戦国時代を生きた姫のうち「淀殿」(よどどの)本名「茶々」(ちゃちゃ)ほど波乱万丈な人生を歩んだ姫はいないかもしれません。2度の落城による実父・養父との死別に始まり、その原因を作った天下人「豊臣秀吉」の側室として、豊臣政権の後継者となった「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を出産。最後は「大坂夏の陣」で「徳川家康」に敗れ、燃え盛る「大坂城」(現在の大阪城)のなかで自害してこの世を去りました。ここでは、戦国時代の最後に激しく生きた淀殿の生涯を掘り下げます。
「淀殿」(よどどの)本名「茶々」(ちゃちゃ)は、1569年(永禄12年)頃、近江国小谷(おうみのくにおだに:現在の滋賀県長浜市)で誕生したと考えられています。
本名は「浅井茶々」(あざいちゃちゃ)。「浅井菊子」(あざいきくこ)の名もあります。これはのちに朝廷から従五位下(じゅごいげ)を賜った際に授かった名前。
生前に、淀殿と呼ばれていたことを示す明確な史料はなく、生前は「淀の方」などと呼ばれていたと言われていますが、いずれも江戸時代以降の呼び名です。
淀殿の父は、近江国の戦国大名「浅井長政」(あざいながまさ)、母は「織田信長」の妹「市」(いち:お市の方)です。
両親の仲は良く、市を生母とする子どもは長女・淀殿の他、次女の「初」(はつ)のちの「常高院」(じょうこういん)、三女の「江」(ごう)のちの「崇源院」(すうげんいん)がいます。
しかし、浅井長政は織田信長と敵対しており、1573年(天正元年)に織田軍によって本拠の「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県長浜市)を落とされてしまいます。
浅井長政と淀殿の祖父「浅井久政」(あざいひさまさ)は自害、異母兄「万福丸」(まんぷくまる)は、織田信長の命令で「羽柴秀吉」(はしばひでよし)のちの「豊臣秀吉」に処刑され、浅井家は滅亡したのです。
このとき、市と淀殿ら娘3人は救出され、以降、伯父・織田信長の目の届くところで保護されますが、1582年(天正10年)に織田信長が「本能寺の変」で死去。三姉妹は、市が再婚した織田信長の家臣「柴田勝家」の越前国(えちぜんのくに:現在の福井県)にある「北ノ庄城」(きたのしょうじょう)へと付いて行きました。
すると今度は、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。羽柴秀吉に敗れた柴田勝家が、市と共に自害してしまったのです。これは淀殿と妹達にとって、2度目の落城でした。
三姉妹は豊臣秀吉によって保護され、江は「佐治一成」(さじかずなり)に、初は「京極高次」(きょうごくたかつぐ)に嫁ぎます。
そして1588年(天正16年)頃、淀殿は豊臣秀吉の側室として「大坂城」(現在の大阪城)へ入ったのです。
当時27歳前後だったとされる淀殿が父、兄、養父、そして母の仇で、しかも50歳を超えた豊臣秀吉の側室となった経緯はよく分かっていません。
1589年(天正17年)、2人の間に「捨」(すて)のちの「豊臣鶴松」(とよとみつるまつ)が誕生します。すでに53歳で、子宝に恵まれなかった豊臣秀吉はたいそう喜び、淀殿に山城国(やましろのくに:現在の京都府)の「淀城」(よどじょう)を与えました。それ以降、天下人の後継者の生母として、発言力を強めていきます。
1591年(天正19年)に鶴松は病死しましたが、2年後に「拾」(ひろい)のちの「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生。豊臣秀吉は溺愛し、幼子の未来を心配しながら1598年(慶長3年)に62歳で他界しました。
豊臣秀吉の死を契機に出家して「高台院」(こうだいいん)となった正室「ねね」とは対照的に、淀殿は出家せず、豊臣秀頼の後見人として政治に介入。豊臣氏の家政の実権を握りました。
その頃、豊臣政権内では「石田三成」派と「徳川家康」派が対立、実質的な大坂城主「前田利家」の死によって、敵対関係が鮮明になっていきました。
1600年(慶長5年)、上杉征伐のため会津遠征中の徳川家康を相手に、石田三成が挙兵。淀殿は事態の沈静化のために徳川家康に書状を送りますが、逆に石田三成が謀反を起こしたことを認め、「豊臣秀頼様の御為」という「関ヶ原の戦い」開戦のための大義名分として徳川家康に利用されてしまいました。
このとき石田三成は、戦いを正当化する豊臣秀頼の墨付きの発給と出陣を願いますが、淀殿はそれを認めません。彼女は、西軍・石田三成方、東軍・徳川家康方のどちらにも積極的には加担せず、両軍から微妙に距離を置いて様子を見るだけでした。
そのため「加藤清正」や「福島正則」(ふくしままさのり)ら豊臣秀吉恩顧の家臣は、西軍ではなく東軍に加担。その結果、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わったのです。
関ヶ原の戦いのあと、淀殿は自分と豊臣秀頼が西軍に関与していないことを徳川家康に認めさせ、責任追及を免れます。感謝した彼女は、徳川家康を大坂城で饗応。徳川家康は、豊臣秀頼の父親代わりであるとまで公言したのです。そのあと、豊臣政権を運営していた五大老・五奉行がいなくなった大坂城では、淀殿が主導権を握りました。
一方、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となった徳川家康は、江戸幕府を開府。2年後には「徳川秀忠」(とくがわひでただ)を2代将軍として世襲させました。
これにより、豊臣秀頼に将軍になるチャンスがないと悟った淀殿は激怒します。畳みかけるように、徳川家康は豊臣秀頼に対して臣従を求め、豊臣秀頼の江戸下向、淀殿の人質としての江戸在住か国替えかを要求しました。徳川家康の主(あるじ)としての自負を持つ淀殿にとって、この要求は屈辱的。これにより、両者の対立は明確になったのです。
そして、1614年(慶長19年)に「大坂の陣」が勃発。
もはや豊臣側には旧来恩顧の大名達による加勢もなく、豊臣秀吉が遺した金銭で浪人を集めて戦いました。豊臣側に加わった「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)などの活躍も空しく、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で大坂城は落城。淀殿にとって3度目の落城でした。彼女は落城した大坂城内で、豊臣秀頼や臣従する者達と共に自害したのです。
これは、淀殿最大の疑問です。豊臣秀吉に熱望されたとは言え、父、母、養父、兄を殺された仇。長女の彼女は母・市が自害するときに、姉妹を守って生き延びることを託されたことでしょう。とすれば、父母のように攻め滅ぼされずに済む安全な環境で生き延びることだけを考えたとしても不思議ではありません。
天下人・豊臣秀吉の側室になり、世継ぎを儲け自分の子を天下人にすることで、死んでいった身内の無念を晴らそうとしたとするのは考えすぎでしょうか。
淀殿と豊臣秀吉との間に生まれた2人の息子の名は、捨と拾。実は、捨て子を拾うと成長するという迷信から、最初の子供に捨と命名し、その捨(鶴松)が早世したため、拾にしたと言われています。子の健康と成長を願うあまりの命名でした。
豊臣秀吉は、淀殿の母で戦国一の美女の誉れ高い市に憧れていたため、三姉妹のなかで母親の面影を一番よく受け継いでいた長女・淀殿を側室に迎えたという話が有名です。それゆえに、淀殿も美人だったと言われています。
他方、淀殿の肖像画に描かれている容姿は、母親似ではなく父親似。
そのため、淀殿は父親の浅井長政譲りの大柄な体格で、美女ではなかったのではないかという説もあります。
大坂夏の陣で80kgもの大鎧を身に付け、馬に乗って城内を激励して歩いたという話は、確かにか弱い美人にはそぐわない逸話です。
時代劇などで描かれている「自信過剰のわがまま」像は、徳川方による後世の印象操作の影響もあるでしょう。
淀殿は、京都で放浪していた従兄の「織田信雄」(おだのぶかつ)を大坂城に招いて住まわせ、妹の江が徳川秀忠に再嫁する際に、前夫「羽柴秀勝」(はしばひでかつ)との間にできた「完子」(さだこ)を引き取って養育などもしています。父母ら血縁の菩提を弔うための「養源院」(ようげんいん:京都府京都市)の建立、高野山での追善供養なども行ないました。
親兄弟を殺した豊臣秀吉の寵愛を受け入れたのは、本質的に情にほだされやすいお人好しの性格であり、それが災いして徳川家康を信用し、簡単に策略にはまったとも考えられます。
例えば、高台院は1608年(慶長13年)天然痘にかかった豊臣秀頼のことを気遣い、医師の「曲直瀬道三」(まなせどうさん)に手紙を送っています。
また、豊臣秀吉の死後に出家した高台院が菩提を弔い、淀殿が豊臣秀頼の後見として大坂城に入城したのは、2人の決裂ではなく菩提を弔うことと、幼少の豊臣秀頼の後見とを2人で役割分担した可能性があるのです。
後世にドラマで演じられるほど、2人の間は険悪ではなかったのかもしれません。
ただ、「醍醐の花見」(だいごのはなみ)というイベントで、淀殿と従姉妹の「京極竜子」(きょうごくたつこ)が豊臣秀吉からの杯の順番で争ったとされる逸話も残されています。
淀殿と他の側室達の間においては、また別種の争いがあったことも想像に難くありません。
豊臣秀吉は、多くの側室を抱えていたにもかかわらず、他に子どもがなかったことから、淀殿と豊臣秀吉の間に生まれた子どもの父親は、他にいるのではないかという噂が当時からあったと言われています。子どもの本当の父親は、淀殿の乳兄妹である「大野治長」(おおのはるなが)であるとする説が有力ですが、真相を知るのは淀殿だけです。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が晩年に「醍醐寺三宝院」(だいごじさんぼういん:現在の京都府京都市)の裏で行なった花見の宴・醍醐の花見がありました。豊臣秀吉、豊臣秀頼、高台院や淀殿など、天下人の近親者から諸大名、配下の女房女中衆など総勢1,300人をしたがえた盛大な催しで、淀殿が詠んだ和歌が遺されています。
「はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならひなき 春にあふらし」
<現代語訳>
桜もあなたのためにと咲き始めて、この世に2つとないすばらしい春に会うことができるでしょう
「あひをひの 松も桜も八千世へん 君かみゆきのけふをはしめに」
<現代語訳>
仲良く共に生える松も桜も八千代という長い時間を経ることでしょう。あなたがいらっしゃる今日を始めとして
どちらも豊臣秀吉、豊臣秀頼、そして豊臣家の永遠の繁栄を願って美しい花と長命の松になぞらえた前向きな気持ちが伝わる和歌です。醍醐寺三宝院所蔵の短冊に、これらの和歌を観ることができます。
京都府京都市東山区の「蓮華王院」(れんげおういん)の東向かいに位置する養源院は、1594年(文禄3年)に、父である浅井長政の追善供養のために、淀殿が夫の豊臣秀吉に願って創建した寺院です。
養源院の名前は、浅井長政の法名から付けられました。
落雷によって一度、寺院は焼失していますが、淀殿の妹で徳川秀忠の正室・江が再興。
伏見城落城の際に自刃した武将達の血で染められたいとわれる「血天井」(ちてんじょう)があることで有名です。
淀殿の自害の場所は「山里丸」(やまざとまる)と呼ばれた、この地にあった櫓(やぐら)だとする説が有力です。
「豊臣秀頼・淀殿自刃の地碑」(とよとみひでより・よどどのじじんのちひ)は、大阪城内堀に架かる極楽橋を越えた「刻印石広場」(こくいんせきひろば)の東側にあります。