「兜」(かぶと)とは、頭部を守る防具です。「兜」という漢字は人が兜を被っている様子からできています。日本において、兜が出現したのは古墳時代。当初は防具としての役割を担っていましたが、時代の変化と共に武将達の威厳や個性を表現する役割も担うようになりました。現代では、端午(たんご)の節句に兜を飾ります。兜を飾る意味は、男の子が病気や事故などにならずに成長してくれることへの願いです。地域によっては誰が買うかも決まりがあります。兜は伝統的な兜飾りから、現代風のおしゃれな兜飾りまで様々です。兜の種類や兜飾りについて、また兜の付属品(立物、面具)及びその機能を通して、兜の役割についてご紹介しましょう。
「大鎧」(おおよろい)を使用していた平安時代には、「星兜」(ほしかぶと)と呼ばれる縦長の鉄板を鋲(びょう)で繋いで張り合わせた物がありました。
兜本体(鉢:はち)の表面に突起している鋲は「星」と呼ばれ、頭頂部には烏帽子で束ねた髪を出すための「天辺の穴」(てへんのあな)と言う穴が空けられています。
この時代の戦い方は弓矢が中心だったため、弓矢による攻撃を防御することを重視して後頭部に「錣」(しころ)と呼ばれる板をぶら下げて後ろからの攻撃を防御。
また、顔の横で折り返している部分を「吹返」(ふきかえし)と言い、前から飛んで来た矢が顔にあたらないようにする役割があったのです。
南北朝時代になると、胴丸・腹巻に添える兜として「筋兜」(すじかぶと)が現れ始めます。元寇以降、馬上での弓矢による戦いから、地上での太刀・薙刀による戦いが主流になりました。
そのため、兜の軽量化を図ると同時に、太刀・薙刀の打撃によるダメージをそらすことを狙って星(鋲)を表面からなくし、兜を直撃した刃を滑らせる構造となったのです。
筋兜の鉢(兜の本体)は、鉄板を留める鋲を表面に出さずに、鉄板の片側を折り曲げて筋を立てるようにして作られたことから筋兜と呼ばれ、室町時代に全盛期を迎えます。筋の数が少ない物で6間、時代を経るにつれて62間の筋兜が多く見られるようになりました。また、江戸時代になると80間、120間、160間という筋兜も作られたのです。
紀伊国雑賀(きいのくにさいか:現在の和歌山県和歌山市)では、室町時代末期になると、独特の形式を有する兜が登場します。それが「雑賀兜」(さいかかぶと)。古墳時代末期に作られていた「衝角付兜」に似た形のこの兜の特徴として、頭形、置手拭、7または8間の筋兜であることが挙げられ、いわゆる「日本式甲冑[鎧兜]」の兜というよりも、蒙古や朝鮮の風合い。
また、雑賀に居住していた雑賀衆については、鉄砲をいち早く戦闘に取り入れたことで知られ、1577年(天正5年)の「織田信長」との戦いでは、大量の鉄砲を用いて信長を大いに苦しめました。このように雑賀兜は、雑賀で独自の軍事文化が醸成されていたことの証であるとも言えるのです。
江戸時代になると、戦国時代に始まった変わり兜の他、室町時代末期の形式をはじめとした、古式に似せた形式の兜が作られるようになりました。もっとも、古式に似せた形式の兜については、古式の要素を取り入れたと言うに止まり、古式の兜を完全に再現をしていた訳ではありません。
例えば、星兜では頭頂部にいくにしたがって星が小さくなる「厘劣り」(りんおとり)という形式の物で、星がすべて同じ大きさだった古式の星兜とは異なっていたのです。
また、筋兜についても矧板を重ねる技法について、技術水準は上がっており、形の上ではほぼ同じ物が作られていましたが、用いられていた矧板が決定的に違いました。古式の筋兜においては、軽量化するために薄い矧板が用いられていましたが、江戸時代に作られた筋兜で用いられていたのは、鍛えの良い厚地の矧板。
そのため、古式の兜よりもかなり重くなっていたのです。泰平の世となり、矧板を矧ぎ重ねていく技術は進歩していましたが、兜の実戦使用は想定されておらず、あくまでも「尚古趣味」の装飾的な物として兜が作られていた表れだと言えます。
兜飾りとは、5月5日の「端午の節句」を祝うために飾られる五月人形のひとつです。兜を飾ることには、男の子が事故や病気などの災いに遭わずに、健やかに成長してほしいという願いがこめられています。そしてこの兜飾りは、一般に五月人形店にて買うことが可能です。
ここでは、五月人形店「ふらここ」、「吉徳大光」が販売している兜飾りから代表的な商品を2つずつご紹介します。
【メーカー名】ふらここ伊達政宗の兜 小 銀仕立て
奥州(おうしゅう)の覇者(はしゃ)・伊達政宗(だてまさむね)の兜。三日月の鍬形(くわがた)には銀の鍍金(めっき)をほどこし、縁起の良い松葉の模様をあしらいました。縅糸(おどしいと)には紅白の2色の正絹を使用し、入念な細工(さいく)をほどこした銀の金物で美しく仕立てました。魔よけの力があるとされる赤い袱紗(ふくさ)を使用し、縁起の良い四君子(しくんし:蘭、竹、菊、梅)柄のお屏風で上品にまとめた、味わい深い兜飾りです。
【メーカー名】ふらここ彫金飛龍中鍬形の兜(収納タイプ)
吹き返しに魔よけの龍をほどこした優美な兜飾り。縅糸(おどしいと)には五月の新緑を想わせる美しい緑色の正絹を使用。袱紗(ふくさ)も端午の節句に合わせ、上品な緑色でまとめました。お屏風と飾り台には、美しい花の蒔絵を丁寧に描いています。
【メーカー名】吉徳大光【五月人形】正絹赤絲縅 和紙小札1/3兜床飾り
小柴鑚穂(こしばさんすい)作
伝統工芸・江戸甲冑の作風を伝える小柴鑚穂作の逸品です。和紙をカシュー漆で塗り固めた小札は、縫重(ぬいがさね)と称する大変手間のかかる技法で仕上げ、吹返しの鹿革には甲州印伝を用いています。赤絲縅の大鍬形兜を、和紙に金彩で松を描いた本装屏風に組み合わせた美しくもあり、重厚感もある兜飾りです。
【メーカー名】吉徳大光【五月人形】着用兜25号 黒絲縅 収納箱飾り
吉祥図と言われる松鷹の屏風を使用した着用兜収納箱飾りです。立体的鍬形を用いた、兜の吹返しには、彫金で龍を描きました。落ち着きある色合いの台屏風が、着用の兜をより一層際立たせます。
兜の「立物」(たてもの)とは、「眉庇・目庇」(まびさし)や「鉢」(はち)に立てることで、兜を装飾すると共に、着用者の威厳を示して存在感を誇示する物の総称です。
デザインは動物、植物や器物などをモチーフにした立物や、信仰に根ざして日や月を象った立物がありました。材料も鉄、銅、金、銀、真鍮、木材、竹や、獣の角、牙、皮革など様々。立物は、立てる位置によって「前立」(まえだて)、「頭立」(ずだて)、「脇立」(わきだて)、「後立」(うしろだて)に分かれます。
これらは自己顕示のためや、戦場における味方同士の目印としても用いられました。
立物の起源は、古墳に副葬品として埋葬された兜まで遡ると言われています。代表的な物は、野球帽に似た形をした「眉庇付冑」(まびさしつきかぶと)。
これは頭頂部に「伏板」(ふせいた)と呼ばれる円盤状の鉄板を乗せ、頭頂部の伏板の上には、「伏鉢」(ふせばち)、「受鉢」(うけばち)と呼ばれる2つの半球形金具を「管」と呼ばれる筒状金具で接続して、立鼓状に組み立てた物が乗せられています。眉庇付冑は、5世紀中頃から6世紀にかけて用いられたとされています。
中世における主流は、前立の一種「鍬形」(くわがた)。もっとも中世初期においては、立物(鍬形)は普遍的な物ではなく、軍を率いて指揮を執る大将などの身分を示すための意義を持つ物でした。平安時代末期頃からは、龍が用いられるように。そのあと、南北朝時代から戦国時代にかけて、下剋上の波に乗った新興勢力が台頭。これに伴い立物、装飾品として普遍化して流行していきました。
南北朝時代の初期に使われたのは、日輪や月輪(がちりん)。日輪は「生命」のシンボル、月輪は「不死」と「再生」のシンボルと考えられていたと言われています。その他、獅子・鬼、高角・角、鏡、剣、扇、植物、動物、鳥、魚貝、虫、神仏、器物、山形(さんぎょう)・自然、家紋、輪など、様々な物をモチーフとした立物が作られるようになったのです。
兜に立物を装備することが一般的となった戦国時代以降、個人的な軍備として用いられてきましたが、江戸時代に入り集団的な統一された軍層に移行してからは、他家との識別を明確にすることに目的が変化していきました。すなわち、家中で用いる「合印」(あいじるし)が主流となったのです。具体例としては、紀州徳川家の「金の丸」、水戸徳川家の「繰半月」(くりはんげつ)、彦根井伊家の「天衝」などが挙げられます。
兜の立物で、最も一般的だったのは鍬形(くわがた)。鍬形の原形は、古代の「鍬」にあると言われています。ここでは主な鍬形の種類についてご紹介します。
「面具」は顔を守るために、兜の緒を通すためにも用いられた物です。材質は主に鉄でしたが、革製の物もありました。
面具は、「総面」(そうめん)と「頬当」(ほおあて)に分かれており、総面は、額から顎までの全部を覆うように作られた物で、額から両頬を守るように作られた「半首」(はつむり)と額から頭の一部を守る「額当」(ひたいあて)、さらには、顎から両頬のあたりを守る頬当の役割を総合。
また、頬当には鼻が付いている物(目の下頬)と、付いていない物(半頬)があり、形や容貌から様々な呼び名が付けられています。
面具のうち、最も古い歴史を持つのは半首。半首は、身分の上下にかかわりなく用いられていたと言われていますが、その歴史は平安時代中期から鎌倉時代に遡ります。室町時代から戦国時代にかけて一度廃れましたが、江戸時代になり復古調の甲冑(鎧兜)が流行したことで、再び作られるように。現存している半首は、大半が江戸時代以降の物です。
南北朝時代末期になると、半首と入れ替わるように半首を逆さにしたような形の頬当が登場します。それが目の下頬。そのあと、改良が重ねられ喉を守るために頬当の下には必ず、何段かの垂れを付けるようになりました。
そして顎から両頬だけでなく、額の防護が要求されるようになったことで額当が生み出されたのです。また、この時代には、顔全体を覆う総面も用いられていました。
頬当は、その形や容貌から様々な種類の物があり、ファンの多い分野。代表的な形の物をご紹介します。
平安時代の大鎧・胴丸に付属している兜を観ると、頭頂部に大きな穴が開いているのが分かります。これは「天辺の穴」(てへんのあな)と呼ばれている物で、武将は烏帽子に包まれた髻(もとどり:頭上で束ねていた髪)をここから出して被っていたのです。
このようにして着用することで、髻の部分が心棒の役割を果たし、兜の中の頭部を安定させることが可能になりました。
平安時代後期頃の様子を描いた「平治物語絵巻」に収録されている武将などの絵からも、兜の頭頂部あたりから黒色の何かが出ている様子が分かります。
しかし、時代を経ていくにつれて、敵が弓矢による攻撃でこの穴を狙うようになっていったのです。そのため、鎌倉時代頃になると兜の着用方法も変化。髻をほどいた乱れ髪の状態で着用するようになったのです。天辺の穴から髻を出す必要がなくなったことで穴は縮小。穴自体は残りましたが、換気用や神が座す場所などの意味付けがされるようになっていきました。
戦国時代に入ると、前頭部から頭頂部にかけての髪を毛抜きで抜いたり、かみそりでそり上げた「月代」(さかやき)と呼ばれる髪型が一般的になります。元々は兜の中で頭が蒸れることを防止するための、兜を被るときに限定した髪型でしたが、次第に日常から月代にする武将が増加。常在戦場のごとき世相においては、日頃から戦に備えておくことが必要だったからです。
なお、残された側頭部、後頭部の髪については、平時は髷を結い、兜を被るときにはほどいた状態にしていました。
兜の着用方法が変わったことで、新たな固定方法が登場します。具体的には緒の通し方。上述した天辺の穴から烏帽子を出して兜を着用していた時代には、兜から頭が簡単に抜け落ちない状態だったこともあり、鉢裏に左右ひとつずつ穴を開け、そこから紐を通して顎下で結んでも、ある程度固定されていました。
しかし、天辺の穴から烏帽子を通さないようになると、それまで以上に緒によって頭部をしっかりと固定する必要が出てきたのです。
まず、鎌倉時代から南北朝時代にかけては、鉢裏に左右2つずつ計4つの穴を開けて緒を通し、顎下で結ぶことで安定が図られました。そののち、後述する「浮張」(うけばり)が発達したことで兜の構造上、鉢裏から緒を通すことが困難になり、腰巻(こしまき:鉢下の縁を帯状に巻いて鋲で留めた板)に取り付けられた鐶(かん:緒を通すための輪)を打って緒を通すように。
これにより緒の位置が低くなり、結び方も複雑になったことで浮張の効果を最大限に引出しつつ、頭部を安定させることが可能になったのです。
兜は、鉄などの硬い材質で作られており、敵の打撃を受けてしまった場合でも着用していることで、致命傷を避けられるメリットがあります。もっとも兜の上からであっても、頭部に敵の打撃を受けることに変わりはありません。そこで、その衝撃を和らげる工夫が施されました。それが浮張です。
平安時代から鎌倉時代にかけては、兜の鉢の内側に革などを直接貼り付ける形(内張:うちばり)で、衝撃の緩和が図られていました。もっとも、騎馬武者同士の弓矢による一騎打ちから白兵戦へと戦い方が移行するにつれて、敵の打撃から頭部を守る必要性がより高まります。
そこで、内張する革と鉢の間に緩衝材が入れられるようになり、南北朝時代になると鉢と頭の間に空間を作るために、鉢の中に百重刺(ももえざし:布を少しずつしぼりながら糸を縫うこと)にした布を張る方法に進化したのです。
浮張の目的は、頭部への打撃で受ける衝撃のさらなる緩和。そのために考案されたのが、鉢と頭の間に空間を作ることでした。この空間がクッションのような役割を果たすことで、頭部が鉢に接しているのと比べて頭部への衝撃を和らげることができると考えられたのです。このような浮張の方法が開発されたことで、兜は従来よりも大型化します。甲冑師は兜の大型化に伴う加重分による着用者の首への負担を軽減するため、兜の軽量化という新たな課題に直面することになりました。
平安時代に登場した大鎧に付属していた兜には、鉢の表面に鉄板を矧(は)ぎ合わせた鋲の頭(星)が残っていました。星は鉄などの金属でできていることから、数が多くなればなるほど重量は増していくことになります。
そこで軽量化すべく、鉢の板の矧ぎ方を工夫する必要が生じた結果、登場したのが「筋兜」(すじかぶと)。小型化していた星を潰し、矧板を捻って返した矧目だけが見えることからこう呼ばれたのです。
浮張を採用した筋兜で、代表的な物が「阿古陀形筋兜」(あこだなりすじかぶと)。鉢の頭頂部が窪み、後頭部が丸みを帯びた形が阿古陀瓜(あこだうり)に似ていることから名付けられた兜は、室町時代に流行しましたが、阿古陀形筋兜をはじめとする筋兜にも欠点はありました。
これは軽量化のためで、鉢の表面に星が見られる「星兜」(ほしかぶと)に比べて、薄い鉄板(矧板)と簡易な鋲留が用いられ、矧目を除いては矧板一重で鉢を形作る構造になっていたため、打撃の衝撃に対する耐性が低かったのです。
この弱点は、鋲の頭を潰して薄い矧板を繋ぎ合わせていく筋兜に、ほぼ共通する物でしたが、これを克服するために考えられた方法は、矧板の枚数を増やすこと。矧板が増えれば重量も増しますが、重なり合う部分の面積も増大し、実質的に薄い鉄板を2枚重ねにした鉢ができあがることになるからです。当初は20枚程度だった矧板は、やがて60枚が標準的となり多い物では200枚程度の物まで出現。
筋が多い鉢を作るには高度な技術が必要になりますが、甲冑師達は技術力を向上させることで弱点を改善。矧ぎ方についても矧板を密着して重ねる方法と、空間を残して重ねる方法があり、より技術的に高度な物が必要となる後者については、矧板間にできた空間によって衝撃を緩和することが可能でした。
兜にまつわることわざは、それほど多い訳ではありません。代表的な物としては「勝って兜の緒を締めよ」や「兜を脱ぐ」などが挙げられますが、これらに共通しているのは兜が人体の最重要部分である頭部を守るために欠かせないこと。
「勝って兜の緒を締めよ」は、戦に勝って兜を脱いだところを敵に襲われ、負傷してしまうのでは意味がないと言う戒めであり、「兜を脱ぐ」では、最重要部分である頭部を守る兜を脱いで無防備になることで、敵に対して無抵抗であることを示すこと(=降伏)を意味しています。
さらに、兜の頑丈さから生まれたと考えられる言葉として、次のような物があります。それが「石部金吉鉄兜」(いしべきんきちかなかぶと)。「石」と「金」という硬い物を2つ並べて人名のようにし、その人物が鉄兜のような堅牢な物を被ることで、さらに頑丈になっていく様から転じて、全く融通の利かない人(=頭の固い人)を表す言葉になりました。
これらのことわざ(言葉)の大前提は、兜が頑丈な物であるということ。すなわち、人々が兜の防御力に大きな信頼を寄せていたことが分かるのです。