテクノカットしたやつがおる」と聞いて見に行きました。当時まだ20万円ぐらいしたシンセを買ったYMO大好きの友達がテクノカットにしたら、ヤンキーにかなり激詰めされたので、私はしませんでしたが…。音楽だけでなくファッションやヘアスタイルまで含めたその影響力の幅広さは、日本の音楽史上、屈指でしょう。
 YMOのメンバーはみな知的で、「音楽なんて楽しけりゃ良い」というロックバンドが多かった中、「知的であることはかっこ良いのだ」と教えてくれました。私が今、音楽の素晴らしさを理屈っぽく説明したり、文化を語りたいと思うのは、YMOからの麻酔がまだ効いているのかもしれません。
 機械の自動演奏と人力の演奏をいかに気持ち良く融合させるか。今でこそどのアーティストもやっていますが、それを最初に始めたのがYMO。電子楽器との奇妙な出合いを面白がった人たちから日本の、世界のデジタルミュージックは形成されたのです。(聞き手・飯田樹与)

<すーじー・すずき> 1966年、大阪府生まれ。小説家、ラジオDJ。著書に『桑田佳祐論』『平成Jポップと令和歌謡』など。最新刊は、会社員時代の経験を踏まえ仕事術を紹介する『幸福な退職』。

◆変幻自在 天才の三角形 音楽家・高田漣さん

 初めて共演したのは2007年のパシフィコ横浜(横浜市)でのライブで、お三方が並んでいる後ろで演奏しました。3人そろう時は舞台上手が細野、センターに高橋、下手に坂本と位置が決まっていて、そのように立つだけで周囲にとてつもない緊張を生むんですよ。YMOが背負っている巨大なプレッシャーがある。スタジオに初めて入った時も考えられないくらい重たい雰囲気で、その場にいられないくらいでした。
 その後、3人と僕だけという瞬間を何度も過ごしましたけれど、そういう時はものすごく仲のいい音楽仲間。気兼ねなく何でも相談できる雰囲気でした。誰がリーダーということでもなく、「誰がこの仕事持ってきたの」みたいなことで毎回三角形は変わる。普通、バンドというのは独裁体制になりやすいし、場合によってはその方が長持ちする。YMOは決定的に違う印象がありました。
 ただ、超一流の集団なので、他の現場ではあり得ないほど音楽的なものごとが決まるスピードが速い。「これやろう」「これは面白くない」と。それに慣れると、他に行った時にすべてがだらだらしているように感じてしまう。面白いのは、オーダーが命令形ではないんです。教授(坂本さん)にいつも言われたのは、「もうすべてあるから、漣君のいいところを出してほしい」ということでした。
 ある時、教授から「YMOは世界一のR&Bバンドを目指していたんだ」と言われたことがありました。ブラックミュージックのある種の神秘性、リズムのマジックをどうにか記号化して、再現しようという試みが最初にあった、とおっしゃっていた。
 それがもし可能なら、黄色人種でもブラックミュージックを演奏できるということになる。だから表面上は東洋的なイメージを戯画化して見せていたけど、音楽は米国のベーシックな部分を常に追究していたのではないでしょうか。一緒に演奏するとドラムとベースのグルーブ感がすさまじく、「こういうことだったのか」とふに落ちました。
 YMOはこれからも若いリスナーがいくらでも増えていくでしょうね。それは音楽性の間口が異様に広いからです。本来は混じりにくいものが3人の中で混在し、他にはない独特の色の組み合わせと自由度がある。でも残念ながら、それを僕らがまねしてやっても無理なんですよね。天才3人がそろったすごくクレバーなゲームだったんです。(聞き手・南拡大朗)

<たかだ・れん> 1973年、東京都生まれ。シンガー・ソングライター、マルチ弦楽器奏者。2002年にソロデビューし、映画やドラマの音楽も手掛ける。父はフォークシンガーの高田渡さん。

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