「徳川家康」は江戸幕府を開き、約260年以上続く太平の世を築いた人物です。その生涯は決して順風満帆ではありませんでした。幼い頃から人質生活が続き、ようやく独立を果たしたかと思えば正室が謀反を企て、嫡男が切腹。「織田信長」や「武田信玄」(たけだしんげん)らの巨大勢力に翻弄され続け、辛うじて生き延びた大名とも言えるでしょう。
そんな波瀾万丈の末にようやく天下を手中にした徳川家康ですが、実は災いごとが起こるたび、決まってその場に存在した刀がありました。人呼んで妖刀「村正」。室町時代後期から6代にわたって続いた刀工「村正」の手による作例です。
なぜ村正は「徳川家に仇なす刀」と呼ばれるようになったのでしょう。徳川家康と村正の間にある因縁をご紹介しながら、その理由を紐解きます。
そもそも村正とは、伊勢国(現在の三重県北中部)の桑名(三重県桑名市)で日本刀を鍛造した刀工集団です。桑名はもともと商人の自治都市で、刀剣とは無縁の土地でした。しかし、近隣の土豪同士が争いをはじめたことで武器の需要が高まり、この地に刀工が続々と移住。瞬く間に一大刀剣生産地に成長を遂げました。
初代村正は美濃国(現在の岐阜県南部)の関(岐阜県関市)出身とされ、「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)とも交流があったと言われています。また、刀剣史に名を刻む巨匠「正宗」(まさむね)の門人だったという説もありますが、こちらは浮説です。茎(なかご)の形状が似ていることから生まれた創作話とされています。
村正は互の目(ぐのめ)が尖るなど鋭さが際立つ作例が特徴で、切れ味は抜群。とりわけ2代目が人気を博し、近隣の武士から絶大な支持を獲得しました。なかでも尾張国や三河国(現在の愛知県東部)は桑名から「七里の渡し」(現在の愛知県名古屋市と三重県桑名市を結ぶ海路)を介してすぐの立地。同地の武士達はこぞって村正を買い求めるようになります。美術的価値よりも切れ味にこだわった実戦刀だったことも、戦乱に明け暮れる武士達には極めて好都合でした。
三河武士に広く愛用された村正でしたが、三河国を治めていた松平家(のちの徳川家)にとってはありがたくない刀でした。と言うのも、災いが起こるたび村正が関係していたのです。
まずは徳川家康の祖父で、松平家の地盤を固めた名将「松平清康」(まつだいらきよやす)の凶事。1530年(享禄3年)、尾張国(現在の愛知県西部)の「織田信秀」(おだのぶひで)討伐のため進軍していたときのことです。
陣中で突如、家臣「阿部正豊」(あべまさとよ)が松平清康を殺害。のちに「森山崩れ」と呼ばれる事件です。理由は、阿部正豊が父を殺されたと勘違いしたためでしたが、いずれにせよこの事件によって松平家は求心力を失い衰退します。そしてこのとき阿部正豊が用いた刀が村正でした。
次は徳川家康の父「松平広忠」(まつだいらひろただ)です。松平清康の死により若くして家督を継いだものの三河国は混乱。隣国の大名「今川義元」(いまがわよしもと)に従属して辛うじて領国を維持していた時のことでした。
1549年(天文18年)、酒の席で突如側近の「岩松八弥」(いわまつはちや)が暴走し、脇差で松平広忠を殺害(諸説あり)。このときの刀もまた村正でした。つまり、祖父と父の2代にわたり村正の刀によって命を落としているのです。
その後も村正の刀は、徳川家康に対しても災いをもたらしています。
今川家の人質だった時代に村正の小刀で怪我を負い、「関ヶ原の戦い」の折には織田信長の弟「織田有楽斎」(おだうらくさい)から村正の槍を受け取った際に指を負傷したりと、たびたび流血騒ぎが起きているのです。
しかし、村正の妖刀伝説の極めつけと言えば、徳川家康の嫡男「松平信康」(まつだいらのぶやす)の自刃事件。正室の「築山殿」(つきやまどの)が甲斐国(現在の山梨県)の武田家と通じたことで松平信康にも疑いがかかり、織田信長から処刑の要求が届いたのです。
当時の徳川家は、織田家から見れば同盟国と言うより従属国に近い立場。徳川家康は嫡男に切腹を命じる以外に道はありませんでした。このとき、介錯を務めた「天方道綱」(あまがたみちつな)が手にしていたのも村正だったのです。
徳川家3代を死に至らしめたことで、徳川家康もさすがに村正を嫌悪するようになります。江戸時代に書かれた幕府の公式史書「徳川実紀」によれば、「村正は徳川家に恨みでもあるのだろうか」と嘆き、さらに「納戸方[なんどがた:諸侯から献上された金品に関する事務方]は以後、村正の作を打ち捨てよ」と命じた旨が記されています。
このときはあくまで献上品としての村正を禁じただけでしたが、やがて差料にすることを避ける者が続出。いつしか「村正の佩刀は禁止」という暗黙の了解が生まれていったのです。
当初、村正が不吉であるという風潮はあくまで徳川家内部に限られていました。それが一般大衆にまで広まったのは、歌舞伎の題材に取り上げられたためです。「八幡祭小望月賑」(はちまんまつりよみやのにぎわい)や「木間星箱根鹿笛」(このまのほしはこねのしかぶえ)では村正、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)では千住院村正の名で登場しますが、いずれも村正への恐怖心をあおるような演目になっています。
「血を好む」、「手にすると短慮になる」、「持ち主に祟る」などの風説はここから生まれ、徐々に世間一般に浸透していきました。こうした妖刀伝説は幕末期にも影響を与え、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「三条実美」(さんじょうさねとみ)などの面々も、討幕の象徴として村正を所有していたと言われています。
しかし、村正は本当に妖力を秘めた刀だったのでしょうか。鍵になるのは徳川家康の祖父・松平清康、父・松平広忠、息子・松平信康の3名がいずれも村正によって斬られている点です。これは、村正が実戦向けに鍛えられた刀であることに着目すると別の側面が見えてきます。
当時、村正が持つ最大の魅力は費用対効果の高さでした。切れ味の良さに対して極めて安価な上、三河国の近場で大量生産されていたのです。言わば村正は、三河武士が最も入手しやすかった刀。であれば、徳川家にまつわる悲劇がすべて同じ刀によるものだとしても不思議ではありません。
なお、桑名での村正の作刀は、江戸時代中期に6代目で途絶えています。妖刀伝説の風評被害によるところが大きかったと言われています。