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楠木正成-歴史上の実力者
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楠木正成-歴史上の実力者 楠木正成-歴史上の実力者
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日本の歴史上屈指の忠臣として名高い楠木正成(くすのきまさしげ)。鎌倉幕府討伐から南北朝時代突入までの激動の時代を、後醍醐天皇に寄り添いサポートし続けた楠木正成の生き様は、「忠臣蔵」の物語と混ざり合い、歌舞伎や浄瑠璃となって現在も人々に語り継がれています。

悪党!楠木正成

楠木正成の前半生は、実はよく判っていませんが、河内・和泉(現在の近畿地方)を本拠地とする「悪党」であったと言われています。

悪党と言うと犯罪者など、悪事をはたらく者というイメージがありますが、ここで言う悪党とは朝廷や幕府の支配下にない人々を指します。

そんな楠木正成がなぜ、後醍醐天皇の家臣になったのでしょうか?

後醍醐天皇、夢のお告げで楠木正成を家臣にする

楠木正成

楠木正成

楠木正成と後醍醐天皇との出会いについては、「太平記」に記された夢のお告げに関する逸話が有名です。

鎌倉時代後期、朝廷は持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)との間で皇位を巡るいざこざが絶えませんでした。

自らの子孫による天皇親政を目指す後醍醐天皇は、鎌倉幕府を打倒すべく、1331年(元弘元年)に「元弘の乱」(げんこうのらん)を起こしたのです。

しかし戦況は芳しくなく、笠置山(かさぎやま)に籠城。心細い日々を送っていたある日のこと、後醍醐天皇は夢を見ました。

広い庭の宴席で自分の席を探していると、上座が空いていた。すると美しい童子が現れて、「南に枝を伸ばした大きな木の下にある上座があなたの席です」と言う。目を覚ました後醍醐天皇は、「木」に「南」で「楠」という文字になることに気付き、楠という者を頼るべしという神のお告げに違いないと該当者を探させたところ、該当する者は楠木正成ただひとりだった。

笠置山に参内した楠木正成は「弓矢取る身の面目、これに過ぎるものはありません。」(武人としてこれほど名誉なことはない)と快諾しました。「戦いに敗れてもこの正成さえ生きていれば、必ずご運は開けるでしょう」と後醍醐天皇に忠誠を誓ったと言われています。そして楠木正成は赤坂城で挙兵しました。

楠木正成
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

楠木正成の活躍

笠置山での戦いは圧倒的に兵力が劣るものの、笠置山という天然の要害に守られた後醍醐天皇側が幕府軍を相手に善戦していました。

しかし、ある暴風雨の夜、幕府側の火計(山への放火)により、後醍醐天皇側は総崩れとなり、笠置山は陥落。後醍醐天皇とその側近は幕府軍に捕らえられてしまいましたが、後醍醐天皇の第三皇子である護良親王(もりよししんのう)は落ち延びて、楠木正成が挙兵した赤坂城に逃げ込みました。

赤坂城は幕府側の大軍に攻められますが、楠木正成の活躍により善戦します。太平記によれば、城外に伏せた伏兵との連携で幕府軍を挟み撃ちにしたり、塀を乗り越えようとしたりする幕府軍に「釣塀の罠」(塀が二重になっており、外側の塀は縄で支えられている。そして敵が塀を乗り越えようと、外側の塀に手を掛けたときに縄を切り落として、敵諸とも落下させる。)で大打撃を与え、それでも城に侵入しようとする幕府軍に熱湯を浴びせるなどして、何度も幕府軍を撃退しました。

そして、楠木正成と護良親王らは20日間ほど赤坂城に籠城し、兵糧が少なくなると、赤坂城を放棄して落ち延びました。

菊水紋が示す楠木正成の忠義

菊水紋

菊水紋

楠木正成が用いた菊水紋という家紋にも、後醍醐天皇への忠義が反映されています。

後醍醐天皇は元弘の乱に敗れて幕府軍に捕らえられたあと、隠岐に流罪となっていましたが、楠木正成は赤坂城を放棄・撤退したあと、改めて赤坂城を奪還し一大勢力を築きました。

そして、楠木正成は1333年(元弘3年/正慶2年)の「千早城の戦い」(ちはやじょうのたたかい)でも奮戦し大活躍します。

この奮戦に触発され、各地で反幕府勢力が挙兵、六波羅探題(ろくはらたんだい:幕府が六波羅に設置した京都[天皇]を監視する機関)が足利高氏(あしかがたかうじ:のちの足利尊氏)によって攻め落とされました。これにより千早城の幕府軍は撤退。楠木正成は千早城の戦いに勝利します。

最終的に鎌倉幕府は新田義貞(にったよしさだ)によって滅ぼされましたが、楠木正成の奮戦が討幕に大きく貢献したことは間違いありません。

そして後醍醐天皇は再び皇位に返り咲き、悲願の「建武の新政」を開始しました。

この功績により後醍醐天皇は楠木正成に菊花紋(きくかもん)を下賜しました。しかし、楠木正成は天皇と同じ紋は畏れ多いと、菊花紋の下半分に流れる水をあしらった菊水紋(きくすいもん)を用いるようになったと言います。

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死ぬ間際まで主君を裏切らなかった楠木正成

建武の新政が始まり、ようやく世の中も安定するかと思われたのも束の間。天皇や貴族を優遇する後醍醐天皇の政治に不満を持った足利尊氏が反旗を翻しました。

知略に優れた楠木正成は足利尊氏を高く評価し、後醍醐天皇に足利尊氏と手を組むように進言したが受け入れられず、戦に突入してしまったのです。

楠木正成は正面からまともにぶつかれば負け戦になると察し、後醍醐天皇に、一旦を出て比叡山に隠れ、足利尊氏軍が入京したところで包囲し、兵糧攻めするよう提言しました。しかしメンツを気にした後醍醐天皇は、またしてもこれを却下してしまったのです。

それでも楠木正成は後醍醐天皇に従って負け戦覚悟で「湊川の戦い」を戦いました。そして「七生滅賊」(しちしょうめつぞく)、何度生まれ変わっても、天皇のために国賊を倒すことを誓って自害したと言われています。

楠木正成亡きあと、勝利した足利尊氏は後醍醐天皇から三種の神器を取り上げ、光明天皇を擁立して室町幕府を開府。一方、後醍醐天皇は渡した三種の神器はニセモノであると主張して吉野に朝廷を開き、混乱の南北朝時代へと突入していったのです。

しかし、南朝の初代天皇となって間もなく病に倒れ、自身の皇子の義良親王(のりよししんのう、のちの後村上天皇)に譲位し、その翌日に崩御しました。

後世に語り継がれる楠木正成の忠義

後醍醐天皇の度重なる判断ミスにもかかわらず、最期まで主君を裏切らなかった楠木正成。その美談は、時代を経ても語り継がれ、時流に応じて様々な解釈がされてきました。

大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わり?

大石内蔵助

大石内蔵助

江戸時代になって「赤穂事件」(あこうじけん)が起きると、人々は主君のために討ち入りした大石内蔵助(おおいしくらのすけ)に、楠木正成の姿を重ね、「大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりでは?」と囁きました。

実は吉良上野介は足利一族の末裔であり、大石内蔵助が足利の血を断絶させたことも、この生まれ変わり説に説得力を与えたようです。

歌舞伎や浄瑠璃でお馴染みの「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件をモチーフにしていますが、江戸城内で起きた事件をそのまま取り上げることはできなかったため、時代設定を南北朝時代に移し、登場人物は以下のように置き換えられました。

大石内蔵助⇒楠木正成をモデルにした大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)
吉良上野介⇒足利尊氏の右腕として活躍した高師直(こうのもろなお)

戦意高揚に利用された楠木正成の忠義心

昭和になって太平洋戦争が始まると、楠木正成の忠義は戦意高揚にも利用され、楠木正成が最期に誓った言葉「七生滅賊」は、何度生まれ変わっても国のために戦うという意味の「七生報国」(しちしょうほうこく)と言い換えられました。

敗戦色が強まるなか沖縄周辺で繰り広げられた特攻作戦は、楠木正成の家紋にちなんで「菊水作戦」と名付けられ、多くの特攻隊員が七生報国をスローガンに死んでいきました。

<菊水作戦とは>
1945年(昭和20年)、米軍を始めとした連合国軍の沖縄攻撃に対して、日本帝国海軍航空部隊が行なった特別攻撃作戦。4月6日の菊水一号作戦に始まり、6月22日の菊水十号作戦に至るまで、特攻で2,000人が戦死しました。また、これに呼応して陸軍航空部隊も特攻を実施し、約1,000人が戦死したのです。

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銘に菊水紋が彫られた軍刀「菊水刀」の他、日本刀を種別にてご覧頂けます。

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