公開日:2023年6月1日

G7広島サミットで平山郁夫の絵は何を意味したか? 作品メッセージの意外な宛先は(文:永瀬恭一)

2023年5月に行われたG7広島サミットで、G7の各国首脳が広島市中区の原爆資料館を訪れ芳名録に記帳した。その背景で大きな存在感を放つラクダの絵《平和のキャラバン(東)太陽》(1985)について、画家の永瀬恭一が論じる。

2023年5月20日、G7広島サミットで各国首脳が記帳をする様子 出典:首相官邸ウェブサイト(https://www.kantei.go.jp/jp/content/20230519g7summit_heiwa14.jpg)

2023年5月19日から21日まで広島で行われたG7広島サミット。その初日に、G7の各国首脳が広島市中区の原爆資料館を訪れ芳名録に各自メッセージを記した。EU首脳を含めた9名の背景に飾られているラクダの絵は画家・平山郁夫によるものだが、本作が図らずも、一見しただけでは想像できない意外な国々にメッセージを発していると画家の永瀬恭一は言う。ひとつの作品と状況が出会ったとき、浮かび上がることとは。【Tokyo Art Beat】


ラクダに乗ったG7

2023年5月20日、Twitterのタイムラインに流れてきた画像を見て、私は驚いた。問題の場面は5月19日、G7広島サミット参加の各国首脳が広島平和記念資料館東館を訪れた際、記帳をした様子を写したものである。

2023年5月20日、G7広島サミットで各国首脳が記帳をする様子 出典:首相官邸ウェブサイト(https://www.kantei.go.jp/jp/content/20230519g7summit_heiwa14.jpg)

広島、そして長崎に原爆を投下した当事国のアメリカ大統領、そして核保有国のイギリス、フランスの首脳が、第二次大戦で敵対した日本、ドイツ、イタリアの首脳と、原爆の資料館で横一列になっている光景は確かにインパクトがある。だが、背後に掲げられた絵と画家について、ピンときた人はいるだろうか?

注目を集めたこの場面で見逃されているラクダの絵──《平和のキャラバン(東)太陽》(1985)──について、今回は考えたい。作品のメッセージの意外な宛先が浮かび上がるからだ。

平山郁夫は忘れられた画家?

正確には、背後にあるのは「絵」ではない。元絵から陶板に移されたもので、絵の中に走る縦横の線は、この絵がタイルであることの証拠である。元の絵を書いたのは平山郁夫(1930〜2009)、戦後日本画壇に長く君臨した人だ。元東京藝術大学学長、元日本美術院理事長ほか顕職多数。広島出身で被爆者でもあるので、この場所に平山の絵があるのは不思議ではない。

画壇で偉かっただけではなく、平山は一般にも広く知られていた。NHKが1980年から1年にわたって放送したテレビ番組『シルクロード』は人気を博し、日本でシルクロード・ブームが起きた。それに先駆けてシルクロードを主題に制作していた平山は、テレビや新聞といったマスメディアに繰り返し登場し、ネットが存在しなかった日本で有名文化人となる。当時、都心のデパートに行くと平山の作品が普通に並んでいた。

ことに砂漠を行くラクダは平山が繰り返し描いた画題だ。その絵を見た日本人は、一定の範囲で「平山郁夫」を思い出すことができたのである。そして、メディア上の有名人によくあるように、本人が2009年故人となりメディアに出なくなると、忘れられた。

専門家はどうか。平山は、生前から本人周辺の日本画壇以外の人々からは、必ずしも重視されなかった。画壇での高い地位から平山の作品は政財界でも流通するような状況があり、価格が釣り上がることに批判的な視線が向けられたことも、この評価の分裂に拍車をかけた。

これ以上、平山の人物像を記述する気が私にはない。私にとって平山の絵画、たとえば今回の作品《平和のキャラバン》は「たいくつ」だ。ではこの「たいくつ」さはどこから来るのか。

「ラクダの絵」を分析してみる

画題から砂漠を行くいにしえの隊商であることはわかる今回の絵は、どんな作りをしているのか? 恥ずかしいことに、私は広島平和記念資料館を訪問したことがない。したがって《平和のキャラバン(東)太陽》については、複製を通じたことしか判断ができない。しかし、平山郁夫シルクロード美術館(山梨県北杜市)では《平和のキャラバン(東)太陽》の延長線上にあると思われる「大シルクロードシリーズ」を見ることができた。制作年順に《楼蘭遺跡を行く・日/月》(2005)、《パルミラ遺跡を行く・朝/夜》(2006)、《アフガニスタンの砂漠を行く・日/月》(2007)3組6点である。

《平和のキャラバン(東)太陽》陶板作品が展示される、広島平和記念資料館 撮影:編集部

制作は後年であり、画面縦横比もかなり異なる。同時に地平線近くにかかる太陽や月に照らされた平原を行くラクダのキャラバンというモチーフや色彩は類似している。ここでは《アフガニスタンの砂漠を行く・日》の色彩を見てみよう。

平山郁夫 アフガニスタンの砂漠を行く・日 2007 本画4曲(平山郁夫シルクロード美術館絵葉書より)

画面は原則として同系色で構成されている。砂漠も太陽も黄土色から黄色のバリエーションであり、キャラバンも黄褐色だ。中央の人馬の白はある程度の面積を占めているし、ラクダの背の布にも一定の色彩がある。それでも、ここで平山は黄色系の反対色の緑系を、絵画の構造を作り上げるようなかたちで導入しない。

フィンセント・ファン・ゴッホ 日没を背に種まく人 1888 ファン・ゴッホ美術館蔵 『フィンセント・ファン・ゴッホ』(ファイドン・プレス、1947)より

例を挙げると、ゴッホ《日没を背に種まく人》(1888)に顕著だが、黄色をより鮮やかに見せたければ反対色の緑を組織的に置く。平山作品を見るとき、油彩ほど自由度がない日本画顔料の特質には留意すべきだが、基本的に色彩計画の問題である。経験上は古代からある知恵であり、高松塚古墳壁画《西壁女子群像》(7世紀末から8世紀初頭)でも黄色、赤、緑といった衣装の並置が見られ、最前の黄色の衣装には帯や持ち物、袴などに緑を配する。

高松塚古墳壁画の《西壁女子群像》(7世紀末から8世紀初頭) 出典:文化庁ウェブサイト(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/takamatsu_kitora/takamatsu_gaiyo/west_joshi_s47.html)

「大シルクロードシリーズ」、そして先行する《平和のキャラバン》は2点の対で描かれる。いずれも構図的に類似している。《アフガニスタンの砂漠を行く・月》(2007)では「日」に比べ布の色彩は増し、月の黄色は印象的である。

平山郁夫 アフガニスタンの砂漠を行く・月 2007年 本画4曲(平山郁夫シルクロード美術館絵葉書より)

では、これをもって平山は複数の色彩で画面を構築している、と言えるかといえば難しい。《アフガニスタンの砂漠を行く・月》では画面の大部分を占めるのは濃紺だ。ラクダの背の布、空にかかる月の黄色は一定の大きさがあり、画面にコントラストを与えている。しかし、この色は中央付近にあって記号性が高い。「大シルクロードシリーズ」ではいずれも「日」あるいは「朝」の側はほぼモノトーンであり、「月」「夜」の側には比較的色彩が導入されているが、各色は互いにネットワークを形成することなく、いわば象徴的にある。

二対が並んでいれば、黄色系の画面と青系画面の対比効果は望める。しかし、平山郁夫シルクロード美術館では「大シルクロードシリーズ」の対の作品は並べられることなく、同室の向かい合わせの壁に引き離され、「日」「朝」サイドと「月」「夜」サイドにまとめられて色彩対比が効かない。ついでに言えば《平和のキャラバン(西)月》の陶板化作品は〈平和のキャラバン(東)太陽〉陶板化作品と、本館を挟んで離れた広島国際会議場に設置されている。

ここまでの議論を前提に、今回の、広島平和記念資料館東館の陶板化された作品の元絵の複製を見よう。製作年が20年さかのぼる《平和のキャラバン(東)太陽》、《平和のキャラバン(西)月》(1985)は、「大シルクロードシリーズ」より徹底してモノトーンである。

平山郁夫 平和のキャラバン(東)太陽 1985 72.7×90.9cm(『平山郁夫全集5 シルクロードⅠ』平山郁夫、講談社、1991年より)
平山郁夫 平和のキャラバン(西)月 1985(『平山郁夫全集5 シルクロードⅠ』平山郁夫、講談社、1991年より)

小中学校で絵を描いた経験がある人なら想像がつくと思うが、同系色だけを使うと作品はまとまりやすい。少なくとも砂漠を行くラクダを描いた《平和のキャラバン》「大シルクロードシリーズ」は、破綻はないが、単純だ。構図もシンプルである。画面中央付近に月も、人物あるいはラクダも、そして色彩も「中央揃え」をしたように揃っている。

好意的に見れば、これらは絵画というよりも主題を強調するための象徴的記号として構成されていて、色彩設計を含めた単純さも、その象徴性を高めるためだとは言える。しかし、それは一般に、国旗や企業ロゴのようなもので発揮される手法であり、絵画として展開されると長時間見ていられない。さらに類似の作品が多数作られれば、象徴性は薄まる(国旗はひとつだけのデザインが固定されているから複数あっても象徴たりえる)。これが平山の「たいくつさ」の一側面である。私の判断では、平山郁夫の絵は、平凡=凡庸なのだ。

平山の名前が残る意外な場所

とはいえ私は、広島平和記念資料館に「平和のキャラバン」と題され、自らも原爆後遺症で苦しんだ被爆画家の手による作品が、象徴的モニュメントとしてあることは意味があると考える。しかも今回《平和のキャラバン(東)太陽》陶板作品が、G7広島サミット首脳の記帳場面のシーンとして世界各地に配信されたことで、この絵は意外な場所にメッセージを発信することになった。

平山が日本の文化行政、さらに外交にまで重きをなしたのは海外文化財の調査・研究・修復事業に傾注したからだ。カンボジア、中国、アフガニスタン等の遺跡調査保存事業に貢献すること多大であったが、有名なのは中国、敦煌莫高窟への関わりだろう。

1979年の初訪問以来、現地敦煌研究院からの人材招聘、東京文化財研究所と共同での研究推進、1988年の日本政府による敦煌石窟文物保護研究陳列センター建設を平山郁夫は主導した(*1)。当時、まだ経済的に豊かでなく文化大革命の傷跡も残った中国で、これらの遺跡保全が行われた意義は大きかっただろう。

もうひとつ、私が強調したいのは朝鮮人民民主主義共和国(以下、北朝鮮)の高句麗古墳発掘調査と記録である。1997年、高句麗古墳壁画学術調査団団長として平山は北朝鮮を訪問、その世界遺産登録に尽力した。この調査の成果は『高句麗壁画古墳』(平山郁夫総監修、共同通信社、2005年)にまとめられ、内部の素晴らしい壁画を図版で見ることができる。

江西中墓 奥室南壁《朱雀》 6世紀末~7世紀(『高句麗壁画古墳』平山郁夫総監修、共同通信社、2005年より)
安岳3号墳 前室西側室 西壁《墓主》4世紀後半(『高句麗壁画古墳』平山郁夫総監修、共同通信社、2005年より)

これらの事業は評価の定まらない平山の画業に比べ、芸術的価値が確定的だ。同時に、これは「文化」単体で切り離して称揚すれば良いというピュアなものでもない。中国、あるいは北朝鮮といった共産国で、文化芸術は政治的プロパガンダの一部に組み込まれている。率直に言って、核開発と弾道ミサイルの発射実験を繰り返す北朝鮮、また経済力で日本を上回り台湾及び南シナ海で軍事的圧力を強める現在の中国の、ナショナリズムを下支えするような活動となったことは否定し得ない。

とはいえ、私は広島・長崎が日本人だけのものでなく「人類の記憶」であるように、敦煌や高句麗の文化遺産は中国や北朝鮮だけのものではない、人類の記憶であると考える。よってそれらの調査・保全・修復事業は有意義であったと確信する。

当然だが、これら文化財の価値は賞味期限が切れない。事実、2018年から2022年まで中国各地13箇所を「平山郁夫のシルクロードの世界」展が巡回した。平山が収集した各地の仏教美術を中心とした文物は、日中関係が悪化していた時期に中国本土で紹介された。来場者はのべ166万人とされている(*2)。メディアから消えて認知がなくなった日本より、中国で平山の名前は残っている。駐日中国大使を務め、現在中国外交の主要人物である王毅・中国共産党中央外事工作委員会弁公室主任は、平山と対談もしている(*3)。そのような中国の人々が、冒頭のG7首脳による記帳の様子を写した写真を見たとき、背後の「平和のキャラバン」に反応する可能性は小さくない。

凡庸なメッセージの宛先

中国だけではない。今回のG7広島サミットで発せられた「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」では、ロシアは当然として、そのほかに平山が文化財事業で関わった地域が宛先になっている。つまり北朝鮮とイランだ。

G7首脳の広島での記帳画像が、これら各国の人々に、平山郁夫の自国文化財への貢献と一体になった「平和のキャラバン」という作品の「意味」を届けた可能性はあるだろうか。

普通に考えればない。あったとして、その多くは、国際政治における欺瞞への皮肉な視線だろう。それが「現実的」な判断だ。いわゆる「親中派」文化人の置き土産の、複雑骨折。それだけなのか。

先に私は敦煌莫高窟や高句麗古墳を広島・長崎と同じ「人類の記憶」と書いた。平山にそういった信念があったかは知らない。そんなことなどどうでも良い。画家が死ねばエゴは滅び、仕事は残る。仕事それ自体のメッセージが自立して歩きだす。それが作品である。

たとえばG7が今回ロシアの侵略戦争を非難し、核の廃絶を目標におきつつ核開発の透明性確保を中国へ訴えた行為は、ハリボテなのか。もしこれが100%西側の国家エゴのパフォーマンスにすぎないなら、日本を含めたG7のありさまは、中国やロシアの国家エゴと大同小異だということになり、後は東西のエゴの綱引きだけが残る。つまりロシアの侵略も中国の軍拡も、原理的に否定できなくなる。

逆に、なにがしかの理想をもとに、国家エゴを超えたメッセージを我々が発するなら、その内容は間違いなく平凡=凡庸になる。戦争反対。核はなくそう。この平凡=凡庸を切り捨てないなら「平和のキャラバン」の凡庸さは、画家のエゴと異なり、案外死なない。死んでくれない。広島で被爆し、後遺症を乗り越えた画家のエゴに結びついた諸々は滅び、仕事の骨だけが焼け残る。それは朝鮮半島から中国、中央アジア、ヨーロッパにいたる文化財の保護であり、広島に残された「平和のキャラバン」の、たいくつで凡庸な象徴的「意味」である。これを否定するのは、思いのほか難しいはずだ。

平山郁夫取材地図(『平山郁夫のメッセージ展 アフガニスタン文化遺跡──バーミヤン大石仏を守ろう』朝日新聞社、1997年より)

メッセージはユーラシアを一周し日本にも届く。日本政府が「国民」「国土」の一体性を保持する目的で自衛隊を整え他国に呼びかけるなら、広島サミットの成果を疑問視する「国民」を切り捨て、基地負担の重さを訴える沖縄という「国土」を抑圧する行為は、論理矛盾となる。日本で守られる「国民」「国土」の根拠は、平凡で凡庸な戦争の忌諱と核の否定を包摂していなければ、ハリボテになる。困難な道だ。しかし、我々は砂漠を行かなければならない。ラクダに乗って。

*1──「特別展「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」に寄せて」樊錦詩、『文化財保護法制定60周年記念 仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護』164ページ、東京国立博物館、2011年。
*2──「特別企画展 中国巡回展帰国記念 崑崙の西から」平山郁夫シルクロード美術館会場パネルに資料が掲示されている。会期:2023年3月25日~9月5日。
*3──「まずお互いに行ってみることが第一歩」王毅、平山郁夫、『平山郁夫対談集 芸術がいま地球にできること』269ページ、芸術新聞社、2007年。




永瀬恭一

永瀬恭一

ながせ・きょういち 画家。1969年生まれ。東京造形大学造形学部美術学科卒業。2008年から「組立」開始。主な個展に「感覚された組織化の倫理」(M-gallery、2021)、「少し暗い、木々の下 」(殻々工房、2019)ほか。主なグループ展に「エピクロスの空地」(東京都美術館セレクショングループ展、2017)ほか。共著に『成田克彦──「もの派」の残り火と絵画への希求 』(東京造形大学現代造形創造センター、2017)、『20世紀末・日本の美術──それぞれ の作家の視点から』(ART DIVER、2015)、『土瀝青 場所が揺らす映画』(トポフィル、2014)。