医療に尽くした生涯 ナイチンゲール 先駆的な看護改革 英で生誕200年展

2020年3月16日 16時00分

ナイチンゲールが着用したワンピース。看護への献身のため地味な服しか着なくなったという=いずれも沢田千秋撮影

 英国生まれの白衣の天使フローレンス・ナイチンゲール(一八二〇年五月~一九一〇年八月)の生誕二百周年を記念した特別展が、ロンドンのナイチンゲール博物館で始まった。現代にも影響を与える先駆的な看護改革、自立した女性像、意外な素顔など、改めてナイチンゲールの功績を振り返る。 (ロンドン、沢田千秋)
 生家は裕福だった。両親のハネムーンは二年間に及び、その間にナイチンゲールが誕生した。ビクトリア朝時代、女性は学校に行けなかったが、両親の協力で読み書きを習い、看護師を夢見る。
 当時の看護師は、大量の酒を飲み、男性といちゃつくような仕事とされ、両親は反対。だが、ナイチンゲールの熱意に根負けし、二十代半ばから看護訓練を受けることを許した。
 一八五三年から二年半続いたクリミア戦争はオスマン帝国とロシア帝国の対立に英仏が関与して泥沼化。野戦病院の惨状を耳にしたナイチンゲールは、両親の人脈を使い、三十八人の看護師を組織し現地に入る。
 博物館でクリミア戦争の展示コーナーに入ると、カサカサと、何かが動く音がする。のぞき穴の中、ネズミやゴキブリ、馬の死骸が見えた。ナイチンゲールは、汚物にまみれ、床に転がって死んでいく数千人の兵士たちを目にし、衛生環境の改善に乗り出す。整理整頓、掃除、服やシーツの洗濯、下水処理、栄養価の高い食事の提供。現在の病院では当たり前のことを実践すると、兵士たちは回復し始めた。

クリミア戦争から戻った直後、34歳のナイチンゲール=フローレンス・ナイチンゲール博物館提供

 彼女が「ランプの貴婦人」と呼ばれたのもこの戦争がきっかけだった。「人は一人で死ぬべきではない」という信念のもと、看護師たちはトルコ製のランプを手に夜中も病院内を巡回。彼女たちの足音は兵士に安らぎを与えた。また、患者に家族へ手紙を書くことも推奨。回復には精神の健康が重要との考えを広めた。
 戦場でナイチンゲールは一日二十一時間働いた。その改革と献身は英国の新聞で話題となったが、彼女は名声を嫌って「スミス夫人」という偽名で帰国した。
 戦争中、殺菌処理されていない肉や乳製品を食べたナイチンゲールは、帰国後、感染症のブルセラ症を患う。率先して毒味をしたという説があり、戦争の惨劇で心の傷を負っていたともされる。発熱、不眠症、鬱(うつ)に悩み、歩行困難で、九十歳で亡くなるまで人生の大半をベッドで過ごした。
 そのため、ナイチンゲールが、看護師として現場で働いたのは、クリミア戦争での二年間しかない。彼女の主な姿は、患者に寄り添う看護師よりも、五十年間にわたり、医療、看護現場に革命をもたらした戦略家だったという。クリミア戦争後、死亡率を統計的に分析し、衛生環境によって防げた死があったと英政府に報告。衝撃を受けた政府はナイチンゲールに看護現場の改善を任せる。
 窓や照明、洗濯施設などを取り入れた病棟の建築デザインを確立。ふしだらな看護師のイメージから脱却させるため、現場に制服を導入し、看護教育を通じて看護師の質の向上にも寄与した。衛生習慣や感染症制御など医療現場の基本的方針も次々提案。生涯、三、四回のプロポーズを受けたが、看護の道を追求するため、独身を貫いたという。

ナイチンゲールが亡くなるまで過ごした部屋を再現した中で語るメリッサ・チャットンさん

 博物館のアシスタント・ディレクター、メリッサ・チャットンさん(38)は「彼女が実践した方法論は、いまだ今日に生きている。『手をよく洗いなさい』というのは、大昔にナイチンゲールが言っていたこと。病院の構造と清潔さ、衛生環境など、今では当たり前の医療環境は彼女が整えた。医療史で果たした影響はとても重要だ」と話す。
 英国では子どもたちが必ずナイチンゲールについて学ぶ。チャットンさんは「彼女は伝統的な結婚、出産観に縛られない、ビクトリア朝時代の女性では異例のキャリアウーマンだった。看護師であると同時に、女性の権利と教育の提唱者でもあった。彼女の人生は、女性だって素晴らしい功績を残せると示している」と指摘。ナイチンゲールは少女らに勇気を与える存在でもあるのだという。

関連キーワード


おすすめ情報

国際の新着

記事一覧