奈良時代

藤原仲麻呂の乱
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藤原仲麻呂の乱 藤原仲麻呂の乱
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「藤原仲麻呂の乱」(ふじわらのなかまろのらん)は、764年(天平宝字8年)「藤原仲麻呂」が当時対立していた「孝謙上皇」(こうけんじょうこう)と側近の僧侶「道鏡」(どうきょう)を排除しようとして起こした反乱です。しかし反乱は失敗に終わり、藤原仲麻呂は先回りした孝謙上皇軍に追い詰められ、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の三尾埼(みおさき)で捕らえられ処刑されました。今回は、藤原仲麻呂の乱が勃発した経緯について詳しく解説します。

孝謙天皇の譲位と淳仁天皇の即位

朝廷内で権力を握っていた藤原仲麻呂

藤原仲麻呂

藤原仲麻呂

聖武天皇」(しょうむてんのう)が譲位したあと、天皇に即位したのが女性天皇である「孝謙天皇」(こうけんてんのう:のちの孝謙上皇)。

聖武天皇には男子がいましたが早逝したため、女性ながらも皇太子となっていた「阿部内親王」が、孝謙天皇として即位しました。

しかし、皇室では男系が重視されており、女性天皇の即位自体は認められていましたが、女系嫡子に譲位をすることは認められていなかったのです。孝謙天皇は生涯独身を通し、子を持つことができない立場だったため、即位すると間もなく朝廷では、次期天皇について話し合いが行われていました。

当時、朝廷内で権力を握っていたのは藤原仲麻呂。聖武天皇の皇后であり、孝謙天皇の母親でもある「光明皇太后」(こうみょうこうたいごう)を叔母に持つ有力貴族です。

藤原仲麻呂は光明皇太后からの信頼を得て、大納言・「紫微令」(しびれい:皇太后の家政機関の長官)・近衛大将に任じられていました。757年(天平宝字元年)に「養老律令」(ようろうりつりょう)が発令されると、自らを「都督四畿内三関近江播磨等国兵事使」(畿内及び近江・播磨を統括する軍司令官)の地位に任命。

これにより自由に使える強力な軍隊を持つようになり、朝廷内でさらに権力を拡大しました。さらに、聖武天皇が崩御する前に、孝謙天皇の次の天皇として指名されていた「道祖王」(ふなどおう)を廃し、「天武天皇」の孫である「大炊王」を擁立。

大炊王は、藤原仲麻呂の嫡男・藤原真従(ふじわらのまより)亡きあとに、藤原真従の妻「栗田諸姉」(くりたしょし)と結婚していました。

こうした経緯から、藤原仲麻呂は自らの言いなりになる「大炊王」を皇太子に推したのです。そのあと、758年(天平宝字2年)に孝謙天皇が譲位して孝謙上皇となり、大炊王は「淳仁天皇」(じゅんにんてんのう)として即位。

しかし、朝廷内の実権を握っているのは藤原仲麻呂で、淳仁天皇は操り人形でした。760年(天平宝字4年)に藤原仲麻呂は太政大臣に任命され、ついに最高権力者となったのです。

光明皇太后の崩御と僧侶道鏡の台頭

光明皇太后の後ろ盾により藤原仲麻呂が政治を独占

朝廷での勢力を広げていった藤原仲麻呂は、朝廷の実力者であった「橘諸兄」(たちばなのもろえ)を失脚させ、橘諸兄は失意のまま逝去。

757年(天平宝字元年)、橘諸兄の息子「橘奈良麻呂」(たちばなのならまろ)は、孝謙天皇の次の天皇に大炊王とは違う皇族を擁立しようと模索。

藤原仲麻呂を排除するためのクーデターを画策しました。しかし事前に計画が漏れてしまったため、橘奈良麻呂は藤原仲麻呂に捕らえられて処刑されてしまったのです。

こうして歯向かう者がいなくなった藤原仲麻呂は独裁政権を確立し、淳仁天皇を操るだけでなく自分に近い者や親族を次々と要職に就かせて権力を拡大。

ところが、藤原仲麻呂の後ろ盾でもある光明皇太后が760年(天平宝字4年)に亡くなったことにより、勢力に陰りが見えはじめます。孝謙上皇と淳仁天皇との関係が悪化していったのはこの頃から。

762年(天平宝字6年)、孝謙上皇との仲を取り持っていた藤原仲麻呂の正室「藤原宇比良古」(ふじわらのうひらこ)が亡くなり、藤原仲麻呂と孝謙上皇との対立は決定的になりました。

孝謙上皇から寵愛を受けた道鏡の台頭

道鏡

道鏡

孝謙上皇は761年(天平宝字5年)、母親の光明皇太后が亡くなったことをきっかけに病に臥せっていました。

このときに献身的に看病して加持祈祷したのが「弓削氏」(ゆげし)出身の僧侶である「道鏡」(どうきょう) 。

弓削氏は「物部氏」(もののべし)の一族で、道鏡は法相宗(ほっそうしゅう)の高僧「義淵」(ぎえん)の弟子となり、東大寺の開祖「良弁」(りょうべん)からサンスクリット語を学んで秘法を会得したと言われています。

道鏡は生涯結婚できず、子を持つこともできない孝謙上皇の寂しい心の隙間に入り込み、寵愛を受けるようになったのです。

孝謙上皇との対立

孝謙上皇・道鏡と藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立

孝謙上皇・道鏡と 藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立

孝謙上皇・道鏡と
藤原仲麻呂・淳仁天皇の対立

孝謙上皇は道鏡を寵愛し、様々なことを相談するようになりました。孝謙上皇から信頼を得た道鏡は政治にも関与するようになり、それを良く思わない藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて道鏡との関係について諫めます。

道鏡との関係に口を出された孝謙上皇は激怒し、さらに道鏡に対する寵愛を深めて「少僧都」(しょうそうず)という高い地位を与えました。

また「造東大寺長官」(東大寺の増設・運営を司る役職)に「吉備真備」(きびのまきび)を新たに付け、藤原仲麻呂の勢力を排除しようと画策。

吉備真備は孝謙上皇の皇太子時代からの教師であり、近しい関係にありました。そのため藤原仲麻呂に敬遠され、左遷されていたのを呼び戻したのです。こうして孝謙上皇と藤原仲麻呂の間に入った亀裂は大きくなっていきました。

藤原仲麻呂がクーデターを画策

そこで藤原仲麻呂は、孝謙上皇と道鏡を失脚させるためクーデターを画策。自らが畿内全体を統率する総指揮官して、百済征伐 のために集めていた兵を都へ進めて、武力で孝謙上皇と道鏡を排除しようと計画します。

ところが764年(天平宝字8年)9月、孝謙上皇は「高丘比良麻呂」(たかおかのひらまろ)の密告により、事前に藤原仲麻呂の動きを察知。そこで淳仁天皇から、天皇が発令する際に必要な「駅令」(えきれい)と天皇の印鑑である「御璽」(ぎょじ)を奪い、藤原仲麻呂に対し反逆罪で追討を発令します。

孝謙上皇から追われた藤原仲麻呂は、平城京から息子の「藤原辛加知」(ふじわらのしかち)が治める「越前国」(現在の福井県)へ向かいます。

しかし、孝謙上皇の軍勢は先回りして藤原辛加知を殺害し、藤原仲麻呂の行程を予測して関所を閉鎖。行く手を阻まれた藤原仲麻呂は、近江国高島郡の三尾埼で捕まり斬首されました。

こうして藤原仲麻呂の乱は、孝謙上皇の勝利に終わったのです。なお、孝謙上皇は藤原仲麻呂と戦うときに、聖武天皇の日本刀のほとんどを持って行ったとされています。

大きい日本刀はもちろん踊りなどに使う小さい日本刀まで持ち出したと言われており、藤原仲麻呂との戦いに絶対に負けられないという強い意志がうかがえるエピソードです。

そのあと、淳仁天皇は天皇の位を廃されたのち、「淡路国」(現在の兵庫県淡路島)に流されて孝謙上皇の手中の者に暗殺されたと言われています。

孝謙上皇は重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位すること)して「称徳天皇」(しょうとくてんのう)となり、天皇として再び実権を握ったのです。

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