平安時代の重要用語

菅原道真 
/ホームメイト

「菅原道真」(すがわらのみちざね)は平安時代中期の貴族・文章博士(もんじょうはかせ:貴族の子弟に漢文学・中国史を教えた教官)。第59代「宇多天皇」(うだてんのう)に重用され、「右大臣」(うだいじん)に任じられます。しかし朝廷に対する謀反の疑いにより「大宰府」(だざいふ:福岡県太宰府市)へ左遷されてしまい、無念のうちに逝去。その後、都で多くの要人が亡くなったために人々は菅原道真の祟りだと恐れ、のちにすべての罪を許されて「天神様」として祀られました。現在では学問の神としてもよく知られています。

平安時代の重要用語

菅原道真 
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「菅原道真」(すがわらのみちざね)は平安時代中期の貴族・文章博士(もんじょうはかせ:貴族の子弟に漢文学・中国史を教えた教官)。第59代「宇多天皇」(うだてんのう)に重用され、「右大臣」(うだいじん)に任じられます。しかし朝廷に対する謀反の疑いにより「大宰府」(だざいふ:福岡県太宰府市)へ左遷されてしまい、無念のうちに逝去。その後、都で多くの要人が亡くなったために人々は菅原道真の祟りだと恐れ、のちにすべての罪を許されて「天神様」として祀られました。現在では学問の神としてもよく知られています。

驚異のスピード出世

学問の才能で名を馳せる

菅原道真

菅原道真

845年(承和12年)、菅原道真は文章博士であった「菅原是善」(すがわらのこれよし)の三男として誕生。

幼い頃から詩歌に才能を発揮し、11歳で初めて漢詩を読み、18歳で「文章生」(もんじょうしょう:漢詩学・中国史を学ぶ学生)となります。

成績も極めて優秀で、867年(貞観9年)に「文章得業生」(もんじょうとくごうしょう:特待生)となり、その学才が認められて「正六位下」(しょうろくいげ)の位を授かりました。

そのあとも菅原道真は官吏として順調に出世し、その抜きんでた才能は朝廷で知らぬ者がいないほど。当時の「関白」(かんぱく:成人天皇を補佐して政務を執り行う)である「藤原基経」(ふじわらのもとつね)も、菅原道真に重要書類の代筆を依頼したと言われます。

宇多天皇に重用される

菅原道真は886年(仁和2年)に「讃岐」(さぬき:現在の香川県)への赴任を命ぜられます。この赴任期間中に即位した宇多天皇と藤原基経の間で、「勅書」(ちょくしょ:天皇の命令文)に記された言葉を巡って対立が起こり(阿衡の紛議[あこうのふんぎ])、2人の関係は悪化。

この対立が、「摂関政治」(せっかんせいじ:摂政・関白として天皇を補佐しながら政権を担う政治)を行った藤原氏と、「天皇親政」(てんのうしんせい:天皇が自ら決断する政治)を目指す宇多天皇との確執につながっていきました。

菅原道真が京へ戻ると、宇多天皇は藤原氏をけん制するため、菅原道真を側近として召し抱え、「蔵人頭」(くろうどがしら:天皇の側近で、機密文書などを扱う役所の長官)に抜擢。そのあとも、菅原道真は出世街道を邁進し、893年(寛平5年)には「公卿」(くぎょう:三位[さんみ]) 以上の貴族で、国政を担う重職)に取り立てられました。

同年、宇多天皇は自らの子で、第1皇子の「敦仁親王」(あつひとしんのう:のちの第53代醍醐天皇[だいごてんのう])を皇太子(こうたいし:次期天皇となる皇子)に決めますが、このとき相談したのは菅原道真だけであったと言われます。

遣唐使終了を提案

7世紀から、日本は「唐」(とう:7~10世紀の中国王朝)の文化や政治体制を学ぶために「遣唐使」(けんとうし)を派遣。しかし唐国内の混乱や朝鮮半島の不安定化により、838年(承和5年)以来、半世紀以上にわたって遣唐使が中止していたのです。

そして894年(寛平6年)、菅原道真は大陸の混乱が日本に及ぶことを恐れ、遣唐使の終了を提案。これによって遣唐使が終了したとされますが、近年の研究では、菅原道真が遣唐使を終わらせたのではなく、大陸の情勢不安によって遣唐使は自然と派遣されなくなったという見方が有力です。

好敵手の登場

幼馴染で好敵手

897年(寛平9年)、菅原道真は「右近衛大将」(うこんえのだいしょう)に就任。このとき「左近衛大将」(さこんえのだいしょう)に就任したのが「藤原時平」(ふじわらのときひら:藤原基経の子)です。2人は互いの父の代から顔見知りで仲が良く、宇多天皇も2人が朝廷の中心となり、敦仁親王(醍醐天皇)を助けてほしいと期待していました。

ところが菅原道真は、藤原時平が「摂関家」(せっかんけ:摂政・関白を輩出する家柄)出身なのに対し、自らの家柄は低いからと言って何度も辞退。事実、朝廷内では、菅原道真に対するひどい中傷があとを絶ちませんでした。しかし、菅原道真の要望は、宇多天皇によってすべて却下されたと言います。

昌泰の変で大宰府への配流

901年(昌泰4年)、宇多上皇(じょうこう:皇位を譲ったあとの天皇の尊称)は不穏な噂を耳にします。菅原道真が醍醐天皇を廃し、自分の娘婿「斉世親王」(ときよしんのう:宇多天皇の第3皇子)を皇位に就けようと画策しているというのです。

驚いた宇多上皇は、急遽「内裏」(だいり:天皇の私室)へ向かうものの、門が固く閉ざされ入れませんでした。これがきっかけとなり、菅原道真は大宰府へ流され、菅原道真の4人の子もそれぞれ流罪になってしまいました(昌泰の変[しょうたいのへん])。

この噂を流したのはライバルの藤原時平だというのが定説でしたが、近年の研究では、菅原道真の早急な出世に反感を持った、多数の貴族らよる仕打ちという意見が主流。また、これは冤罪ではなく、実際に斉世親王を天皇にするという計画があったと主張する学者もいます。

梅の花と菅原道真

太宰府天満宮

太宰府天満宮

菅原道真が都を離れるときに詠んだとされる歌が、「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(意味:春風が吹いたら、梅の花のにおいを都から大宰府まで届けておくれ。

私がいないからと言って、春を忘れてはならないよ)。いつまでも菅原道真の脳裏で咲き続ける梅と、菅原道真を待っている境遇の対比が、いっそうもの悲しさを誘います。

また「太宰府天満宮」(だざいふてんまんぐう:福岡県太宰府市)の一角には、歌に詠まれた梅が、都より菅原道真を追って宙を飛んできたという「飛梅伝説」(とびうめでんせつ)を持つ梅の木が今日も残されています。

怨霊から天神様へ

死後、怨霊と噂される

大宰府へ流された菅原道真が任じられたのは、「太宰員外帥」(だざいいんがいのそつ)という、職員の数にも数えられないような閑職でした。俸給もなく、役所の建物にも入れず、粗末な官舎で寝起きするだけの生活であったと見られます。

出世街道から突然の没落と、この生活に耐えきれず、2年後の903年(延喜3年)に菅原道真は亡くなりました。それから6年後の909年(延喜9年)に、藤原時平が39歳で病死。913年(延喜13年)には右大臣「源光」(みなもとのひかる)が狩りの最中に死亡。

さらに、923年(延喜23年)には醍醐天皇の皇子で、皇太子「保明親王」(やすあきらしんのう)が「薨御」(こうぎょ:親王・摂政・関白などが死去すること)してしまいます。こうして朝廷の要人が次々と亡くなったのは、罪なくして無念の死を遂げた菅原道真の怨霊の祟りであると人々が噂し、朝廷は923年(延長元年)、死後20年して菅原道真を右大臣の階位に戻しました。

天神様・学問の神として祀られる

北野天満宮

北野天満宮

しかし、朝廷の不幸はこれで終わりません。930年(延長8年)、清涼殿(せいりょうでん:天皇が日常的に過ごす建物)が落雷を受けて炎上。

朝廷の要人の多くが亡くなり(清涼殿落雷事件)、それを目撃した、醍醐天皇までが体調を崩して3ヵ月後に崩御。

これも菅原道真の怨霊が原因だと考えた朝廷は、947年(天暦元年)に菅原道真を「天神様」として祀る「北野天満宮」(きたのてんまんぐう:京都府京都市)を建立。

菅原道真が代々学者の家系であり、菅原道真自身も優秀な学者であったことから、今日では学問の神として多くの受験生らの信仰を集めています。

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