中世においては、初期の兜である「星兜」(ほしかぶと)に改良を加えた「小星兜」(こぼしかぶと)や「筋兜」(すじかぶと)、「頭形兜」(ずなりかぶと)が出現しました。そして、室町時代末期から江戸時代にかけては、鉄板を打ち出したり、紙や革で様々な物を形作ったりした「形兜」(なりかぶと)や、「張懸兜」(はりかけかぶと)など、従来の兜の概念に収まりきらない兜も登場。武将達は、自らの思想・信条を兜に込めた「変わり兜」を身にまとって戦場に立ったのです。ここでは、数多くの個性豊かな作品が作られた当世具足に付属していた、変わり兜について考察します。
「変わり兜」とは、鉢そのものに装飾を施した兜のことで、鉢の材料である鉄板自体を加工して制作された物と、鉢に和紙や皮革などで装飾を施した物の2種類がありました。
当初は鉄板を打ち出す手法によって鉢で物の形を象っていましたが、武将達の自己主張の意識が高まるにつれて意匠が奇抜、長大化。より制作しやすい手段として、簡素な鉢の上に紙や皮革で象った造形を付属させて装飾を施す手法が主流になっていったのです。装飾物には、「立物」(たてもの)も含まれ、戦国武将はここに自らの宗教観や人生観を反映させていました。
例えば、「伊達政宗」(だてまさむね)所用の「黒漆五枚胴具足」(こくしつごまいどうぐそく)は、一際目を引く巨大な三日月の前立。この左右非対称な三日月の立物は、戦国武将がこぞって信仰していたと言われている「妙見信仰」(みょうけんしんこう)につながる物で、政宗も例外ではなく、星や月に武運を祈願していたと考えられます。
変わり兜と言えば、一般的にはこの「形兜」(なりかぶと)を指します。すなわち、動物や植物、神仏に関する事項など、様々な事象を鉢の形で表現。それまでの兜に比べて異形であったことから、こう呼ばれました。
形兜の手法は張懸(はりかけ)と、鉄打ち出しの2種類に分類することが可能。張懸は、事物を象った「張貫」(はりぬき:原型となる木彫りの人形などに、紙を幾重にも貼り重ね、乾燥したあとに原型を抜き取り、漆で固めることで原型と同様の造形物を作る手法)を簡素な鉢に付属させる手法で、鉄打ち出しは、鉄板を打ち出して事物を象る手法です。
張懸の手法で形兜を制作する長所は、実戦での使用における障害が少ないこと。形兜は、戦国武将の思想・信条を反映しているため、意匠は長大で奇抜な物になりがちでした。そのため、鉄で制作した場合には、重量や形状(障害物に引っかかってしまう等)などによって様々な不都合が生じる可能性があったのです。
その点、紙で作られた張貫であれば、どのような意匠の物でも自在に形作れる上、重量はそれほどではなく、障害物などに引っかかってしまった場合にも、張貫部分が変形したり、破損したりするだけ。実戦における不都合は最小限度に止まると言えます。
また、鉄打ち出しで形兜を制作する方法も行なわれていました。この手法で制作された形兜の例としては、烏帽子を象った「烏帽子形」(えぼしなり)や、2または4枚の鉄板をはぎ合わせて中央に「鎬」(しのぎ)を立て、「天辺」(てへん)を尖らせた「桃形」(ももなり)、唐の時代の冠を模した「唐冠」(とうかんむり)などがあります。
「頭形兜」(ずなりかぶと)は、「上板」(うわいた)と左右の「脇板」(わきいた)、幅広い「腰巻板」(こしまきいた)、正面の板の5枚をはぎ合わせて形成しているのが一般的ですが、例外的に1枚の鉄板を打ち出して作る「鉄一枚張」(てついちまいばり)形式の物もあります。
当世具足が制作された時代には、「日根野頭形」(ひねのずなり)、「越中頭形」(えっちゅうずなり)の2種類が代表的な形式です。
日根野頭形は小ぶりで形が良く、上板が前板(眉庇:まびさし)の下に重なっているのが特徴。戦国時代に美濃(現在の岐阜県)を拠点としていた武将「日根野弘就」(ひねのひろなり)が考案したと言われ、曲線的な形状で鉄砲に対する防御力に優れていたことから、「徳川家康」や「真田幸村」らの武将がこれを原型として独自の装飾を施しました。また、越中頭形は上板が前板の上に重なっており、前板の下端が一文字の形状になっているのが特徴です。
「突盔形兜」(とっぱいなりかぶと)とは、天辺が尖った兜のこと。突盔(尖った部分)については、ふくらみのある物や錐(きり)のように急激に細くなる物など、その形によって「柿形」(かきなり)、「錐形」(きりなり)、「椎の実形」(しいのみなり)、「角先形」(つのさきなり)などの種類があります。中でも三角帽のような形をしている角先形は、1枚の鉄板の端を巻き合わせて留めればよく、制作が容易だったことから、大量生産向きの兜でした。
戦勝祈願の仏として、武士の信仰を集めていた五大明王のひとつ「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)が牛に乗っていたと言われていたことから、鉢の部分を牛の頭部を象った兜が作られました。
月は神秘的な対象とされ、星や月を信仰する妙見信仰によって月への信仰も加速しました。月=兎(うさぎ)という連想から、月に武運を祈願する意味で兎をモチーフにしたのではないかと言われています。
兎を象った変わり兜は数多く伝わっており、このことからも妙見信仰が当時の武将に広まっていたことが伺い知れます。
戦国武将「仙石秀久」(せんごくひでひさ)の家臣「谷津主水」(やつもんど)が「大坂夏の陣」で着用していた兜。戦場で「災いが去る」と猿をかけた魔よけの意味があったとも言われています。
通常、兜は3~5kgの重量がありましたが、この兜は1.2kgの軽量。また、着用時に顔がすっぽりと隠れるため、着用者の正体が分からないという不気味さがありました。
変わり兜には、着用する武将の世界観を垣間見ることができる物がある一方で、泰平の世となった江戸時代半ば以降においては、調度品としてバラエティーに富んだ作品が登場しました。
この兜は後者にあたり、鉢の上に熊の頭部を象り、朱漆や金泥で色付けするなど、当時の技術を取り入れた工芸品だと言えます。
薄い鉄板を5枚張りした鉢の上に、「鯱」(しゃち)の張貫が備え付けてある兜。鯱は、頭が虎、尾は魚という想像上の生き物で、城の天守閣などに据え付けられていることでも知られています。
当時、火災になった際に口から水を出して火を消し、城を守ってくれると考えられていたことから、鯱は守り神としても認識されていました。これが転じて、変わり兜には厄除けとして用いられたと考えられるのです。
甲殻類である海老は、その姿形が鎧をまとっているように見え、具足を身にまとっている武者を連想させることから、武家に好まれました。「伊勢海老」を殻ごと輪切りにして煮る料理法を「具足煮」(ぐそくに)と言うのは、その名残です。
戦国武将「前田利長」(まえだとしなが)が所用していたと伝えられる「銀鯰尾形兜」(ぎんなまずおなりかぶと)は、外鉢の高さが127.5 cmという巨大な兜。着用した場合、利長の身長と合わせて3mを超えました。
鯰は古来、地震を起こす魚であると信じられており、大地に対する信仰と結び付いていたと言われています。そのため、多くの武将が変わり兜の意匠として取り入れていました。
蟹は卵を腹に抱えることから子沢山であり、子孫繁栄の象徴として認識されていたと言われています。
また、脱皮を繰り返して成長していくことから、吉祥(きっしょう:めでたい)の動物であると認識され、武家の間で好まれていました。
栄螺(さざえ)は殻が硬いことから、対峙した敵に具足の強度が高いことを想起させることができると考えられていました。
そして、栄螺の中に「栄」の文字が入っていることから、当時の武将は好んで栄螺の造形を用いていたと言われています。
日本では、蜻蛉(とんぼ)は前へ前へと飛んで、決して後ろに下がらないことから、「勝虫」として勝利を呼ぶ縁起のいい虫と言われていた兜です。
「織田信長」が所有した兜の中にも、蜻蛉をモチーフとした前立が施された物があります。
毛虫から蛹(さなぎ)、そして成虫(蝶)へと変身していく蝶は、よみがえりや、不死の象徴と位置付けられていました。
そのため、死と隣り合わせの戦場に赴く武将に好んで用いられたと言われています。
羽を広げて臨戦態勢の蟷螂(かまきり)の様子を、前立で表現している変わり兜です。
蟷螂は、その動作から敵を「刈り取る」象徴として、武将から好まれていました。
「三宝荒神」(さんぽうこうじん)とは、仏・法・僧を守護する神で、三面六臂(さんめんろっぴ:仏像が3つの顔と6本の腕を備えた形をしていること)で怒りの形相を示しています。
この兜を所用したと伝えられる「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は、義を重んじた武将。不浄を嫌った三宝荒神とイメージが重なる部分があると言えるのです。
「畳兜」(たたみかぶと)は、鉢と「錣」(しころ)が一体として制作された兜で、小さく折り畳めることから、持ち運びやすい点が大きな特徴です。
畳兜には「家地」(いえじ:兜の下地となる布)に鎖や「骨牌金」(かるとがね)を縫い付けて作った「頭巾兜」(ずきんかぶと)と、鉢を錣のように縅し下げて作った「提灯兜」(ちょうちんかぶと)があります。
鉄製の鉢の上に、「金剛杵」(こんごうしょ:中央がくびれている、杵に似た両端に刃が付いた密教法具)を握る腕が象られています。
金剛杵は人の煩悩を打ち砕くとされている物。着用者の煩悩(=敵)を打ち砕いてみせるという強い意思が表れていると言える兜です。