「弓矢」は、狩猟用に生み出された武具です。遠方の獲物に気付かれず、素早く仕留められる優れた狩猟道具であることから、世界各地で開発・改良されました。日本における弓矢は、西洋の弓矢と構造や形状が異なっているため、「和弓」とも呼ばれています。和弓は、現代でも競技の一種「弓道」で扱われ、その形状の美しさだけではなく、弓矢を構える姿の格好良さから海外でも人気です。「和弓」の特徴と共に「弓の名手」と呼ばれた武将たちの逸話をご紹介します。
狩猟をするために開発された弓矢ですが、手を触れることなく遠方の獲物を仕留められることから、特別な道具として神事や呪術などにも使われてきました。
現代でも、日本の国技である「相撲」では、弓を用いた「弓取式」(ゆみとりしき:大相撲の本場所において行なわれる儀式のひとつ)が行なわれる他、「破魔矢」(はまや)や「破魔弓」(はまゆみ)などのように、家内安全を願うお守りとして浸透しています。
「和弓」は、日本の弓矢を示す言葉です。世界にある弓矢と比較して、特筆すべき点はその大きさで、弓単体の長さは2m以上。
また、長大なために弓を握る位置も中央ではなく、やや下部を握ることも特徴のひとつ。
「弓道」という形で現代でも使用されていますが、練習しなければ真っ直ぐ飛ばすことができないほど、扱いがとても難しい武具です。
和弓は、歴史とともにその形が変化しています。
石器時代の原始的な狩猟用の弓からはじまり、対人用の武器として「丸木弓」(まるきゆみ)が考案され、威力を上げるために竹と木を組み合わせた「合弓」(あわせゆみ)が登場し、そこからさらに合戦向けの「籐弓」(とうゆみ)へと発展したのち、戦国時代後期頃からは現代の弓道にも流用されている「弓胎弓」(ひごゆみ)などの競技用の弓矢が主流となりました。
丸木弓は、木の枝をそのまま利用した原始的な弓。奈良時代頃まで使用されていましたが、その構造は両方の先端部を削って、そこに弦を引っ掛けるだけという簡素な造りでした。
弓の素材は木の枝だけなので、その威力は木の弾力性に頼るしかなく、また飛距離も短かったと言います。
威力を少しでも上げるために、「梓」(あずさ)、「檀」(まゆみ)、「柘」(つげ)など、比較的弾力のある樹木が素材に用いられました。
弾力性がある竹と組み合わせることで威力が向上し、丸木弓よりも丈夫なため、のちに開発される弓胎弓の原型にもなっています。
籐弓で代表的なのは「重籐弓」(しげとうゆみ)。長さが2mにもなる世界最大の弓です。最大飛距離は400mにもなり、また有効射程(敵に致命傷を負わせられる距離)は約80mもあったと言われています。
弓胎弓は、弓を構成する素材のほとんどに竹を使用した合弓。
従来の弓よりも耐久性や弾力性が優れており、また中心となる「芯」の部分にも竹を組み込んだことで威力が増しました。
素材・構造共に現代の弓道で使用する弓具の基礎となった弓とも言われており、弓の弦を引く際に使われる手袋型の弓具「弽」(ゆがけ)も、弓胎弓が制作された頃にその原型が作られたと言います。
日本の長大な弓を「和弓」と呼ぶのに対し、西洋の弓は「洋弓」と言います。
洋弓には主に、縦向きにして使う「ロングボウ」型の長弓、ロングボウより短い弓「コンポジットボウ」、横向きにして使う「クロスボウ」型の機械弓などがあり、国や時代によってそれぞれ独自の進化を遂げました。
和弓に最も近い形状の「ロングボウ」は、グレートブリテン島のウェールズやイングランドなど、ヨーロッパの中でも一部の地域では使用が確認されています。
しかしそのあと、日本同様に銃が普及したことで徐々に戦場から姿を消しました。
なお、和弓と洋弓はその形状だけではなく、素材や矢をつがえる位置も異なっています。和弓では、弓の中央からやや下部で矢をつがえますが、これは張力を上げるためです。
張力が上がれば、より遠くへ矢を放つことが可能になりますが、正確に的へ飛ばすには高い技術力が必要になります。
また、和弓には立った状態で射る「立射」(りっしゃ)、床に膝を付いた状態で射る「座射」(ざしゃ)の他、「射法八節」(しゃほうはっせつ)と呼ばれる独特の作法が存在するなど、洋弓とは様々な点で異なっているのが特徴です。
一方で、弓の中央に矢をつがえる洋弓は、最低限の練習等は必須ですが、的に当てることは和弓ほど難しくないと言われています。
和弓 | 洋弓 | |
---|---|---|
大きさ | 約210cm | 約120~180cm |
主な素材 | 竹・ハゼノキ・唐木 | イチイの木・ニレの木 |
射程 | 400m以上 | 約300m |
矢をつがえる位置 | 中央より下部 | 中央 |
日本では、石器時代から狩猟用の武器として弓矢が用いられていました。
当時、制作された銅鑼(どら)に彫られた絵には、弓矢を携えている人の様子が描かれていますが、実際に当時の弓がどのような形状をしていたのかは、実は定かになっていません。
理由は、弓が天然素材の武器であるため。本体部分が木などで作られていたと想定される矢に関しても、発掘調査などで出土するのは、石や骨の他、鉄などの金属で作られた「鏃」(やじり:矢の先端に付く、的に刺さる部分)のみです。
石器時代の弓矢は、後世に発達した弓胎弓(ひごゆみ)などのように、強度や威力は高くなかったと推測されるので、使用する際は近距離の動物などを狙ったと考えられます。
時代を経て、狩猟から対人用の武器として変化した弓矢は、次第にその形状も長大さを増していき、合戦時には刀剣や槍などの近接用武器をしのいで、弓矢が主要武器として使われるようになりました。
対人武器として用いられた時代は長く、平安時代頃から戦国時代中期、つまり鉄砲が普及した直後までは、合戦で欠かせない武器として重宝されます。
「源平合戦」をはじめとした中世の合戦では、騎兵を含めてすべての兵が弓矢を携え、矢を使い終わったあとに太刀を使用して近接戦闘を行なったと言われています。
また、戦国時代になり、鉄砲が登場しても弓矢は依然として主要武器であり続けました。理由は、鉄砲より静かに遠距離を狙えるため、隠密行動時の武器として優れていたため。
また、鉄砲は威力が高い一方で装填に時間がかかったり、雨のときは火薬が湿気ると着火できなかったりするなどの欠点があったことも理由に挙げられます。
合戦では、鉄砲の装填時間を考慮して弓矢部隊を傍に配置し、鉄砲隊が次弾を装填する間に弓を射り、敵を牽制するという連携で欠点を補いました。
「那須与一」は、平安時代末期の御家人・武将。幼少時から弓矢の腕前が優れており、左右の腕の長さが変わるほど弓矢の修行をしすぎていたとも言われています。
那須与一の逸話で最も有名なのは、「平家物語」に書かれる「扇の的」。1185年(元暦2年/寿永4年)の治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いのひとつ「屋島の戦い」で、休戦状態になったときのこと。
平氏軍から美女が乗った一隻の小舟が現れます。美女は、舟の先端に扇を取り付け、「この扇を矢で射抜いてみろ」と源氏軍を挑発しました。この時に抜擢されたのが那須与一。那須与一は、「南無八幡大菩薩」と神仏に加護を祈り、切腹を覚悟の上で鏑矢(かぶらや)を放ちます。
すると、矢は扇の柄に当たって海へ落ち、扇は空へと舞い上がりました。
この妙技を見ていた平氏軍、及び源氏軍が両軍共にどよめいて感嘆する中、平氏側からひとりの武者が飛び出してきて、扇があった場所で小躍りをはじめました。
「源義経」は、「あの武者を射よ」と那須与一に命じます。那須与一は、命じられた通りに平氏の武者を射抜きましたが、この行為によって平氏軍は激怒。再び戦いがはじまり、源氏は平氏に勝利するのです。
「源為朝」は、平安時代末期の武将。身長は2mを超え、気性が荒い一方で「5人張り」と言われる、5人がかりで張る剛弓の使い手として名を馳せました。源為朝は、「鬼ヶ島」の鬼を引き連れて帰ってきたなど、多くの逸話がある人物ですが、中でも有名なのは「保元の乱」のあとに伊豆大島へ流刑されたときの出来事です。
源為朝は、弓矢が引けないようにと肘の骨を外された上で流刑されましたが、その腕の傷が癒えたことをきっかけに伊豆大島内で反乱の準備を整えるなど、勝手な振る舞いを行ないはじめます。朝廷は、源為朝の不穏な動きに気付き、討伐の院宣(いんぜん:院司[いんし:役人]が上皇や法皇の意志を代筆した文章)を下しました。
院宣を受けて「工藤茂光」(くどうもちみつ/しげみつ)や伊東氏などの豪族が500余騎、計20艘の軍勢で伊豆大島へ進軍。
源為朝は、この大軍を見て勝ち目がないことを悟り、島で生まれた9歳の息子「源為頼」を刺し、そのあと自害しようとしますが、一矢報いてから果てることを決意しました。数百人が乗る大船へ向かって矢を射掛けると、矢は見事に船体へ的中。舟は穴があいたことで傾き、たちまち海中へと沈んでしまいました。
「立花宗茂」は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将・大名。「誠実」、「温厚」、「戦上手」、「文武両道」と、非の打ち所のない人物だったため「武士の中の武士」と言われており、「豊臣秀吉」や「徳川家康」からも評価されていました。
立花宗茂が弓の名手であることを示す逸話は、主に2つあります。
ひとつ目は、「浅野長政」と鷹狩りに出かけたときのこと。
この日、鷹はほとんど飛んでいなかったため、立花宗茂は鷹の代わりに遠く離れたところの鴨を矢で射抜きました。さらに従者に命じて獲物を探させたとき、浅野長政から「あなたの腕前は確認しました。万一、外すことがあれば名折れではありませんか」と制止の言葉がかかります。
そのとき、1羽のホオジロが飛び立ちました。立花宗茂は即座に矢を放ち、見事にホオジロを射止めたのです。
2つ目の逸話は、「朝鮮出兵」における戦いのひとつ「碧蹄館の戦い」に勝利したあとの宴会での出来事。
立花宗茂は、「黒田長政」と「鉄砲と弓矢のどちらが優れているか」という話で口論になり、2人は勝負することになりました。立花宗茂は弓矢を、黒田長政は鉄砲を用いて的となる「笄」(こうがい:髪を整えるための道具)を狙います。先手は立花宗茂で、放った矢は見事、笄に命中。
一方で黒田長政は、風が吹いてきたことで弾の軌道が逸れて、結果、笄には当たらず背後の壁にめり込んでしまいました。勝負のあと、立花宗茂と黒田長政は和解し、勝負に用いた弓矢と鉄砲を交換したと言われています。
「大島光義」(おおしまみつよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。通称「大島雲八」(おおしまうんぱち)。
生涯で53度の合戦に参加し、93歳で「関ヶ原の戦い」に参戦。97歳まで生きて、通算41通の感状(かんじょう:活躍した家臣に与えられる賞賛・評価の文書)を得た長寿の戦国武将として有名です。
大島光義は、幼い頃から弓の鍛錬を欠かさず行なっていました。
13歳のときには敵兵を弓矢で仕留めたという逸話にはじまり、樹木の陰に潜んだ敵兵に向かって矢を放った際、樹木を貫いて敵兵を射抜いた他、84歳という高齢になっても弓の腕が衰えていなかったことを示す逸話もあります。
京都で「豊臣秀次」に付き従って「清水寺」へ向かう道中のこと。豊臣秀次が突然、「法観寺」の五重の塔・通称「八坂の塔」を指し示し、「あの窓に矢を放てる者はおらぬか」と言いました。
八坂の塔は、高さが46mもある建造物です。誰も名乗り出ない中、唯一進み出たのが大島光義。弓矢の名手であることを知らない者達は、「年寄りが無理をするな」とあなどって笑っていました。一方で大島光義は、笑う者達のことなど気にも留めずに得意の速射を披露します。
放った矢の数は10本。矢は、八坂の塔の小窓へと吸い込まれるように入っていき、10本すべてが天井に突き刺さりました。