軍師や歴史上の実力者

本多正信-歴史上の実力者
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本多正信-歴史上の実力者 本多正信-歴史上の実力者
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徳川家康の三大好物と言われる「佐渡殿、鷹殿、お六殿」の佐渡殿とは、江戸幕府の老中で佐渡守の本多正信(ほんだまさのぶ)のこと。愛してやまない鷹狩や側室のお六の方(おろくのかた)に匹敵するほど、徳川家康にとって大切な存在「本多正信」とは?

大河ドラマ歴史年表(歴代別/時代別)
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
刀剣ワールド どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

どうする家康【本多正信】振り返り一覧
第5回
瀬名奪還作戦
本多正信、初登場。徳川家臣団からはイカサマ師と扱われる本多正信であったが、徳川家康は駿府に残る瀬名を助けるため、悪知恵が働く本多正信に託す。本多正信は、服部半蔵を頼ったのだが、奪還作戦はあえなく失敗。
第6回
続・瀬名奪還作戦
本多正信は、新たな作戦で今川家家臣の子を人質に取り、今川氏真と交渉。瀬名と子を助け出せたが、瀬名の両親の犠牲の上に成立した交渉だった。
第7回
わしの家
三河の地を統治しきれない徳川家康。軍資金不足を本多正信に相談すると、本多正信は織田信長から借金することを提案するが、とうてい徳川家康には受け入れられるものではなかった。
第8回
三河一揆で
どうする!
徳川家康は、一向宗を抑えられず苦戦していた。一向宗には軍師が付いていることが噂されていたが、徳川家康はその軍師が家臣・本多正信であることを聞かされる。
第9回
守るべきもの
徳川家康が一揆を鎮圧。一向宗の軍師をしていた本多正信は死罪を覚悟していたが、徳川家康は追放に留めた。「寺をもとに戻す」という課題が残されたままの徳川家康に対し、本多正信は悪知恵で解決に導いて、三河を去った。
第29回
伊賀を越えろ!
伊賀越えで徳川家康は囚われの身に。そこで追放したはずの本多正信が再登場。なんと伊賀者の軍師をしていた。本多正信の機転で徳川家康は助けられ、それを機に本多正信は追放の処分を解かれます。
第30回
新たなる覇者
賤ヶ岳の戦いで争う羽柴秀吉と柴田勝家。徳川家臣団が柴田勝家に加勢すべきか軍議で頭を悩ませているところ、本多正信は静観することをアドバイス。徳川家康もそれに従った。この頃から、本多正信は徳川家康の天下取りには欠かせない人物となっていく。
第32回
小牧長久手の
激闘
小牧山城と楽田城でにらみ合う徳川家康と羽柴秀吉。軍議で、羽柴勢はガラ空きとなっている岡崎城を攻めると本多正信が助言。この助言がきっかけで徳川家康は豊臣秀吉の裏をかくことができ、小牧・長久手の戦いを優位に進めた。
第33回
裏切り者
織田信雄が和議を結んだことによって、戦う大義を失ってしまった小牧・長久手の戦い。本多正信は、形だけの和議を結んで相手の出方を見ることを提言。
第34回
豊臣の花嫁
石川数正が出奔し豊臣家に付いたことで、動揺が走る徳川家臣団。上洛を求める豊臣秀吉は、人質として妹の旭を徳川家康の正室に差し出す。拒む徳川家康に対し、「形だけのもの。もらうだけもらっておけば良い。利用価値はある」と本多正信。
第35回
欲望の怪物
徳川家康の上洛に付き添う家臣団の中に本多正信の姿も。豊臣秀吉からは、「知恵者」との評価を受ける。
第36回
於愛日記
鳥居元忠が、武田家家臣だった千代をかくまっていたことが発覚。怒る本多忠勝に対し、本多正信は冷静に鳥居元忠から事情を聴き出す。
第37回
さらば
三河家臣団
豊臣秀吉が示した「北条攻めの褒美」を聞いて、本多正信は「秀吉が国替えを狙っている」ことを示唆。徳川家臣団が混乱に陥らないよう、本多正信は裏で動き、徳川家臣団の心をひとつにしていた。
第40回
天下人家康
豊臣秀吉が世を去ったあと、徳川家康と石田三成の関係が悪化。石田三成が派遣した糾問使に対して脅しをかけるなど、本多正信は徳川家康と共に揺さぶりをかける。
第41回
逆襲の三成
ドラマ冒頭では、徳川家康の暗殺を企てた3名の武将を糾弾するだけでなく、影の首謀者も聞き出す本多正信。また、上杉討伐に向かう徳川家康が逆臣に仕立て上げられたシーンでは「とんでもない大戦になりそうですな」と、本多正信は関ヶ原の戦いを予感させる発言をした。
第42回
天下分け目
挙兵した石田三成に西国の武将達が付いたことで、緊張が走る徳川家臣団。そのなかでも、冷静に戦況を分析する本多正信。褒美をちらつかせて、武将を調略する役目を買って出る本多正信は、かつて「イカサマ師」と呼ばれた片鱗を見せていた。
第44回
徳川幕府誕生
徳川家康へ武家の頂点として「征夷大将軍」になることを進言した本多正信。徳川家康を将軍職に就任させるため、朝廷との交渉役を担い、江戸幕府が開かれたあとは徳川家康の側近として幕政を主導する。2代目将軍・徳川秀忠を「偉大なる凡庸」と称し、人並みの者が率いていける組織こそ長続きすると説いた。また、息子の本多正純は「イカサマ師」と呼ばれた父・本多正信とは真逆の、誠実な人物として登場する。
第45回
二人のプリンス
豊臣秀頼が成長し、豊臣家の力が盛り返しつつあるなか、本多正信は「徳川は武家の棟梁、豊臣は城も武器も持たない公家とすれば良い」と屁理屈を述べ、二条城で豊臣秀頼を罠にかけようとする。しかし、逆に豊臣秀頼の罠にかかり、豊臣家の株が上がったことに頭を抱える。そんななか、方広寺の鐘銘に「君臣豊楽」「国家安康」の文字を見つけ、識者である金地院崇伝と林羅山を招集した本多正信は、「少しずつ力を削ぐことは無理」「戦いは避けられませぬ」と徳川家康に進言をする。
第46回
大坂の陣
とうとう大坂の陣が開戦する。本多正信は、徳川秀忠が全軍を率い、留守居役をすれば良いと徳川家康に伝えるものの、徳川家康は頷かない。「徳川が汚名を着る戦となる。信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ逝く。それが、最後の役目じゃ」と言う徳川家康に、本多正信も「一緒に行きます」と答える。最後まで共にする覚悟を持った盟友として笑い合い、大坂の陣へ出陣した。
第47回
乱世の亡霊
豊臣家は大坂冬の陣の和睦条件、大坂城の堀の埋め立てを徳川家には任せないと主張。本多正信は、「どちらが埋めるかなど、どうでも良い。城さえ無力化すれば豊臣家は戦えないのだから」と気にしていない。結局、堀は徳川方が埋め立ててしまうが、その後も豊臣家には牢人が集まり続ける。徳川家康は牢人らを「戦わずにはいられない、恐るべき生き物。自分もそのひとりだ」と語り、本多正信は否定も肯定もせず聞き入るだけだった。
第48回
神の君へ
本多正信は、老体でありながらも主君・徳川家康と共に大坂夏の陣に参陣。真田信繁(幸村)が徳川家康の本陣を襲うと、本多正信も鉄砲で応戦した。徳川家康と共に大坂夏の陣で死ぬ覚悟を持っていたが、一命を取り留めると、「また生き残ってしまいましたな」と徳川家康に肩を貸しながら陣をあとにする。泰平の世となったあと、病床に伏せる徳川家康を見舞った本多正信は、「わしのような者を信用して下さり、深く感謝申し上げます」と礼を述べて手を握ると、「長きにわたり、誠にご苦労様でございました」と徳川家康の人生をねぎらった。

徳川家康の盟友、本多正信

寛政年間に江戸幕府が諸大名や旗本の系譜をまとめた「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、「両御所に奉仕して、乱には軍謀にあずかり、治には国政を司り、君臣の間、相遭こと水魚のごとし」(徳川家康徳川秀忠の仲を取り持ち、有事には軍略家として、平時には統治者として活躍し、君臣の間を魚のように行き来し、人間関係を風通しの良いものにしている)と評された本多正信(ほんだまさのぶ)。

両御所とは、徳川家康と、徳川家康の三男である徳川秀忠(とくがわひでただ)のこと。文治派の家臣として文武両面から2代将軍を支え、その関係は水と魚のように切り離せない関係だったと言います。

  • 徳川家康

    徳川家康

  • 本多正信

    本多正信

一方、酒井忠次(さかいただつぐ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、井伊直政(いいなおまさ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)ら、徳川四天王をはじめとする武断派の家臣からは、嫉妬の対象になることも多かったようです。同じ姓の本多忠勝は「佐渡の腰抜け」と呼び、同族と思われることを嫌がったとか。

命がけで徳川家を守ってきた者達にとっては、本多正信が謀略やそろばん勘定で、主君の信任を得ているように見えて面白くなかったのでしょう。

徳川家康の元家臣で、本多正信の親戚筋にあたる文人の石川丈山(いしかわじょうざん)によると、本多正信は徳川家康と意見が合わないときは、決まって居眠りをしたのだとか。逆に賛成のときは大いに賞賛し、正面から意見を戦わせることはなかったそうです。

江戸時代中期の朱子学者である新井白石(あらいはくせき)は、諸大名の系譜書「藩翰譜」(はんかんふ)の中で、2人の関係を「朋友の如く」と表現しています。主従を超えた友情のようなもので結ばれていた2人には、意思疎通に多くの言葉は必要なかったようです。

一度は袂を分かった徳川家康と本多正信

鷹匠

鷹匠

本多正信は1538年(天文7年)生まれ。1542年(天文11年)生まれの松平元康、のちの徳川家康とは4歳違いです。祖父の代から松平家に仕えていたようで、はじめは鷹匠として徳川家康に仕えました。

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」では、徳川家康のもとで戦い、負傷したため生涯足が不自由だったと言います。

「盟友関係」と言われた徳川家康と本多正信ですが、一度、袂を分かったこともありました。1563年(永禄6年)に「三河一向一揆」が勃発したのです。

徳川家康が三河の一向宗に対する締め付けを強化したことに端を発する三河一向一揆は、「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)と「神君伊賀越え」に並ぶ、徳川家康の三大危機のひとつ。徳川家康への忠誠心が強く結束が固いと言われていた「三河家臣団」の多くが一揆側に付いたのです。敬虔な一向宗信者だった本多正信もそのひとりでした。

そののち、徳川家康が三河一向一揆をなんとか鎮圧すると、本多正信は三河を追放され、妻子を残して諸国を流浪しました。大和国の松永久秀(まつながひさひで)に仕えていたとも言われていますが定かではありません。

流浪の期間は7年とも10年とも伝わります。1570年(元亀元年)、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政(あざいながまさ)・朝倉景健(あさくらかげたけ)連合軍との「姉川の戦い」に参戦しているため、その頃には徳川家康の家臣に戻っていたようです。

徳川家康が帰参を許した理由も定かではありませんが、鷹狩を愛した徳川家康のこと、本多正信とは鷹匠であった時代から友情を育んでいたのかもしれません。

徳川十六神将のひとり、大久保忠世(おおくぼただよ)の仲介で帰参した本多正信は、裏切りへのうしろめたさや許されたことへの感謝もあったのか、以前にもまして徳川家康のために尽くすようになったと言います。

徳川政権樹立の陰の立役者、本多正信

一度は徳川家康を裏切った本多正信が再び徳川家康からの信頼を取り戻し、本領を発揮し始めるのは、本能寺の変で織田信長が横死し、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を経て、徳川家康が旧武田領を手に入れた頃からと言われています。

本多正信は武田家の遺臣に呼びかけ、「領地を与えるから徳川家に仕えるように」と誘いました。これにより、甲斐・信濃(現在の山梨県長野県)の武田家旧領は非常に統治しやすくなったようです。

1586年(天正14年)、本多正信は朝廷より、従五位下・佐渡守に任じられます。これが「佐渡殿」という本多正信の通称になりました。

豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた1591年(天正19年)、武力よりも知力が重宝される時代が到来しました。

豊臣秀吉に関東への移封(いふう:領地換え)を命じられた徳川家康は、本多正信を関東総奉行に据え、江戸の街づくりと管理・運営を任せました。このとき本多正信は相模国玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)に1万石を与えられ、大名となっています。

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没し、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こります。関ヶ原の戦いでは、本多正信は徳川秀忠に従い、真田昌幸(さなだまさゆき)・真田信繁(さなだのぶしげ)親子が守る上田城の戦いに参加しました。

本多正信は、徳川秀忠に「上田城を落とすより徳川家康本隊との合流を優先すべきである」と進言したとされていますが、徳川秀忠軍は上田城で足止めに遭い、関ヶ原の決戦場に、大遅参してしまいます。この件があったからか、本多正信は徳川家康の後継者を選ぶ際、結城秀康(ゆうきひでやす:徳川家康の次男)を支持したと言います。

関ヶ原の戦いののち、本多正信は徳川政権樹立のために暗躍したと言われています。徳川家康の征夷大将軍就任に際しては折衝役を務めました。

1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれると本多正信は直接幕政にかかわるようになります。そして徳川家康が隠居し、大御所になったあとも、2代将軍・徳川秀忠の政治を支えていきます。1607年(慶長12年)には徳川秀忠付きの年寄り(老中)になりました。

1613年(慶長18年)、高齢のため、暇(いとま)を出されましたが、1614 年(慶長19年)の「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)にも、本多正信が絡んでいるという説もあります。

方広寺の釣鐘

方広寺の釣鐘

豊臣秀吉の子、豊臣秀頼方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」(こっかあんこう)と「君臣豊楽」(くんしんほうらく)という文字が、徳川家を呪詛し豊臣家の繁栄を祈願している(「家」と「康」の文字は離れているが「豊」と「臣」の文字は隣接している。これは徳川家の弱体を望み豊臣家の繁栄を願っている。※諸説あり)と言いがかりを付けたこの事件は、「大坂冬の陣」に繋がり、豊臣家を滅亡せしめました。

本多正信の最期は1616年(元和2年)のこと。4月17日に徳川家康が死去すると、本多正信は家督を嫡男の本多正純(ほんだまさずみ)に譲り、隠居します。一切の政務から離れ、徳川家康のあとを追うように、2ヵ月後の6月7日に亡くなりました。享年79歳でした。

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