武将にとっての「念持仏」(ねんじぶつ)とは、勝運はもちろんのこと、厄避け・子孫繁栄・武芸向上などのため霊験あらたかな仏像を祀ることです。非常に私的な持ち物であり、寝所や仏間に安置することもあれば、合戦の折には陣中に持ち運ぶこともありました。このように念持仏は、武将達が個人で所有し加護を求めた仏像です。武将達は、どのようにして仏像を得て、念持仏としたのかを見ていきたいと思います。
念持仏(ねんじぶつ)は、ある人が個人のために祀ることや祈りを捧げる仏像のことです。その起源は仏教の生まれたインドに遡ります。
その昔、仏教の祖である「釈迦」(しゃか:別名[仏陀])が亡くなってから約500年、仏教徒の間で偶像崇拝は禁止されており仏像が作られることはありませんでした。しかし、時代が進んでいく間に釈迦への思慕が募り、仏像が作られることになります。史上初の仏像とされるのが、紀元前1世紀頃の西北インドにあるガンダーラ地方の物で、出家後の釈迦を模していました。
さらに仏像はシルクロードを通じて中国に伝わり、中国でも皇帝や后達が仏像を作らせ、自らの念持仏にしたと言います。日本に仏像が伝来し、最初に作られた念持仏と伝わるのは「法隆寺」(ほうりゅうじ:奈良県生駒郡)の夢殿(ゆめどの)にある「救世観音」(くせかんのん/くぜかんのん)です。
以降も日本では、貴族や武家などの間で仏教は流行し、念持仏は個人の信仰に合わせて制作されるようになります。そして戦国時代の武将達が必要とした念持仏は、信仰や宗教観とは別の思想で祈るようになっていました。それは自らが得たい功徳や、生きがい、戦い方まで様々。
個性あふれる武将達が、どんな願いや祈りを抱いて念持仏を重要視していたのかをご紹介していきます。
ねねは、豊臣秀吉が亡くなった1598年(慶長3年)に、「大坂城」(現在の大阪城:大阪市中央区)を出て京都三本木にある屋敷へと移り住みました。この屋敷に移るに当たりねねは、大坂城から愛用の家具や食器などと一緒に豊臣秀吉との思い出の品も持ち出します。その中に三面大黒天があったのです。
豊臣秀吉が亡くなってから喪に服していたねねでしたが、1605年(慶長10年)に、夫・豊臣秀吉の菩提を弔うための寺院「高台寺」(こうだいじ:京都市東山区)を建てることにしました。
その際、大坂城より以前に住んでいた「伏見城」(現在の京都市伏見区)から「化粧殿」(けわいでん)と「方丈」(ほうじょう:前庭)を圓徳院に移築して、「開山堂」(かいさんどう/かいざんどう)・「霊屋」(おたまや)・「観月台」(かんげつだい)を新たに高台寺へ移築しています。
1606年(慶長11年)に、95,470坪になる壮麗な広さを持つ高台寺が完成。
高台寺はねねが豊臣秀吉を弔う場で、圓徳院はねねの住居として移り住みました。
この圓徳院は、ねねが没してから9年後の1632年(寛永9年)に、ねねの実家である木下家の菩提寺として開かれ高台寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)となります。
現在は、京都市内の道路である「ねねの道」を間に挟み、山側に高台寺が、そして麓側に圓徳院があり、どちらも観光客で賑わっています。
豊臣秀吉が念持仏とした三面大黒天は、「大黒天」・「毘沙門天」・「弁財天」の3神を合体させた仏像です。
三面とは3つの顔を持つという意味になり、正面が大黒天で人々の衣食住を守り、財産をもたらしてくれる神様です。
向かって右側が毘沙門天で、こちらは戦いの神様。そして向かって左側の弁財天は、美と才能と学問を司る神様です。
こうしたことから三面大黒天は、一回手を合わせるだけで3つのご利益が得られると考えられていました。
また、来世への救済を願う訳でもなく、戦勝祈願に特化するわけでない、現世利益を求める仏像だということも、合理的な物の考え方をした豊臣秀吉らしい仏像だとも言えます。
竹中半兵衛の信仰についてなどの史料は乏しく、推測の域を出ないことがほとんどです。そのなかで、和歌山県にある「西方寺」(さいほうじ:和歌山県田辺市)に竹中半兵衛の念持仏と伝わる「阿弥陀如来座像」が祀られています。
西方寺の寺伝によれば、1609年(慶長14年)の本堂建立の際に、和歌山藩(現在の和歌山県和歌山市:[紀州藩][紀伊藩]とも呼ばれる)の藩主「浅野幸長」(あさのよしなが)の家老「浅野左衛門佐」(あさのさえもんのすけ)のさらに家臣によって、この阿弥陀如来座像は寄進されたとあるのです。
経緯までは記されていないのですが、「関ヶ原の戦い」の際に浅野幸長は、東軍に属して「岐阜城」(岐阜県岐阜市金華山天守閣)攻略に参加していました。
美濃国(現在の岐阜県)の「南宮大社」(なんぐうたいしゃ:岐阜県不破郡)に陣を張る西軍に対峙する形で、浅野幸長は「垂井一里塚」(たるいいちりづか:岐阜県不破郡)に陣を構えます。
美濃国の南宮大社のある垂井(たるい)周辺は、竹中半兵衛が治めていた領地であったため、その縁で浅野幸長が阿弥陀如来座像を預かった可能性が高いとされています。
南宮大社には、斎藤家の家臣でもあった竹中半兵衛が奉納した「斎藤道三」(さいとうどうさん)所用と伝わる「三鍬形阿古陀形兜」(みつくわがたあこだなりかぶと)と「紅糸中白縅胴丸」(べにいとなかしろおどしどうまる)が所蔵されていることから、垂井は竹中半兵衛とのゆかりが深いことが分かります。
多くの神仏を信仰した武田信玄でしたが、「不動明王」への信仰は熱烈なもので、よく不動明王像を作らせていました。
前述した恵林寺の武田不動尊は、武田信玄が出家した30代前半の姿を等身大に彫らせた物だと伝わっています。
不動明王は憤怒の形相ですべての敵を破壊し降伏させる軍神です。
この「不動」は悟りを開いた釈迦が煩悩の魔の手を退けた「不動の手」に由来。その功徳は「揺るがない心」と衆生救済(しゅじょうきゅうさい:生きとし生けるものを救い助けること)に通じています。
武田不動尊の制作者は、京都の仏師「康清」(こうせい)という人物で、武田信玄が出家し「信玄」と号するようになった記念に自分の姿を彫刻させました。しかし武田信玄を写して彫刻していたところ、武田信玄ではなく不動明王のようになってしまったからだとも伝わっています。
自分の姿に似せて神仏を作ることは、自分自身を神仏に同化させることだと言われていますが、それどころか像を彫っている最中に、武田信玄は剃髪し、その髪を漆に混ぜ像に塗り込め彩色したのです。そうすることで、より不動明王の加護を得て戦に勝利し、最強の武将になることであったと考えられています。
「真田幸村[真田信繁]」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)は、戦国ファンの間では人気の高い武将のひとりです。
「大阪の夏の陣」では、敵の大将である「徳川家康」の陣まで迫り、徳川家康に一瞬でも死を覚悟させたと言われている猛将。
決死の覚悟で敵陣に突撃した真田幸村(真田信繁)が信仰した念持仏は「高松神明神社」(たかまつしんめいじんじゃ:京都市中京区)にある「神明地蔵尊」(しんめいじぞうそん)です。
真田幸村(真田信繁)の念持仏であった地蔵菩薩ですが、これは九度山の「真田庵」(正式名称は[善名称院]ぜんみょうしょういん:和歌山県伊都郡九度山町)に伝わる仏像でした。
真田幸村(真田信繁)と父「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、関ヶ原の戦いで西軍側に付いていましたが、西軍は敗戦。
しかし、真田幸村(真田信繁)の兄「真田信之」(さなだのぶゆき)が東軍に付いており、徳川家康に助命を願ったことから真田幸村(真田信繁)と真田昌幸は処刑されることなく、現在の和歌山県九度山町に配流となり蟄居(ちっきょ:自宅等で謹慎させる刑罰)生活を送っていました。
このときに住んでいた屋敷跡に、1741年(寛保元年)に真言宗で「高野山金剛峰寺」(こうやさんこんごうぶじ:和歌山県伊都郡)の僧「大安上人」(だいあんしょうにん)が、真田幸村(真田信繁)と真田昌幸の菩提を弔うため真田庵を創建。真田庵の本尊となっているのが、真田親子が大切にしていた2体の地蔵菩薩だったのです。
和歌山県の真田庵から京都府の高松神明神社に伝来したのは、江戸時代頃だったと伝わります。なぜ寺院から神社に伝わったのかと言うと、当時はまだ神仏混合の時代で、高松神明神社は真言宗の総本山である「東寺」(京都市南区:正式名称[教王護国寺]きょうおうごこくじ)の末寺に属していました。同じ真言宗であった縁により、真田庵から2体のうちの1体を拝領したと高松神明神社縁起に書かれています。
なぜ、真田家は地蔵菩薩を信仰していたのかと言うと、真田幸村(真田信繁)が旗印にしていたことでも有名な「六文銭」(ろくもんせん)が関係しています。
この六文銭は「三途の川の渡し賃」というのが定説で、「六道銭」(ろくどうせん/りくどうせん)とも呼ばれます。
真田家が六文銭を掲げるのは「常に死ぬことができる覚悟」を持つためだと伝わります。
そして、釈迦が入滅してから56億7,000万年後に「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)が現れるまで、現世では仏が不在となるため、その間、人々を救済する役割を担うのが地蔵菩薩なのです。つまり、地蔵菩薩信仰は、戦で人々の命を奪う武将達にこそ必要な「死後、どの六道に落ちても救済して貰う」ための功徳だったと言えます。真田幸村(真田信繁)の決死の行動を促す精神的支柱は、地蔵菩薩信仰だったのです。
江戸時代の間、豊臣家の名前を出すことは憚られたため、石田三成ゆかりの石田地蔵尊と千体仏が伝来していることについて公表されるようになったのは、明治時代になってからでした。
石田地蔵尊は、真っ黒に塗られた僧侶の姿をしていて、身の丈は78.2cm、木造の寄木造り。制作年代は室町時代だと「彦根城博物館」(滋賀県彦根市)の調査により確認されていますが、制作者については不明です。
もうひとつの千体仏は、およそ1mの厨子の中に金色の阿弥陀如来が隙間なく並べられています。ひとつひとつは3~4cmほどで、すべて阿弥陀如来の分身である化仏(けぶつ:人々を救済するため阿弥陀仏が仮の姿で現れること)であるとされているのです。千体仏はひとつとして同じ物はなく、どれも表情が違います。
石田三成が、いつ石田地蔵尊と千体仏を念持仏としたのかについて「彦根石田三成公顕彰会」が編纂した「石田三成と佐和山ものがたり」に書かれていました。1594年(文禄3年)に、亡くなった石田三成の母の菩提を弔うために、佐和山城近くに臨済宗の寺院「瑞岳寺」(ずいがくじ)を建立したとあるのです。石田地蔵尊と千体仏は、母の供養のために祀られた仏像だったと言われています。