悪役商会・八名信夫さん「俺は1200回殺された」…今思う「やらなきゃいけないこと」<インタビュー後編>

2023年8月15日 06時00分
 映画やドラマで名悪役として活躍してきた俳優の八名信夫さん(87)が、終戦の日に合わせて本紙のインタビューに応じた。岡山空襲での壮絶な経験を語る姿からは、平和を願う思いがあふれた。進駐軍を通した野球との出合いや名門大学野球部からの脱走劇、東映傘下のプロ野球球団フライヤーズ入りと俳優への転向、東日本大震災や熊本地震で被災した子どもたちとの交流。2時間にわたる取材で波瀾はらん万丈の人生を振り返ってもらった。(聞き手=社会部長・飯田孝幸)

◆プロ野球選手だったのに「社長命令だ。俳優契約をしろ」

東日本大震災後に始めた映画作りについて話す俳優の八名信夫さん

 ―何がきっかけで俳優に転向したのですか。
 入団から数年して、これからという時に大けがをした。ピッチャープレートにひびが入っていて、試合で投球時にスパイクが抜けなくなって腰の骨が裂けた。すると「治療に時間がかかるから」とクビ。「社長命令だ。俳優契約をしろ」と言われて東映の映画俳優になった。
 ある撮影のとき、主役に撃たれた悪役が死ぬ場面を見ていて「あれなら俺の方がうまくできる」と思った。監督に「俺は1メートル82もあるから、倒れたときにぶわっとほこりが立つ。1回死なせてください」とお願いした。監督は「おまえがいうのも一理ある。一回死んでみろ」と。これが最初だった。

◆「最後は八名に」

 俺は助監督に「灰をちょっと多めにまいとけ」と指示。「必ずそこに行って倒れるから」。さらに背広だと灰が舞い上がらないからトレンチコートを着た。それで、撃たれたら腹を押さえながら灰の近くに寄ってバタンと倒れる。灰がぶわっと舞い上がる。運動神経もあるから、たちまわりで主役にけがをさせない。「最後は八名に」と指名する主役が増えた。
 こうして、戦後の日本を描いた映画「飢餓海峡」や映画「仁義なき戦い」で悪役として活躍させてもらった。
 ―悪役として名を知られるようになると、1983年に悪役俳優が集まる「悪役商会」をつくって、老人ホームの慰問を始めたそうですね。
 悪役でもなんか楽しいものができるんじゃないかと思ってね。それで、各社の悪役に「悪役でなんかやろうと思っているんだけど、クラブつくったら入るか」と誘った。「今までやった事のないことにも挑戦しよう」と、まず老人ホームの慰問に行った。

東日本大震災後に始めた映画作りについて話す俳優の八名信夫さん

 悪役商会で栄養ドリンク「アルギンZ」や鎮痛消炎湿布剤「サロンシップ」のCMにも出演、人気番組「ひょうきん族」でチェッカーズの曲を歌ったりした。全国の歴史ある芝居小屋で人情喜劇を10年間続け、俺が脚本を書いたVシネマ「狼たちの仁義」(1991年)には悪役商会全員と先輩の悪役俳優さんたちにも出演してもらった。子どもの頃、知らない大人に叱られて育ったことを話す講演も40年続けている。その内容を基に2001年と02年のACジャパンのCM「悪役になろう。」ができた。
 悪役商会の仲間とは日本中を歩いた。みんな並んでギャングスタイルで「母さんが夜なべをして」って歌うとお年寄りが泣くんだよ。俺たちも「何人泣かしたぞ」といいながら楽しんでいた。

◆被災地で気づいた「彼らがほしいのは物じゃなかった」

 ―東日本大震災後は被災地の慰問にも行かれてますね。
 悪役商会の仲間を連れて5回ぐらい応援に行った。津波で流された街は本当に何もなくてねえ。空襲された後の岡山と同じだと思った。
 福島の南相馬に行ったとき、小学生ぐらいの男の子5、6人ががれきのない空きスペースでサッカーをしていた。サッカーボールは泥で真っ黒。「大変だったな、おまえら頑張ったな。今、一番欲しいものは何だ」と聞いても、みんな下を向いたまま黙っている。「なんかあるだろう、遠慮なく言ってみろ。東京からちゃんと送ってあげる」。そしたら一人の男の子が「僕の家はがれきの下にあって、そこで生まれたんです。おばあちゃんと妹が流されて、まだ見つかってないんです。見つけてほしいんです」って涙を流した。

映画「おやじの釜めしと編みかけのセーター」で脚本、主演と監督も務めた八名信夫さん

 彼らがほしいのは物じゃなかった。必要なのは思いやりなんじゃないのかと思うようになった。でも、日本は思いやりが消えつつある。何とかしたいと思って、親子の絆や思いやりの大切さを描いた映画「おやじの釜めしと編みかけのセーター」を私費で製作し、全国で無料上映した。DVDの売り上げは被災地支援に当てた。
 ―2016年4月に発生した熊本地震でも被災地支援に行きましたね。
 熊本でも、いろんなところで子どもたちに会った。子どもたちを元気づけるのは映画しかないと思った。子どもたちが出演できれば喜ぶだろうと思い、子どもも大人も含めて熊本の人たちに出演してもらい、スタッフも撮影場所も全部熊本で映画製作した。
 映画は初めてという人ばかりだったが、皆一生懸命。繁華街で高校生が70人くらいかな。汗どろどろで踊ってくれた。「もう一回やってくれ。わりいな、もう一回っ」と頼むと、応えてくれた。その時にね、この子たちは震災を乗り越えられるなと思った。

脚本、主演と監督も務めた映画「駄菓子屋小春」で子役らと記念撮影する八名信夫さん(中央)

 ―熊本で撮った映画「駄菓子屋小春」で、八名さん演じる植木職人が戦争の恐ろしさを語る場面があります。
 弟子と一緒に木の下で話す場面だね。「地震は怖い」と話す弟子に「地震も怖いがもっと恐ろしいものがある。戦争だ。戦争はすべてのものを奪い去る。人の心まで消し去ってしまう魔の消しゴムだ。わしは岡山で空襲に遭って、おじは広島で原爆だ」と話した。あのせりふは台本にはないアドリブだった。軍医だった叔父は実際に広島で死んだ。あの場面の撮影のとき、飛行機が上空を通過した。それで、なぜだかあのせりふが浮かんだんだ。

◆「戦争だけは絶対にやってはダメだと伝えていくことが責任」

 戦争だけは絶対にやってはダメだ。空襲の時はこうやって逃げたんだよ。横には死体がいくつも転がっていたんだよ。これを伝えていくのが、俺らの義務であり、責任なんだ。
 戦争で領土を取り合いして何になるんだ。何で話し合いができないんだろうか。政治がしっかりしなきゃいけない。
 ―お父さんの亀億ひさおさんは戦後、焼け跡に映画館兼芝居小屋をつくり、子どもたちのために映画を無料上映したそうですね。八名さんが被災地の子どもたちへの思いから私財を投じて映画を作った姿は、亀億さんの姿と重なります。
 おやじは戦後、岡山の人々から笑顔が消えてしまったのをみて劇場をつくった。「ターザン」などを上映して子どもたちに無料で見せた。おやじは一番後ろの席で腕を組んでキャーキャーと騒いでいる子どもたちを見ていた。あのおやじは素晴らしかったね。百分の一でも同じことができているかな。
 俺は映画やドラマで1200回殺された。俺を殺した鶴田浩二さんや若山富三郎さん、高倉健さん、みんな逝っちまったけど、俺はまだ生きている。講演依頼もある。これからの人生、まだやらなきゃいけないこともあるし、まだ役に立てると思うんですよ。

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