<終わらぬ「天安門」 事件から30年>(中) 暴力での熱狂弾圧、激化

2019年6月2日 02時00分

1989年4月、天安門広場で胡耀邦元総書記を追悼する学生ら=劉建さん提供

 一九八九年四月十五日に死去した元総書記、胡耀邦(こようほう)の追悼に端を発した学生デモは、同二十七日を機に熱狂的な大衆運動に発展していく。多くの市民らとともに、水や食べ物を差し入れて学生らに声援を送った倪玉蘭(げいぎょくらん)(59)は「これから私たちが中国をよくするという高揚感が街中にあふれていた」と振り返る。
 前日の二十六日、中国共産党機関紙、人民日報は一面に「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」との社説を載せた。学生デモを「計画的陰謀」と決め付け、強硬姿勢で臨む姿勢を党が明確にしたが、かえって学生や市民の反発を招いた。

北京市内で5月、取材に答える倪玉蘭さん=中沢穣撮影

 米国在住の研究者、呉仁華(ごじんか)(62)によると、二十七日には北京の四十四大学で社説を批判する壁新聞が貼られ、三十以上の大学がデモを決行した。逮捕に備えて頭をそったり、遺書を書いたりした学生もいたという。中国の民主化運動に詳しい仏国立科学センターの名誉研究員ジャンフィリップ・ベジャは「四・二七は人民が立ち上がった日として記憶されるべきだ」と説く。
 ただ、学生や市民らの熱狂に不安を抱く人もいた。七〇年代末の民主化運動「民主の壁」に参加した北京在住の作家、王力雄(おうりきゆう)(66)は「感情的にはもちろん学生を応援していた。しかし中国の民主や政治にとってよくない転換点になりかねないと危惧した」と話す。
 危惧は現実となる。「広場の学生は極端に走り、スローガンの過激さを競い、理性的な声は無視された」(王)。改革派の総書記、趙紫陽(ちょうしよう)は五月十九日に広場を訪れてハンスト中止を涙ながらに訴えたが、学生は聞き入れなかった。
 王は「党内で二つの路線が対立するとき、社会運動は権力闘争に利用されがちだ」と話す。趙らは学生らの声をてこに党内の改革を進めようと試みたが、デモの収束に失敗して窮地に追い込まれる。事件は保守派に有利に働き、趙ら改革派は一掃された。
 明確な目標を欠いたまま先鋭化していった運動は出口を見失った。今も米国から中国の民主化を訴える元学生リーダーの王丹(おうたん)(50)は「党に対する信頼があり、だからこそ立ち上がった。人民に銃口を向けるとは思いもよらなかった。当時の私たちは無邪気で甘さがあった」と省みる。
 事件を機に党は暴力によって異論を封じる統治方法に全面的に頼るようになった。事件当時に学生を支援し、後にノーベル平和賞を受賞した作家の劉暁波(りゅうぎょうは)が、二〇一七年に事実上の獄中死したのはその象徴だ。冒頭の倪も「封じられた」一人。二〇〇〇年代から人権派弁護士として政府に家屋を強制収用された人々を支援してきたが、三回も逮捕され、取り調べの際に受けた暴行で足が不自由になった。倪は「政府は民衆を黙らせるために手段を選ばない」と憤る。
 昨年には工場労働者らを支援した大学生らが次々に拘束されるなど、習近平(しゅうきんぺい)政権下で弾圧は激しさを増す。王丹は「中国共産党はこの三十年間で人類の文明を脅かすモンスターになった」と嘆く。
 (文中敬称略、中国総局・中沢穣)

5月、台北の天安門事件に関する国際会議で発言する王丹さん=中沢穣撮影

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