「石田三成」(いしだみつなり)は、色白の美少年で「豊臣秀吉」に仕えた知的な武将です。アニメやゲームでも、その側面が描かれる傾向があります。
石田三成は、豊臣秀吉に気に入られて家来となり、事務方として外交を担当しました。
その後、石田三成は「五奉行」となって、豊臣政権の中核を担い、太閤検地、朝鮮出兵などで活躍をみせます。その石田三成の生涯を名言や功績をふまえて、追体験しましょう。
大原観音寺には、石田三成に関する有名な逸話・三献の茶(さんこんのちゃ)が残されています。
長浜城主となった豊臣秀吉は、領地内で鷹狩をしていました。豊臣秀吉は、その帰りにのどが渇いたため、ある寺に立ち寄りお茶を出すように求めます。そのときに対応したのが、寺の小僧・石田三成だったのです。
石田三成は、豊臣秀吉に初めの1杯を「ぬるめのお茶を大きめの茶碗」に入れました。豊臣秀吉がそのお茶を飲み干すと、今度は「少し熱めのお茶をやや小さめの茶碗」に入れます。もう一度飲み干すと「熱いお茶を小さい茶碗」に入れて持ってきました。豊臣秀吉のニーズに合わせて温度の違うお茶を3つの茶碗に分けた気遣いをほめられ、寺の小僧・石田三成を家来に組み入れたと伝えられています。
しかし、この三献の茶には諸説あり、舞台が大原観音寺でなく古橋法華寺とする説や、この説を否定する説も存在。現在では、この三献の茶の機転がきく男・石田三成のストーリーが、石田三成と豊臣秀吉のファースト・コンタクトの物語として語られるようになりました。
石田三成には大谷吉継という盟友がいました。大谷吉継は豊臣家に仕えた戦国武将で、関ヶ原の戦いの際は西軍につき、石田三成と運命をともにしています。そんなふたりを結びつけたのがお茶なのです。
あるとき、大谷吉継は豊臣家の茶会に参加しました。参加者は順番にお茶を飲んでいましたが、大谷吉継に茶碗がまわってきたときに不幸なことが起きてしまいます。
当時の大谷吉継は「らい病(ハンセン病)」を患っており、ただれた顔から落ちた膿が茶碗に入ってしまったのです。それを見た他の参加者達が気味悪がって大谷吉継から茶碗を受け取ろうとしなかったところ、助け舟を出したのが石田三成でした。
「喉が渇いた」と言って茶碗を受け取ると、平然とお茶を飲み干し、もう1杯欲しいと申し出たのです。石田三成の優しさと気遣いに心を打たれた大谷吉継は、「この男についていく」と決心したとされています。
お茶を通じて、主君の豊臣秀吉、盟友の大谷吉継を得た石田三成。その生涯はお茶と不思議な縁があったと言えるでしょう。
1574年(天正2年)石田三成は、14歳で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えるようになると、武士よりも外交を担当する事務方として奉公しました。
このことは、石田三成が20歳頃の1582~1583年(天正10~11年)に書いたと推定されている書状「石田三成発給文書目録稿」(いしだみつなりはっきゅうぶんしょもくろくこう)が残されていることからも分かります。石田三成は、豊臣秀吉に仕えるようになって、事務としての才能を発揮していったのです。
石田三成がこの書状を書いた頃は、ちょうど主君である豊臣秀吉が勢威を増しはじめた時期でした。豊臣秀吉は、「本能寺の変」から1年後の1583年(天正11年)に、織田家の重鎮「柴田勝家」(しばたかついえ)との「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で大勝を収めます。この戦で、豊臣秀吉は正式に「織田信長の後継者」となりました。
石田三成は、この戦の外交戦略や情報収集などの武功により、近江国(現在の滋賀県甲賀市)「水口城」の城主になったと伝えられています。
石田三成が本当に水口城主になったかは諸説ありますが、水口城主時代に「島左近」(しまさこん)を高給で雇った逸話は有名です。
石田三成が豊臣秀吉に40,000石を加増された際、豊臣秀吉は石田三成に「ちなみに何人家来を従えている?」と尋ねました。
石田三成は「ひとりだけですよ」と答えると、豊臣秀吉は呆れ、「そのひとりとはいったい誰だ?」と質問し、石田三成は「島左近です」と答えます。
島左近は実力のある猛将であり、石田三成のような小禄の武将に収まる人物ではありませんでした。そこで豊臣秀吉は「いったいいくらで雇ったのだ?」と尋ねると、「40,000石の半分の20,000石で雇いました」と答えたのです。
豊臣秀吉は「君臣の禄高[ろくだか]が同じなんて聞いたことがないぞ。でも、そのくらいの高給じゃないと島左近のような武将が石田三成に仕えることはないだろうな」と笑いながら答えたとされています。
1585年(天正13年)に、豊臣秀吉が日本初の武家関白へと出世すると、石田三成は従五位下・治部少輔という高い官位となり、出世を果たします。
さらに、石田三成はなんと25歳の若さで官僚になり、豊臣政権下の「五奉行」に数えられたのです。石田三成は、司法や行政を担当し、豊臣政権の中核を担いました。
また、1585年には「墜水の会」と呼ばれる出来事があり、豊臣秀吉が石田三成らを連れ、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)に会談を申し入れに行っています。この会談は、豊臣秀吉が天下統一をするために上杉謙信も協力してほしいという内容でした。
石田三成は、このような重要な会談にも参加する参謀、または外交官のような立場であり、1586年(天正14年)に「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が上洛して豊臣秀吉の傘下に入った際には、石田三成が出迎えています。
豊臣秀吉が1590年(天正18年)に天下統一を果たすと、戦乱も収まり平和な時代の兆しが見えつつありました。そのような平和な時代で、石田三成のような知性ある武将は重要な役柄を担っていくことに。
石田三成は、豊臣秀吉による財政改革「太閤検地」の実行役として全国各地を転々とします。この太閤検地は田畑の広さと収穫量を調べ、地域ごとに石高という単位で土地の生産性を計測するものでした。年貢を正確に納めさせることで税収の安定化を目指したとされています。
石田三成は、1584年(天正12年)から美濃や奥羽、越後、薩摩など全国各地の石高の測量を行いました。石田三成は、この経験で得た知恵で検地の専門家となり、検地奉行の相談役を務めます。石田三成は、検地の方針「七ヶ条の誓い」を検地奉行に定めさせました。
この七ヶ条の誓いは、「謝礼をもらっても検地はきちんと行う」、「主君に対して失礼なことをしない」、「部下が謝礼をもらわないように取り計らう」、「自分が担当するエリアは迅速かつ丁寧に検地する」、「不心得者がいれば報告する」、「農民に乱暴な対応をしたり、威張ったりしない」、「村人が憎い者でも不公平な検地はしない」というものです。
知将・石田三成の真面目でかつ、公平な政策を心がける人柄が表れている方針となっています。
豊臣秀吉は、天下統一を確実なものとするために、九州平定や小田原平定、奥州平定などで戦国大名との権力バランスを調整していきます。こうして徐々に領土の平和を実現していきました。その際に物資の輸送や戦後処理を担ったのが石田三成です。
また豊臣秀吉は、1588年(天正16年)に天下に勢威を示そうと、豊臣秀吉の邸宅「聚楽第」に「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招きました。これが「聚楽第行幸」であり、後陽成天皇は天皇の政治的地位の回復を図ったとされています。こちらの対応を行ったのも石田三成で、天皇を手厚くもてなしました。
こうして、豊臣秀吉のもとで多様な任務を難なくこなし、経歴が「名ばかり」にならない働きぶりを見せたのです。
石田三成は、30代に入ると近江国坂田郡(現在の滋賀県)にあった「佐和山城」の城主となり、佐和山190,000石の地を治めました。
この佐和山は、畿内と東国を結ぶ要衝であり、軍事、政治、経済的に重要な地域でした。また、このころ近江では「石田三成の身に余る物は2つある。島左近と佐和山城」と謳われています。このように佐和山の支配や猛将の家臣の島左近は、石田三成にはもったいないという意見もありました。
しかし、石田三成による佐和山の統治は領民思いの「善政」とされており、石田三成は領民から慕われていました。石田三成は領内で「十三ヶ条掟」と「九ヶ条掟」という掟を定め、年貢の計算に関する詳細な規定を取り決めています。
規定の中には「農民に困ったことがあったら、取次役を通さずに自分[石田三成]に直訴して下さい」と直訴を許可する内容も。年貢のシステムを正確に機能させ、年貢を払う義務を果たそうとした石田三成の真面目な人物像がうかがいしれます。
その後、石田三成は豊臣秀吉に忠誠を尽くし、豊臣政権の屋台骨として欠かせない存在にまで出世。この際に家臣の島左近に加増しようとしましたが、島左近に「もう禄はいらないです。他の家臣にあげて下さい」と断られています。もっと多くの兵を雇い石田軍を強化なものにしてくれと申し出たのです。
豊臣秀吉は日本を平定すると、明国(中国)の征服を目指します。明国に向かうためには、朝鮮半島を経由しなければ行けません。その朝鮮半島で1592年(文禄元年)に起きた反乱の鎮圧のために出兵したのが、有名な「文禄の役」(朝鮮出兵)です。この年に石田三成は、朝鮮出兵を取り仕切る「朝鮮総奉行」に任命されます。
文禄の役は、日本を平定した直後。戦国の世で鍛えられた日本軍は凄まじい強さを誇り、たったの2ヵ月で次々に朝鮮の城を落としていったのです。
豊臣秀吉の家臣で石田三成と同じ文治派(武力を用いない政治派閥)の「小西行長」(こにしゆきなが)や、同じく家臣で勇猛果敢な武闘派「加藤清正」(かとうきよまさ)が漢城(ソウル)落城を達成しています。
戦いが長期化するにつれ、日本軍は補給路が断たれ、飢餓に苦しみ、病原菌の蔓延で苦戦を強いられます。
困った日本軍は小西行長と石田三成が中心となり、明国との講和(戦の終結)を進めました。しかし、豊臣秀吉は「連戦連勝」の報告を受けていたので、強気な講和条件を提示することに。
その講和の条件は、「皇女を天皇の后[きさき]にする」、「日明貿易を再開する」、「朝鮮の領地の約半分はもらう」などといったものでした。
ところが、実際に小西行長と石田三成らが提示した講和条件は、「豊臣秀吉を日本王で朝貢(ちょうこう:皇帝に貢物を献上)する」という弱腰の条件で、武闘派の加藤清正はこの講和条件に不満を持ち、日本軍は分断の危機に瀕します。
そこで、小西行長は豊臣秀吉に「加藤清正の朝鮮での行いはひどすぎる」と報告しました。これに豊臣秀吉は激怒し、加藤清正を呼び出します。加藤清正は無理矢理帰国させられたため、「これは石田三成のせいだ」と勝手に思い込み、煮え切らない思いでいました。そこで加藤清正は、五奉行のひとり「増田長盛」(ましたながもり)に豊臣秀吉の怒りを解いてもらうように頼みこみます。
すると増田長盛は、「石田三成と仲良くすべき」とアドバイス。これに加藤清正は憤慨し、「切腹しろと言われても、仲直りはしない」と石田三成を拒絶。この一件で武闘派と石田三成の間に確執が生じてしまったのです。
明は日本側の講和条件であった「豊臣秀吉を日本王にする」という弱腰の条件を承諾し、豊臣秀吉のもとにはその承諾書が届きました。
しかし、豊臣秀吉は自分が命じた強気な講和条件が承諾されたものだと思い込んでいたため、唖然としてしまいます。その後、豊臣秀吉は1597年(慶長2年)に「慶長の役」として再度朝鮮出兵を決断。
慶長の役が始まり、加藤清正は「蔚山城」(いさんじょう)で籠城戦を強いられましたが、「毛利秀元」(もうりひでもと)らの援軍により、逆転勝ちします。
この戦が終わると、武闘派の「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)と加藤清正、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)らは、明国・朝鮮連合軍の勢力を懸念しはじめます。そこで、豊臣秀吉に朝鮮の城を放棄して戦線を縮小するように提案。小西行長と石田三成は、この提案を却下し、豊臣秀吉は発案した者達を厳しく処分します。
なかでも小早川秀秋は勝手な行動を非難され、転封(てんぽう:領地を変えること)させられるなど領地を減らされる厳しい処分を受けました。禄高も低くなり、小早川秀秋は家臣達の人員削減を余儀なくされます。
さらにもとの領地には石田三成が代官として着任したため、処分を受けた武闘派は「また石田三成にしてやられた」と恨みます。石田三成と武闘派との溝はのちの「関ヶ原の戦い」に影響を及ぼすことになりました。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、日本軍は朝鮮から撤兵します。撤兵を指揮したのは石田三成で、約3ヵ月を要しました。その2年後に関ヶ原の戦いが起きます。
加藤清正ら武闘派は、朝鮮出兵で石田三成と確執が生じたため、徳川家康率いる東軍に付き、石田三成は西軍に付きました。西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)は石田三成と朝鮮出兵時からの仲です。
小早川秀秋は、転封の原因を作った石田三成を恨み、開戦後に西軍を裏切ります。それに呼応して西軍の武将が次々と寝返っていきました。結果的に西軍は関ヶ原の戦いで敗れ、石田三成は近江国浅井郡(現在の滋賀県)に逃れて、再建を図ろうとしたのです。
石田三成は、農民である「与次郎太夫」に匿われ、身を潜めていました。与次郎太夫からすれば石田三成は旧領主であり、かつて飢饉が起きた際に村人を救ってくれた命の恩人でした。しかし、そのことが名主にバレてしまい、「田中吉政」(たなかよしまさ)に差し出すように言われます。石田三成は、匿ってくれた与次郎太夫の好意に感謝して、自ら捕縛を申し出ました。
石田三成は、旧知の仲であった田中吉政と対面すると「豊臣家のためにしてきたことなので、後悔はない」として豊臣秀吉から拝領した脇差を田中吉政に与えました。田中吉政は石田三成を手厚くもてなし、3日後に徳川家康に引き渡します。
その後、石田三成は捕縛されている様子を見物しに来た小早川秀秋に、「お前が裏切るとは思えなかったのは私が馬鹿だった。しかし、道理を捨てて人を騙して裏切ったことは武将として恥だ、後世に笑われてしまうべきだ」と言い放ちました。
関ヶ原の戦いで敗れ、東軍に捕らえられた石田三成は、京の六条河原で処刑されることになりました。最後を目前にした石田三成が、その胸中を語った逸話が残っています。
処刑前の石田三成は「喉が渇いたので水が欲しい」と、見張りの者に要求しました。見張りの者が「水はないから柿を食え」と答えると、石田三成は「柿は痰の毒になる」と言って、柿を食べるのを拒みます。「これから死ぬ者が毒を気にしてどうする」と見張りの者は笑いましたが、それに対して「大志を持つ者は最後まで命を惜しむ」と、石田三成は語りました。
石田三成は絶体絶命の状況でありながらも、万が一の奇跡が起きて生き残ったときのことを考えていたのです。しかし、やはりその奇跡が起きることはありませんでした。
石田三成は処刑されて、41歳の生涯を閉じます。
石田三成は真っ直ぐな性格だったとされています。というのも、主君である豊臣秀吉への忠義を生涯、貫いたからです。
豊臣秀吉に家臣として取り立てられた石田三成は、その恩に報いるべく猛烈に働きました。外交や内政などの政治面で力を発揮し、豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献しています。豊臣秀吉の死後は、豊臣家から天下を奪おうとした徳川家康と対立。盟友である大谷吉継から「徳川家康と戦っても勝ち目は薄い」と忠告されても、豊臣家のために関ヶ原の戦いに踏み切りました。
ただ、石田三成は真っ直ぐすぎて不器用なところがあったとも言えます。不器用ゆえに加藤清正らの武将から誤解を受けた結果、敵対関係となり、そのことが関ヶ原の戦いの敗因のひとつになってしまったのです。
良くも悪くも真っ直ぐな性格だった石田三成ですが、その真っ直ぐさは今でも多くの人々を惹きつけています。
徳川家康は、大津で石田三成と面会したあと、「石田三成は大将の道を知る者だ」、「人の出来が違う」と称賛しました。
石田三成は、徳川家康と面会したあと、徳川家康の側近筆頭「本多正純」(ほんだまさずみ)に身を預けられます。この際、石田三成は本多正純に戦略を非難され激怒、本多正純を罵倒し、その後、一切口を開きませんでした。
徳川家康は、処刑前に石田三成、小西行長、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)の3人に小袖を与え、その中の2人は小袖を受け取りましたが、石田三成だけは「この小袖は誰から送られてきた物だ?」と尋ねたのです。徳川家康からの物だと聞き、「上様は秀頼公[豊臣秀吉の三男]以外にいないだろう。いつから徳川家康が上様になったんだ」と返し、小袖を受け取ろうとしませんでした。
また、石田三成は処刑直前に警護に「のどが渇いたので水が欲しい」と所望します。その際、警護には「水はないから、柿を食え」と言われ、「柿は痰の毒だ」と答えて拒否。警護は、笑いながら「これから死ぬ者が毒を気にしてどうする」と言い放ちました。しかし、石田三成は「大志を持つ者は、最期まで命を惜しむ者だ」と逆境の中でも冷静に答えたとされています。
1600年(慶長5年)、石田三成は斬首となり、41歳で死去。石田三成は、様々な困難にぶつかっても、理性的に考え、逆境にめげない性格でした。ゆえに、豊臣秀吉の無理難題にも応えて多くの功績を残すことができたのです。
辞世の句「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
(意味:そこの漁師が芦の間で灯すかがり火の如く儚く消えてゆくのが自分の命である)
「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)は、石田三成が用いた家紋で「ひとりが全員のために、全員はひとりのために尽くせば、天下に平和が訪れる」という意味。
石田三成が使用していたことで有名ですが、本来は石田氏の「九曜紋」(くようもん)と呼ばれる家紋を用いていました。
九曜紋は、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜、計都(けいと)、羅睺(らごう)と呼ばれる9種類の星を表現。もとはインドの天文学や占星術で扱われていました。
日本へ伝わると、平安時代以降から貴族、武士の間で信仰の対象として用いられ、石田氏もその一族であったとされています。
石田三成が用いていたことで有名な大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)は、石田氏以外の家でも使用。
鎌倉時代からの名家である山内氏が用いていた大一大万大吉は、時代を経て石田氏が使用していたことにすり替えられてしまったとされているのです。
実際に江戸時代の旗本である山内氏は、大一大万大吉の家紋を用いていたと言われています。
石田三成が保持していた愛刀は「石田正宗」。沸(にえ)の美しさを表現した「相州伝」(そうしゅうでん)を大成させた「正宗」の代表作と言うべき1振です。
刀身の棟に2ヵ所、茎の棟に1ヵ所の切込み(受け傷)があることから、別名「石田切込正宗」(いしだきりこみまさむね)とも呼ばれています。
「享保名物帳」によれば、毛利若狭守が所持していた物を宇喜多秀家が四百貫で買い、石田三成に贈ったと言います。その後、石田三成は、護衛をしてくれた結城秀康と気が合い、自ら所有する正宗を結城秀康に贈りました。
結城秀康は、この日本刀を石田正宗と名付け、生涯に亘り大切にしたと言われています。
時代劇の関ヶ原の戦いを描写したシーンで、石田三成がインパクトの強い兜をかぶっているのを見たことはありませんか。その兜は「乱髪天衝脇立兜」(らんぱつてんつきわきだてかぶと)という名称です。
牛の角を連想させる立派な脇立と、乱れ髪のような毛髪状の飾りが勇壮さを醸し出しています。智将というイメージのある石田三成ですが、この兜を身に付けたときは歴戦の猛者のようでした。残念ながらこの兜の実物は現存していませんが、2000年(平成12年)に放映された大河ドラマの制作のなかで、復元品が作られました。
現在、この復元品は岐阜県の「関ヶ原町歴史民俗資料館」で展示されています。石田三成のファンという方はぜひ一度、見物に訪れてはいかがでしょうか。
「薙刀 銘 丹波守吉道」(なぎなた めい たんばのかみよしみち)は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに際し、石田三成から常陸国(現在の茨城県)の武将「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)へ、西軍への助勢を願って贈られた薙刀(なぎなた)です。
佐竹義宣は、「治部[じぶ:石田三成の役職]なくして生きる甲斐なし」と言ったほど、石田三成に対して並々ならぬ恩義を感じていた武将で、石田三成が武断派に襲撃された事件のときも、武断派から石田三成を逃がし匿いました。関ヶ原の戦いにおいては、ほとんど動かずに中立の立場を取り続け、徳川家康からは「困りすぎるほどの律義者」と評されています。
薙刀 銘 丹波守吉道は、「三品派」(みしなは)の祖となった刀工「丹波守吉道」(たんばのかみよしみち)の手による薙刀です。丹波守吉道は、「簾刃」(すだれば)と呼ばれる華やかな刃文(はもん)を創始したことでも知られ、幕末に至るまで7代存続しました。
本薙刀は丹波守吉道最初期の作刀であることから、簾刃はまだ確認できず、頭がタコのように丸くなった、互の目乱れ(ぐのめみだれ)の刃文である、「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)と呼ばれる刃文が観ぜられます。
なお、本薙刀の拵(こしらえ)は石田三成から佐竹義宣へ贈られた当時のままの物。刀身のみならず、拵からも、当時の様子について知ることができる貴重な資料です。