八名信夫さんが語った戦争の記憶 「生きとったんか」…母に抱き締められた空襲の翌朝<インタビュー前編>

2023年8月15日 06時00分
 映画やドラマで名悪役として活躍してきた俳優の八名信夫さん(87)が、終戦の日に合わせて東京新聞のインタビューに応じた。岡山空襲での壮絶な経験を語る姿からは、平和を願う思いがあふれた。進駐軍を通した野球との出合いや名門大学野球部からの脱走劇、東映傘下のプロ野球球団フライヤーズ入りと俳優への転向、東日本大震災や熊本地震で被災した子どもたちとの交流。2時間にわたる取材で波瀾はらん万丈の人生を振り返ってもらった。(聞き手=社会部長・飯田孝幸)

◆岡山空襲 燃える家からはい出てきた女の子の「助けて」

悪役俳優を代表する八名信夫さん(由木直子撮影)

 ―1945(昭和20)年6月29日未明の岡山空襲では、市街地の6割が焼け野原となりました。市の中心部に住んでいた八名さんや家族はどんな状況でしたか。
 それ以前から空襲の警戒警報がしょっちゅう鳴っていた。当時は9歳で小学生。校庭にルーズベルト(米大統領)やチャーチル(英首相)に擬したわら人形があり、竹やりで「えいっ」と突いてから教室に入るんだけど、すぐに「ウーッ」と警報が鳴って家に帰らされた。時間があると防空ごう掘り。そんなことの繰り返しで、勉強どころじゃなかった。
 29日は、おやじに「おまえら、はよ起きい」と怒鳴られ目が覚めた。家の外ではドサードサーっと音がして、そのたびに家がガラガラとゆれていた。
 当時は、俺と両親、姉の4人で暮らしていた。床下にあった防空壕に逃げようと思って畳を上げたら、おやじが「バカもんが、防空壕なんか入るんじゃねえ」と怒鳴った。空襲で投下された焼夷しょうい弾は中に油が入っていて、一帯を焼き尽くす。防空壕に逃げると蒸し焼きになってしまうことを知っていたんだろう。

空襲後の岡山市の市街地(岡山空襲展示室提供)

 岡山駅の助役だったおやじは駅に向かい、俺はおふくろや姉と後楽園に向かった。逃げる途中、燃えている家の玄関から同級生の女の子がはうように出てきてた。背中から真っ白い湯気のようなものが立っていて「助けてー」と、わめいてたんだ。怖くてね。どうしよう、どうしようって思いながらも逃げてしまった。なぜ、手を貸さなかったのかって今でも思う。

◆川の水面は見えないくらいに…「地獄のようだった」

 煙が立ち込める中、岡山市の真ん中を流れる西川に行くと、憲兵が「ここは遮断だ。おまえら通るな」と橋を止めていた。川幅10メートルぐらいの西川は死体だらけで水面も見えないぐらいだった。地獄のようだった。
 そのうちおふくろや姉とはぐれ、田んぼで気絶していたようだ。朝方、死体を集めていた消防団員が棒の先端に金属のカギがついたとび口の金属部分を俺の肩に引っかけて、引っ張った。痛みで目が覚めると、「おい、こいつはまだ生きとるぞ」ってなった。
 ―家族とはすぐに再会できたのですか。
 消防団員に教えてもらって小学校での炊き出しに行くと、行列がいくつもできていた。俺の列とは別の列におふくろと姉が並んでいた。普通なら「お母さーん」って飛びついていくんだろうけど、列から外れたら並び直さないといけなくなるから俺は行かなかった。腹が減ってにぎり飯が欲しくてねえ。ちっちゃいにぎり飯をもらってから、おふくろのところに行くと、「生きとったんか」って抱きしめてくれた。さらに「これ食べや」って自分のにぎり飯の半分をくれた。
 おやじは岡山駅と列車を守って、無事だった。

◆野球 サツマイモを芯にしたボール、座布団のグローブで

 ―戦後はどんな様子でしたか。
 8月15日は大人たちが校庭で何か聞いていたのを覚えている。みな、地面にひれ伏して泣いていた。後からそれが玉音放送だったと知った。
 間もなく、進駐軍がやってきた。子どもたちは全員校庭に並ばされて、シラミ駆除の殺虫剤を頭からかけられた。その後、校庭の隅っこでじっとしていたら、米兵がキャッチボールを始めた。野球なんて知らないから「何だあれは。面白いことしているなあ」と思った。それで家に帰って、おふくろにボールとグラブを作ってもらった。ボールと言っても、切ったサツマイモを芯にして、周りに軍手を5枚ぐらい巻き付けて縫ってもらったもの。グラブは座布団に軍手を縫い付けてもらった。これが野球との出会いだった。

6歳の時の八名信夫さん

 食べる物がなくて、子どもたちは皆腹をすかしていた。焼け跡にある水道管の蛇口を盗んでコッペパンと替えてもらってたな。蛇口は真ちゅうでできているから価値があった。軍隊から復員してきた小学校の小田仔賢しけん先生が「おまえら、水道管を盗むな。野球部をつくる。入ったらコッペパンを1個ずつやるぞ」と。俺はすぐ手を挙げた。ゴム屋がボールをつくってくれた。ユニホームも運動靴もなかったけれど、みな野球に夢中になった。

◆明大進学は「大きな間違いだった」

 中学でも野球部に入り3年のときに、岡山市内の大会で優勝した。高校も野球が強いところに入りたいと、岡山東商(岡山県立岡山東商業高等学校)に入学。その後、明治大学に進学したがこれが人生の大きな間違いだった。
 明大の野球部は1、2年生だけで60人以上いた。第1合宿から第4合宿まである。有力選手がいる第1合宿は3、4年生がほとんどだが、2年生の初めに監督から「第1合宿に入れ」と言われた。これが地獄。毎日殴られた。同級生に聞いたら「八名ぐらい殴られたヤツはいないよ」という。野球部には秋山登さん、土井淳さんというスターがいて、試合に出られない先輩たちが、2人の高校の後輩ということで俺を殴った。当時の部屋を見たらびっくりするよ。血だらけ。40発ぐらい殴られると、神経がまひして痛くなくなる。

◆脱走後、プロ入り …みんな「飲んでた」?

 同級生が「ここにいたら殺されるぞ。わしらが逃がしてやる」と。上級生たちが宴会をする時がチャンスだった。同級生の彼女がいる新宿の部屋にかくまわれた。2週間ぐらいして「八名が合宿所を脱出した」とうわさになると東映フライヤーズ、広島カープ、毎日オリオンズなど5球団ぐらいから接触があった。
 東映に決めたのは東京に残りたかったから。契約金は120万円。半分はおやじが運営する映画館のスクリーン代として渡した。最初、料理屋の離れに下宿、上げ膳据え膳の生活をしていたら金がなくなって、こんなことをしていてはいかんと、世田谷駒沢の合宿所に入った。
 ―プロ野球は何年間ぐらい在籍したのですか。
 3年ぐらい。エース級が先発の時、前の日から朝まで飲んでいたことがある。夕方になってもほろ酔い状態で「きょうは試合に出なくてもいいな」と。ところが序盤から4点ぐらい取られる。監督から「八名、お前、ゆうべ飲んでないんだろ」と言われて「はい」とうそばっかり。顔合わせない。「次はお前行くぞ」と。別の控え選手に「おい、その次はお前行くぞ」と。そいつも飲んでる。みんな飲んでるんだ、俺が連れていっているから。
 キャッチャーがよくけんかをするので「暴れん坊フライヤーズ」と言って、お客さんが喜んだ。「何がボークじゃ」と審判を蹴飛ばした事もある。審判もおとこ気があって「退場」と言わなかった。

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