「おもちゃ箱のようだった」舘ひろしが語る石原プロ58年の歴史 解散後も名を残す石原軍団

2021年1月10日 09時01分
 昭和の大スター石原裕次郎が設立し、亡き後は渡哲也(昨年死去)が継いだ芸能事務所「石原プロモーション」が16日、創業から58年の歴史に幕を下ろす。舘ひろし(70)、神田正輝(70)ら所属俳優はそれぞれの道を歩む。映画「黒部の太陽」、テレビドラマ「西部警察」などの豪快で型破りな製作スタイル、被災地支援の大規模な炊き出し…。強烈な輝きを放った「石原軍団」は、解散後も芸能史にその名を残す。 (鈴木学)

舘ひろし

 「石原プロは、おもちゃ箱のようだった」。舘は愉快そうに振り返った。
 おもちゃ箱とは? 「例えばドラマで国会に向かって装甲車を走らせるなんて、他の会社は絶対にやらない。煙突倒しもそう。楽しいものが次々に出てきたということ。カメラより(炊き出し用の)餅つき器を買う会社もないでしょう」
 芝居に関してはあまり口を出さない一方、俳優としての存在感を大事にする事務所だったという。「(出演作で)小芝居を入れることが楽しい時期があったのですが、渡さんから『良くないぞ』とたしなめられた。石原さん、渡さんには俳優としてのあり方を教えてもらった」。しみじみと語った。

石原裕次郎(1980年)

 石原プロが昨夏、関係者らに送った書簡で、裕次郎の妻のまき子会長がつづった決断の経過によると、裕次郎の遺言は「俺が死んだら即会社をたたみなさい」だった。俳優、スタッフの会社への深い愛情から言い出せなかったが、自身が高齢となり実務が難しくなり、渡らに相談の上、実行に至ったという。
 石原プロは一九六三年、裕次郎が専属監督、俳優の引き抜きなどを禁じた映画会社の「五社協定」に縛られず、自分のつくりたい映画製作を志して設立した。映画「黒部−」「栄光への5000キロ」などをヒットさせ、「大都会」「西部−」などの人気ドラマシリーズも手掛けた。所属俳優の固い結束は「石原軍団」として名をはせた。
 映画の失敗で倒産の危機にあった裕次郎を助けるため、入社前の渡が全財産を持参したこともあった。自ら「銭ゲバ」と称した大番頭の故小林正彦元専務の手腕により経営は安定。北海道小樽市での石原裕次郎記念館の運営や、被災地での炊き出しボランティアでも知られた。

2000年5月、「21世紀の石原裕次郎を探せ!」オーディションへの多数の応募に満足げの渡哲也

 浅野謙治郎専務によると、記念館を閉館した二〇一七年ごろから幕引きの話を始めたという。事務所を閉じる一月十六日は裕次郎が起業した日。当日は「静かに仏前に商号をお返しして、セレモニーの予定はない」。版権、遺品の管理などは石原音楽出版社、一般社団法人ISHIHARAが行うとしている。
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 舘は言う。「看板を下ろすことは寂しいが、石原さんも渡さんも小林専務もいない中、すてきなおもちゃ箱でいることは多分無理。寂しいけど、これでいいのかなと思う」
 「ファミリー」という石原プロを離れた後の所属先は未定。渡との映画を撮れなかったことが、心残りといえば心残りだという。
 「渡さんと出会い、引っ張ってきてもらった。迷った時、そこに答えがあると思わせてくれる道しるべで、羅針盤のない船にとっての北極星のような人だった。渡さんにとって、それが石原さんだった。石原プロでなかったら、今の自分はないと思う」。言葉に万感の思いがにじんだ。

◆豪快エピソード

【西部警察】 激しい爆破、派手なカースタント、ガンアクションなどで知られた刑事ドラマシリーズ。放送5年間に火薬4.8トン、ガソリン1万2000リットルを使用。壊した車両は4680台、建物は320軒。装甲車を走らせたことでも有名。

裕次郎の二十三回忌法要で、国立競技場(当時)に建立された「総持寺」=2009年7月、東京都内で

【裕次郎法要】 菩提(ぼだい)寺の総持寺(横浜市鶴見区)で営まれた十三回忌法要(1999年)は、徹夜組1万人を含む20万人がしのんだ。二十三回忌(2009年)は総持寺を原寸大(高さ17メートル、幅43メートル)で当時の国立競技場に建立。総費用は20億円ともいわれ、11万6862人が参列した。
【炊き出し】 巨大鍋などを所有した石原プロのロケ現場などでの名物。被災地でも行われた。阪神大震災では、兵庫県芦屋市で渡らが2万食を提供。東日本大震災でも、渡や舘らが宮城県石巻市などで1万食以上を振る舞った。

◆強い結束力 役割終え解散

 石原プロの功績について、五十年近く芸能取材に携わる石川敏男リポーター(74)と振り返った。
 一つが被災地でのボランティアだ。芸能人の場合、「売名行為」と受け取られかねないが、それでもいいという思いが石原プロにはあった。「何かしなければと考えた時、石原プロには炊き出しがあった。一つにまとまれる人たちだからできた。後にSMAPのメンバーが熊本地震などで行ったが、石原プロの下地があったことも大きい」
 当時、スターが設立したプロダクションが軒並み分裂や倒産の道をたどった中で、石原プロが今日まで継続した理由の一つが強固な結束力にあったとする。五社協定に風穴を開けたことも大きい。元日活の裕次郎が元東宝の三船敏郎とタッグを組んだ映画「黒部−」は画期的だった。「裕次郎さんは三船さんと仕事をしたかったと思うし、それがお客さんのためにもなると思ったのでしょう」
 「黒部−」の出水シーンの事故、二〇〇三年の「西部警察」撮影時の事故後も、「危機管理が抜群だった」と石川リポーター。「役割を終えて解散するという感じで、おとこ気を感じる。昭和のにおいがする最後の芸能事務所かもしれない」

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