鎌倉時代の重要用語

栄西 
/ホームメイト

「栄西」(えいさい/ようさい:1141~1215年[保延7年~建保3年])は、鎌倉時代の僧侶です。備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県)に生まれ、最初は「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)にて「天台宗」(てんだいしゅう)を学びます。修行をするうちに禅宗へ強く興味を持ち、「宋」(そう:10~13世紀の中国王朝)で「臨済宗」(りんざいしゅう)を学び日本に伝えました。栄西が伝えた禅宗は、主に武家階級に受け入れられ、栄西の弟子達によって様々な宗派が発生。また栄西は、日本にお茶の文化を伝えたことでも知られます。

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「栄西」(えいさい/ようさい:1141~1215年[保延7年~建保3年])は、鎌倉時代の僧侶です。備中国(びっちゅうのくに:現在の岡山県)に生まれ、最初は「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)にて「天台宗」(てんだいしゅう)を学びます。修行をするうちに禅宗へ強く興味を持ち、「宋」(そう:10~13世紀の中国王朝)で「臨済宗」(りんざいしゅう)を学び日本に伝えました。栄西が伝えた禅宗は、主に武家階級に受け入れられ、栄西の弟子達によって様々な宗派が発生。また栄西は、日本にお茶の文化を伝えたことでも知られます。

宗で禅宗を学ぶ

座禅によって真実に迫る宗派

栄西

栄西

鎌倉時代に戦乱が相次いだことにより、人々は仏教に救いを求めるようになりました。この社会不安を背景に誕生した、多彩な仏教宗派を「鎌倉仏教」と呼びます。

そのなかで、自ら座禅を組み修行を行う宗派が「禅宗」(ぜんしゅう)。

禅宗は6世紀初めにインドで誕生した宗派で、他の宗派が仏教経典を研究することで仏教の真実に近づこうとしたのに対し、禅宗は座禅を組み、ひたすら心の内で問答を繰り返すことで真実へ近づくことを目指しました。そして、この禅宗を日本に伝え定着させたのが栄西です。

比叡山の教えに飽き足らない若者

栄西は、10歳で延暦寺に入って仏教修行を開始。しかし当時の延暦寺は、「座主」(ざす:天台宗における僧侶の最高位)を巡り、内部で激しい権力争いが繰り広げられていました。

このような環境のため正しい天台宗を学ぶには、宋へ渡る必要があると考えた栄西は、1168年(仁安3年)、28歳のときに1度目の渡宋。ここで禅の教えと出会います。

帰国後は再び延暦寺へ戻って「葉上流」(ようじょうりゅう)という一派を開き、「請雨祈祷」(しょううきとう:干ばつ時に雨を降らせるために祈ること)で功績を挙げるなど、次第に名声が広がっていきました。

2度目の宋で禅の修業を開始

しかし、延暦寺での活動に限界を感じた栄西は、禅を学び直すため、渡宋を計画。そして1175年(安元元年)頃に九州へ入り、禅の修行と共に渡宋の準備を進めます。

12年後の1187年(文治3年)、47歳のときに2度目の渡宋。「天台山」(てんだいさん)を訪ね、「虚庵懐敞」(こあんえじょう:中国の禅宗・臨済宗の僧)のもとで、臨済宗を学びました。1191年(建久2年)、栄西は日本へ戻り禅宗・臨済宗を伝えます。

日本に禅宗を定着させる

古巣・延暦寺から迫害を受ける

帰国した栄西は、九州の博多を中心に禅宗の布教に努めます。しかし、既存の寺院勢力との対立は避けられませんでした。特に厳しい弾圧を行ったのは、栄西が長く学んだ延暦寺。1194年(建久5年)には、朝廷から禅宗の布教禁止令が出されてしまいました。

栄西は京都へ活動の場所を移し、1198年(建久9年)に禅宗の立場を説明するため「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)を発表。禅宗が、既存の寺院勢力と対立するわけではないことを訴えます。しかし、その主張は認められず栄西は、再出発のため鎌倉へ向かいました。

鎌倉で舞い込んだ幸運

建仁寺

建仁寺

鎌倉では、栄西に思わぬ幸運が舞い込みます。禅宗の厳しい修行が、質実剛健を良しとする武士の気風に一致したのです。

特に鎌倉幕府の祖「源頼朝」(みなもとのよりとも)亡きあと、実質的な権力者となっていた源頼朝の妻「北条政子」(ほうじょうまさこ)が、禅宗を気に入ったおかげで、栄西は1200年(正治2年)に「寿福寺」(じゅふくじ:神奈川県鎌倉市)を与えられます。

1202年(建仁2年)、鎌倉幕府2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)が京都に「建仁寺」(けんにんじ:京都府京都市)を建てると、その住職にも任命されます。

しかし、栄西は、建仁寺を禅宗修行に特化した寺とはせず、天台宗・真言宗・臨済宗という3つの宗派を網羅した学問の寺とすることで、他宗派との融合を図ろうとしたのです。ここに栄西のバランス感覚の良さが現れています。

日本に茶の湯文化を伝える

鎌倉・京都という当時の二大都市に活動の場を得て、栄西は日本における仏教の重鎮となりました。そして「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)の復興、「法勝寺」(ほっしょうじ:京都府京都市)の再建など、様々な偉大な事業も手がけました。

また、多くの書物を後世に残しており、鎌倉幕府3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)へ献上した「喫茶養生記」(きっさようじょうき)は、日本で初めてお茶の効用を説いた書物。室町時代以降、この喫茶養生記が手本となって「茶の湯文化」が発展していったことから、栄西は日本へ茶の文化を伝えた最初の人物としても、名を知られることになったのです。

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