室町時代の重要用語

一休宗純 
/ホームメイト

「一休さん」と親しみを込めて呼ばれる「一休宗純」(いっきゅうそうじゅん)は、歴史上、日本で最もよく知られる僧侶のひとりです。また、一休さんと言えばとんち話。しかしアニメ・絵本などで取り上げられる、とんちにまつわるエピソードは、後世に作られたという説が有力。実際の一休宗純は、可愛らしいとんち小坊主のイメージとはほど遠く、頭髪も剃らず無精髭を生やした風変わりな姿で僧侶のイメージとはかけ離れた奇抜な言動をしていた人物。しかし、形式にとらわれない自由奔放さが、多くの庶民の共感を呼んだと言われています。一休宗純は室町時代の乱世に生き、権威や名声を嫌った反骨の生涯を送っていたのです。

室町時代の重要用語

一休宗純 
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「一休さん」と親しみを込めて呼ばれる「一休宗純」(いっきゅうそうじゅん)は、歴史上、日本で最もよく知られる僧侶のひとりです。また、一休さんと言えばとんち話。しかしアニメ・絵本などで取り上げられる、とんちにまつわるエピソードは、後世に作られたという説が有力。実際の一休宗純は、可愛らしいとんち小坊主のイメージとはほど遠く、頭髪も剃らず無精髭を生やした風変わりな姿で僧侶のイメージとはかけ離れた奇抜な言動をしていた人物。しかし、形式にとらわれない自由奔放さが、多くの庶民の共感を呼んだと言われています。一休宗純は室町時代の乱世に生き、権威や名声を嫌った反骨の生涯を送っていたのです。

一休宗純の生涯

出生から出家まで

一休宗純

一休宗純

1394年(応永元年)、京都嵯峨(さが)でひとりの男児が誕生し、「千菊丸」(せんぎくまる)と名付けられました。のちの一休宗純です。

父は第100代「後小松天皇」(ごこまつてんのう)、母は藤原氏一族出身の女官(宮廷に仕える天皇や后の世話人)。

後小松天皇の寵愛を受けた母は、周囲から妬まれ、身重の身体で宮廷を追われたのです。

天皇家の血を引く千菊丸は、政争に巻き込まれないよう、母によって6歳で臨済宗(りんざいしゅう:禅宗の一派)の「安国寺」(あんこくじ:別名・北禅寺[ほくぜんじ]京都府京都市)に預けられました。

ここで千菊丸は、「周建」(しゅうけん)という名前をもらいます。この安国寺は現存しませんが、室町幕府初代将軍「足利尊氏」(あしかがたかうじ)の弟「足利直義」(あしかがただよし)が創建した、格式ある寺でした。

英才ぶりを発揮

周建は1406年(応永13年)に「建仁寺」(けんにんじ:京都府京都市)へ入門し、漢詩を学ぶと、みるみる才能を開花。13歳で漢詩「長門春草」(ちょうもんしゅんそう)、15歳で漢詩「春衣宿花」(しゅんいにしてはなにやどる)を作り評判となりました。

17歳になった周建は、「西金寺」(さいこんじ:京都府京都市)の高僧「謙翁宗為」(けんおうそうい)に弟子入りし「宗純」の名を得ます。謙翁宗為は世俗の権力を嫌い、清貧に徹した厳しい修行を行っていました。

これがのちの宗純の生き方に大きく影響します。宗純が21歳のときに謙翁宗為が死去。目標を見失った宗純は琵琶湖で入水自殺を図りますが、母の使者に助けられ命拾いしました。

肩書きは不要

そのあと、宗純は生涯の師となる「大徳寺」(だいとくじ:京都府京都市)の高僧「華叟宗曇」(かそうそうどん)に入門。真摯な姿勢を評価されますが、同時に兄弟子達の嫉妬を買うことに。

とりわけ18歳年上の兄弟子「養叟」(ようそう)とは相性が悪く、最終的に絶縁までしています。そのあと、宗純は25歳で「一休」の号を華叟宗曇より授かり一休宗純を名乗ります。

一休宗純が27歳のとき、華叟宗曇は一人前の禅僧になった証の印可状(いんかじょう)を授けようとしますが、権威を嫌う一休宗純は断固として受け取りを拒否。ずっとあとになって、弟子達が華叟宗曇から預かっていた印可状を手渡すと、一休宗純は破いて燃やしてしまいました。

庶民に大人気

大徳寺

大徳寺

一休宗純が29歳のときのこと。華叟宗曇は病を押して、師匠の33回忌法要に参列するため大徳寺の塔頭(たっちゅう:高僧亡きあとその徳を偲んで建立した庵)「如意庵」(にょいあん)へ向かいました。

そのとき、他の僧侶達が正装するなか、一休宗純はボロボロの衣で登場。華叟宗曇にたしなめられると「皆さんを引き立てるためです」と返しました。法要のあと、華叟宗曇はある僧侶から「あなたの法を継ぐ者は誰ですか」と尋ねられます。華叟宗曇は「風狂ながら宗純です」と返答。風狂(ふうきょう)とは、常識からかけ離れているが悟っているという意味です。

華叟宗曇が亡くなったあと、34歳の一休宗純は各地を巡り、身分の別なく禅の教えを説いて回ります。一休宗純の人気は高まり、「生き仏」とまで言われるようになりました。

88歳の大往生

一休宗純は47歳のときに請われて、大徳寺如意庵の住職に就任。しかし「心が忙しくなった」と書き置きを残し、わずか10日で飛び出してしまいます。

戻ったあとも、大徳寺内の勢力争いに嫌気がさして断食(だんじき)を実行したり、路上で対立相手の息子を罵倒して襲われそうになったりと、型破りな逸話に事欠きません。

1467年(応仁元年)、京都市中を焼け野原にした「応仁の乱」(おうにんのらん)が勃発。大徳寺如意庵も焼失し、戦乱を避けて住まいを転々とする生活を送ります。

酬恩庵一休寺

酬恩庵一休寺

81歳のとき、荒廃した大徳寺復興のため住職に就任。権力を嫌っていた一休宗純でしたが、第103代「後土御門天皇」(ごつちみかどてんのう)の勅命のため断れなかったのです。

しかし大徳寺に住むことはなく、郊外の「酬恩庵」(しゅうおんあん:京都府京田辺市)を終の住処としました。1477年(文明9年)に応仁の乱が終結し、大徳寺再建も実現。

一休宗純は、落慶法要(らっけいほうよう:寺社の落成を祝う儀式)を済ませたあと、1479年(文明11年)、弟子達に囲まれ座禅をしたまま息を引き取ります。享年88歳。臨終の言葉は「まだ死にたくない」でした。

一休宗純の逸話と著書

カラスの声で悟りを開く

一休宗純は27歳のとき、まだ暗い早朝にカラスの声を聞いて悟りを得たと言われます。師匠の華叟宗曇に報告すると、「それは小さな悟りに過ぎず、大きな悟りではない」と返されました。

一休宗純は「小さな悟りで結構。本物は嫌です」と反論。すると華叟宗曇は、「それでこそ本物の禅僧だ」と感心。大小にとらわれない心こそが悟りという訳です。

とんち話は作り話?

一休さんと言えば、「屏風の虎退治」、「このはし渡るべからず」と言ったとんち話が有名。持ち前の機転を利かせて難問を乗り切り、和尚・室町幕府将軍までやり込めた話も伝わります。

こうしたエピソードは江戸時代の「一休咄」(いっきゅうばなし)に書かれた物語で、後世の創作。ただし、歴代の師匠から高く評価されているように、小坊主の頃からとても優秀だったのは事実です。

77歳の恋愛

一休宗純は、当時仏教で禁じられていた飲酒や肉食だけでなく、女性との恋愛も楽しみました。77歳のとき、50歳以上も年下の旅芸人「森女」(しんにょ)と出会い、一目惚れ。

一休宗純は、恋人の美しさを称える詩も詠んでいます。2人は一休宗純が亡くなるまで、酬恩庵でともに暮らしました。

狂雲集

「狂雲集」(きょううんしゅう)は、生涯に書いた1,000種余りの詩を集めた書物。禅宗に対する痛烈な批判や、自身の自由奔放な生活ぶりが赤裸々につづられ、一休宗純の思想を知るうえで欠かせない書物となっています。

自戒集

「自戒集」(じかいしゅう)は、大徳寺住職になった兄弟子・養叟を、徹底的に批判した書物。養叟は台頭してきた、堺商人からの経済的支援を求めて印可状を乱発。一休宗純は権威の象徴とも取れる印可状が嫌いだったため、養叟の行動が許せなかったとされます。

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