平安時代の重要用語

藤原道長 
/ホームメイト

「藤原道長」(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の政治家。藤原氏が「摂政・関白」(せっしょう・かんぱく:どちらも天皇を補佐する役職)として政治を動かした体制を「摂関政治」と言いますが、その全盛期を築いた人物です。藤原道長は自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次の天皇とすることで「外祖父」(がいそふ:天皇の母方の祖父)となって権力を掌握。それを4人の娘で行い、絶対的な権力者になりました。その立場は本来の摂政・関白をしのぐほどで、晩年には摂政の座に就いたものの、すぐに実子「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)にその座を譲り渡しています。仏教をあつく信仰した藤原道長は、出家(しゅっけ:僧となること)したのち、巨大な「法成寺」を建立。これが「京極御堂」(きょうごくみどう)と呼ばれたことから、藤原道長も「御堂関白」と称されました。

平安時代の重要用語

藤原道長 
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「藤原道長」(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の政治家。藤原氏が「摂政・関白」(せっしょう・かんぱく:どちらも天皇を補佐する役職)として政治を動かした体制を「摂関政治」と言いますが、その全盛期を築いた人物です。藤原道長は自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次の天皇とすることで「外祖父」(がいそふ:天皇の母方の祖父)となって権力を掌握。それを4人の娘で行い、絶対的な権力者になりました。その立場は本来の摂政・関白をしのぐほどで、晩年には摂政の座に就いたものの、すぐに実子「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)にその座を譲り渡しています。仏教をあつく信仰した藤原道長は、出家(しゅっけ:僧となること)したのち、巨大な「法成寺」を建立。これが「京極御堂」(きょうごくみどう)と呼ばれたことから、藤原道長も「御堂関白」と称されました。

藤原氏内部の権力闘争

兄弟仲が悪かった親子

藤原道長

藤原道長

藤原氏北家(ほっけ)で摂政関白を務めた、「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)の五男として生まれた藤原道長は、幼い頃から豪胆な性格で、2人の兄「藤原道隆」(ふじわらのみちたか)、「藤原道兼」(ふじわらのみちかね)に肝試しで勝ったという逸話があります。

その後は、摂関家の男子として順調な道を歩んでいきましたが、兄がいたために藤原道長自身も出世はそれほど期待していませんでした。

藤原道長の父・藤原兼家は、兄の「藤原兼通」(ふじわらのかねみち:藤原道長の伯父)ととても仲が悪く、藤原兼通は死ぬ直前に藤原兼家を降格させる命令を出したほど。兄弟のなかで、誰が摂関家を継ぐかという権力争いの一環でした。そんな環境で育った藤原道長もまた自身の兄弟とはひどく不仲でした。

兄弟仲が悪かった親子

986年(寛和2年)、父・藤原兼家と兄・藤原道兼は、65代「花山天皇」を出家・退位させてしまいます。すぐに66代「一条天皇」(いちじょうてんのう)が立てられ、藤原兼家は摂政に任じられます。

990年(正暦元年)、父・藤原兼家が死去すると長兄・藤原道隆があとを継ぎ、関白・摂政に就任。その直後、藤原道隆の娘「藤原定子」(ふじわらのていし)が、一条天皇の皇后に入内(じゅだい:皇后となること)します。これは誕生した子を天皇とすることで、外祖父になる策略でした。しかし、父の喪中に自らの娘を天皇に嫁がせる藤原道隆の行為に、藤原道長は憤慨。藤原定子の側に寄り付こうとしなかったと伝えられています。

叔父と甥の権力争い

一方、藤原道隆の嫡男「藤原伊周」(ふじわらのこれちか)は、父に導かれて急速に出世。994年(正暦5年)には、藤原道長をしのぐ立場になりました。ところが995年(長徳元年)、関白・藤原道隆と藤原道兼が相次いで他界。摂関家当主の座を巡り、藤原道長と甥の藤原伊周は激しい権力争いを繰り広げます。記録には、会議の場における2人の会話はまるで喧嘩であったと記されたほど。

ちなみに当時の一条天皇は、藤原伊周に政治を任せようと考えていました。しかし、一条天皇の母・「藤原詮子」(ふじわらのせんし:藤原道長の姉)が、「藤原道長に政治を任せることが天皇家のため」と懇願したため、藤原道長は摂政・関白に準ずる「内覧」(ないらん)へ就任したのです。

その翌年の996年(長徳2年)、藤原伊周が花山法皇(ほうおう:出家した天皇の尊号)に矢を射かけるという事件を起こして左遷。こうして藤原道長は、30歳にして名実ともに朝廷における最高権力者となったのです。

藤原道長の絶頂期

娘達を次々と入内させる

藤原道長は999年(長保元年)、長女の「藤原彰子」(ふじわらのしょうし)を皇后と同格の「中宮」(ちゅうぐう)として、一条天皇に嫁がせます。これは皇后・藤原定子に続く2人目の后という異例の事態でしたが、藤原摂関家の決定には、天皇家でさえ抵抗できなかったのです。その後、1010年(寛弘7年)に67代「三条天皇」(さんじょうてんのう)が即位すると、藤原道長は、次女の「藤原妍子」(ふじわらのけんし)を三条天皇の中宮とします。

1016年(長和5年)に三条天皇が眼病を患うと、藤原道長はそれを理由に退位させます。その後、一条天皇の嫡男「敦成親王」(あつひらしんのう)が、68代「後一条天皇」(ごいちじょうてんのう)として即位。その補佐として同年、藤原道長は摂政に任じられます。

権力の絶頂に

外祖父として絶対的な権力を手に入れた藤原道長は、摂政の座に固執することはありませんでした。1017年(寛仁元年)に摂政を息子の藤原頼通に譲ると、藤原道長は朝廷を自由に操り自分の家系が、その後も有利になるよう工作を行います。

同年、次の天皇と目された「敦明親王」(あつあきらしんのう:三条天皇の嫡男)に圧力をかけて皇太子の位を辞退させると、長女の藤原彰子が産んだ「敦良親王」(あつながしんのう:のちの69代後朱雀天皇[ごすざくてんのう])を「皇太弟」に。続く1018年(寛仁2年)には、三女の「藤原威子」(ふじわらのいし)を後一条天皇の中宮として嫁がせ、さらに四女の「藤原嬉子」(ふじわらのきし)を、皇太弟の敦良親王の后としたのです。

四女・藤原嬉子入内の祝宴の席にて、藤原道長が詠んだとされるのが、有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」の和歌。まさに権力の絶頂に達した藤原道長の心情を表す句でした。

藤原道長の横顔

藤原伊周との弓争い

弓争いイメージ

弓争いイメージ

藤原道長が20代半ば頃だったときの有名なエピソードのひとつに、「藤原伊周との弓争い」があります。ある日、藤原伊周は父親である藤原道隆の屋敷で、人を集めて弓を射ていました。

そこに藤原道隆の弟で藤原伊周の叔父にあたる、藤原道長がやって来ます。当時、官位は藤原伊周よりも藤原道長の方が下でしたが、まず藤原道長が矢を射ました。

結果は藤原道長の勝利。藤原道隆と藤原道隆に仕えている人々は2回の延長を申込みます。内心穏やかではなかった藤原道長でしたが、延長の提案を受けました。

「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」と言って矢を放つと、その矢は真ん中に的中。この次の順番の藤原伊周は的外れの場所に射て、藤原道隆は青くなってしまいます。そして次は藤原道長の番。「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」と言って矢を放つと、また真ん中に的中するのです。

藤原道隆は息子・藤原伊周に「これ以上射るな」と止めて、場は白けてしまいました。なお、このエピソードは歴史物語「大鏡」に掲載されています。大鏡は藤原道長の栄華を中心とした作品で、藤原氏に対して批判的な部分も描かれているのが特徴のひとつです。

政治家・藤原道長

政治家としては大きな事績を残していない藤原道長ですが、逆に言えばそれは藤原摂関家の力が強く、国内情勢が安定していたことの証でもあります。その代わり、自分の娘を天皇に嫁がせ外祖父となるために、躊躇せず政敵を倒してきました。

そのため冷酷な人物と見られがちですが、自分が失脚させた政敵はのちに厚遇。また、自分の娘や身内を相手に嫁がせるなどして、政敵が自分を恨まないような配慮をしたと言われます。ですが、それもまた政敵の様々な情報を収集するためであったという見方があることも事実です。

文人・藤原道長

藤原道長は、優れた文人でもありました。藤原道長の漢詩は「本朝麗藻」(ほんちょうれいそう)に数多く収められており、和歌は「後拾遺集」(ごしゅういしゅう)などの勅撰集(ちょくせんしゅう:天皇が編纂を命じた和歌集)に33首が選出。

また、23年間にわたって毎日書き連ねた日記「御堂関白記」(みどうかんぱくき)は、11世紀初頭の政治や生活に関する極めて重要な史料です。

仏教信者・藤原道長

仏教を深く信仰していた藤原道長は、1019年(寛仁3年)に出家し、邸宅の隣に壮大な寺院建立を開始。3年後に完成した寺院は東西2町(約218m)、南北3町(約327m)の広大な敷地に数々の伽藍が立ち並ぶという大規模建築でした。

この寺院は完成と同時に「法成寺」と名付けられ、完成の日には後一条天皇の他、のちの後朱雀天皇・藤原彰子・藤原妍子・藤原威子も参加し、その絢爛豪華な宴は「栄花物語」(えいがものがたり:平安時代に成立した歴史書)にも詳しく記されています。

また、この建物は藤原頼通が建立した「平等院鳳凰堂」(びょうどういんほうおうどう:京都府宇治市)のモデルにもなりました。

この法成寺で晩年を過ごした藤原道長は、1027年(万寿4年)に病没。死に際して藤原道長は、9体の阿弥陀如来像の手と自分の手を糸で結んだ上で僧侶達に読経をさせ、自身も念仏を唱えながら62年の生涯を閉じました。

藤原道長の死因とは?

藤原道長は記録に残っている日本最古の糖尿病患者ともされており、死因も糖尿病だと言われています。糖尿病は血液中の糖が増える病気。運動不足や過食、ストレス、遺伝などが原因です。平安時代の貴族の食事は贅沢で、山盛りの白米の他、日本酒や果物、揚げ菓子といった物が口にされており、糖質に偏っていました。

また、運動不足になりやすかった可能性も高いです。さらに藤原道長は、権力闘争の最中にあり、ストレスもかかっていたと考えられます。記録によると藤原道長は、目が見えにくくなる、喉が渇く、痩せてくる、胸が痛い、背中に大きな腫物ができる、といった糖尿病と推測できる症状を見せていました。

特に最後の背中の腫物については、糖尿病では感染症にかかりやすくなることから、皮膚の感染症だった可能性もあり、この症状によって敗血症となり、最終的に多臓器不全で亡くなったとも言われているのです。また、藤原道長の血縁者も糖尿病だったとも言われ、遺伝的な要因も考えられています。

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