戦国武将の生涯

毛利輝元の武将年表
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毛利輝元

毛利輝元

毛利輝元(もうりてるもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した戦国武将です。

毛利元就(もうりもとなり)の孫であり、幼くして父・毛利隆元(もうりたかもと)を失いましたが、毛利元就や小早川隆景(こばやかわたかかげ)、吉川元春(きっかわもとはる)といった武将達に厳しくしつけられて育ちました。

織田信長に翻弄されていた室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)に頼られ、図らずも織田信長と対立。

本能寺の変後には、豊臣秀吉と和睦し五大老のひとりとなるなど、戦国期の重鎮達に重用されています。

また、関ヶ原の戦いでは、石田三成の画策によって豊臣方の総大将を担わされ、敗戦後は徳川家康に詫び状を入れ隠居。毛利家という名門の宿命か、いやおうなく歴史の表舞台に立たされ続けた生涯でした。

毛利輝元の愛刀は短刀「銘 吉光」(号:毛利藤四郎[もうりとうしろう])です。吉光とは、粟田口派(あわたぐちは)の刀工・藤四郎吉光のこと。

毛利輝元から徳川家康に献上され、関ヶ原で武功を遂げた池田輝政(いけだてつまさ)に下賜。その後、明治天皇へ献上され、現在は、東京国立博物館(東京都台東区)に所蔵されています。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1553年(天文22年) 1
吉田郡山城(よしだこおりやまじょう:広島県安芸高田市)において、毛利元就の長男・毛利隆元の嫡男として誕生。幼名は幸鶴丸(こうつるまる)。
1563年(永禄6年) 11
父・毛利隆元が何者かに毒殺される。幼い毛利輝元の後見人として、隠居していた毛利元就が当主に復活。
1565年(永禄8年) 13
元服。室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)より諱(いみな)を賜り、「毛利輝元」と改名。
孫のために実権を握った69歳の毛利元就は、高齢のため吉川元春と小早川隆景を後見人とし、毛利氏における庶家筆頭の福原貞俊(ふくはらさだとし)、口羽通良(くちばみちよし)ら「御四人」が、毛利輝元の政務を補佐。
1570年(永禄13年/
元亀元年)
18
大内輝弘の乱(おおうちてるひろのらん)を鎮圧。尼子家の残党軍を討つため、吉川元春、小早川隆景らと出陣。布部山の戦い(ふべやまのたたかい)で勝利したのち、次々と尼子方を打ち破る。
1571年(元亀2年) 19
8月までに、尼子方を山陰から駆逐。しかし、尼子勝久(あまごかつひさ)や山中幸盛(やまなかゆきもり)など、尼子家の残党勢力の抵抗は続いた。
75歳の祖父・毛利元就、吉田郡山城にて病没。
1572年(元亀3年) 20
織田信長足利義昭に殿中御掟(でんちゅうおんおきて)の徹底を要求するため、異見17カ条を出す。その目的は、足利義昭の将軍としての権力を制限することにあった。
1573年(元亀4年/
天正元年)
21
毛利家を味方に引き入れたい足利義昭の推挙により、朝廷から右馬頭(うまのかみ)に任ぜられ、室町幕府の相伴衆(しょうばんしゅう)となる。
1576年(天正4年) 24
2月、足利義昭が毛利輝元を頼り、毛利家が領していた鞆城(ともじょう:広島県福山市)に動座(座所を他に移すこと)。このとき毛利輝元は、織田信長との同盟関係上、対応に苦慮し、織田家との関係が悪化。
5月、足利義昭の要請に応じて反織田信長派として起ち上がり、領国の諸将に足利義昭の命令を受けることを通達。毛利家、上杉家、石山本願寺による三者同盟を結成(第3次信長包囲網)。
1578年(天正6年) 26
上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)で尼子勝久に勝利。毛利元就時代を上回る領土を支配する。
足利義昭を擁し、鞆城の鞆幕府(ともばくふ)を庇護。足利義昭に次ぐ副将軍としてその名を馳せ、陸海の合戦で織田家に勝利。織田信長に対抗し得る最大勢力となる。
1582年(天正10年) 30
毛利水軍が九鬼嘉隆(くきよしたか)の鉄甲船を率いる織田水軍に惨敗。宇喜多直家(うきたなおいえ)が織田軍に寝返り、上杉謙信が病死したことにより、援軍が激減。豊臣秀吉黒田官兵衛から奇策を仕掛けられた上に、兵糧攻めにより、三木城兵庫県三木市)や鳥取城鳥取県鳥取市)、水攻めで備中高松城岡山県岡山市)が落城。
本能寺の変のあとに豊臣秀吉と和睦し、その臣下に下る。これは、叔父・小早川隆景と毛利家の軍僧・安国寺恵瓊(あんこくじえいけい)の策とも言われる。
1585年(天正13年) 33
豊臣秀吉からの国境画定に応じ、祖父以来の領地の多くをそのまま安堵され、その総石高は120万5,000石となる。徳川家康、織田信雄(おだのぶかつ)らと並ぶ大名となり、豊臣秀吉と正式に講和する(京芸和睦)。
1592年(天正20年/
文禄元年)
40
豊臣秀吉の朝鮮出兵に応じて渡海する。
1600年(慶長5年) 48
関ヶ原の戦いが勃発。石田三成が豊臣方、すなわち西軍の総大将を毛利輝元にするよう画策。関ヶ原敗北後、領土安堵という徳川家康からの約束を聞き、早々に大坂城大阪府大阪市中央区)から退却。
毛利輝元は徳川家康宛に、素直に詫び状を書いたが、大減封となって隠居。剃髪し、法名を幻庵宗瑞(げんあんそうずい)と号する。嫡男の毛利秀就(もうりひでなり)に家督を譲り、毛利秀就が長州藩(現在の山口県)初代藩主となる。
1619年(元和5年) 67
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)に面会。大坂の陣以来の毛利家に対する処遇を謝すため上洛。
1625年(寛永2年) 73
隠居所にしていた萩の四本松邸にて病没。
合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。
岐阜関ケ原古戦場記念館
「岐阜関ケ原古戦場記念館」の体験コーナーや展示内容など、施設の魅力をご紹介します。
宇喜多直家
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

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本多忠政の武将年表

本多忠政の武将年表
本多忠政 本多忠政は、江戸時代最強の武将「本多忠勝」の長男です。 本多忠政も勇猛で、名物「塩川来国光」や刀「桑名江」を愛刀とし、1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)にかけて行われた「大坂の陣」では、敵首292を獲るほど活躍。 桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石に移封して藩主を務めました。 子供は5人(三男、二女)。 長男はイケメンで有名な「本多忠刻」で、「千姫」と結婚した際に、父とは別途、姫路に10万石を受領。次男「本多政朝」(ほんだまさとも)も播磨龍野5万石を領し、娘婿「小笠原忠真」も明石10万石を領したため、本多忠政の時代には、本多宗家は実質40万石の大大名でした。 本多忠政は1631年(寛永8年)に56歳で病死。 長男・本多忠刻とその子「幸千代」も死去していたため、家督は次男・本多政朝が継いでいます。

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北条氏政の武将年表

北条氏政の武将年表
北条氏政 北条氏政は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を中心とした関東地方において、一大勢力を誇っていた戦国大名「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主。 鎌倉時代に執権として実権を握っていた「北条氏」と区別するため、小田原の北条氏は後北条氏と呼ばれています。 北条氏政は、父「北条氏康」(ほうじょううじやす)の存命中に、その家督を相続。 父の補佐を受けながら、歴代の後北条氏当主の中で最大となる版図を広げる活躍を見せます。 しかし、天下統一を叶えるために奮起していた「豊臣秀吉」により、後北条氏の本拠であった「小田原城」(神奈川県小田原市)が攻め落とされたため、同氏は滅亡することとなりました。

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明智光秀の武将年表

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明智光秀の生涯を歴史年表でご紹介します。明智光秀の出自については、史実が残っておらず、諸説がいくつもあります。明智光秀の死後、江戸時代中期に書かれた「明智軍記」によれば、美濃の守護であった土岐氏(源氏)の一族であると記されていました。 また、「明智氏一族城家相伝系図書」では、明智光秀の母「牧」の妹は、斉藤道三に嫁いだ「小見の方」で、その娘、濃姫(織田信長の正室)と明智光秀は、いとこ同士ということとなっています。ただし、これも通説の域で、確かなものではありません。 明智光秀が主人公である大河ドラマ「麒麟がくる」では、この説を取り上げており、この歴史年表でも明智光秀が土岐一族の分家だという説を採用しました。生誕も1528年(享禄元年)として明智光秀の歴史年表をまとめております。

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朝倉義景の武将年表

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朝倉義景 朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。 朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。 当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。 そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。 反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。 そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。

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土岐頼芸の武将年表

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土岐頼芸 「土岐頼芸」(ときよりのり)は、群雄割拠の戦国時代において、下剋上の世に翻弄された武将のひとりです。 美濃国(現在の岐阜県)守護「土岐政房」(ときまさふさ)の次男として生まれ、実兄の「土岐頼武」(ときよりたけ)と守護の座を争い、幾度も交戦。 兄に勝利し美濃国守護に就任するも束の間、家臣に裏切られやがて美濃国を追われます。裏切った家臣は、「美濃の蝮」と恐れられた「斎藤道三」(さいとうどうさん)です。 美濃国を追われた土岐頼芸は流浪の身となり、身を寄せていた甲斐国(現在の山梨県)で「織田信長」に捕らえられ、尾張国にて蟄居。 最後は旧臣「稲葉一鉄」(いなばいってつ)の計らいで、美濃国に戻り、81歳で生涯を終えました。土岐頼芸は、和歌や鷹の絵を得意とした文武両道の人物だったと伝えられています。

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那須与一の武将年表

那須与一の武将年表
那須与一 平安時代末期より活躍し鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であった那須与一(なすのよいち)は、武勇に優れ、なかでも弓術において卓越した才能を持っていたことから、「弓の名手」として知られている武将です。 源氏と平氏が覇権争いを繰り広げた「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん:いわゆる[源平合戦])における戦いのひとつ、「屋島の戦い」(やしまのたたかい)では源氏軍に属し、平氏軍から仕掛けられた挑発とも言える「扇の的」(おうぎのまと)を、その弓術の才能を活かして矢で射落とした伝説が今もなお語り継がれています。 しかし、この伝説は鎌倉時代の軍記物語を代表する「平家物語」や「源平盛衰記」に記されているのみで、「吾妻鏡」(あずまかがみ/あづまかがみ)など、同時代に成立した歴史書には登場しておらず、その真偽は不明です。 同様に那須与一の生涯についても判然としない部分が多いため、こちらの年表には平家物語などから現在分かっている事柄のみ掲載しています。

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島津豊久の武将年表

島津豊久の武将年表
島津豊久 島津豊久(しまづとよひさ)は、戦国大名であった島津家が、薩摩国(現在の鹿児島県西部)を統一した年に当たる1570年(永禄13年/元亀元年)に生まれました。 戦上手として知られた島津家久(しまづいえひさ)を父に持ち、元服前から武人として育てられ、かなりの美少年であったとも伝えられています。 豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵で、出陣に二の足を踏んでいた島津家中における他の武士達をよそに、目覚ましい活躍を見せたのが島津豊久でした。いくつもの合戦において先陣を切り、誰よりも早く敵陣に旗を立てていたのです。 その一方で関ヶ原の戦いでは、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される作戦において、自軍の大将のみを戦場から脱出させる、「捨て奸」(すてがまり)と呼ばれる撤退戦術を考案するなど、前に出るだけではない作戦を遂行する武将でもありました。 関ヶ原の戦い後、徳川家康が西軍に属していた島津家を処罰しなかったのは、これら捨て身の戦を見て警戒したためだとも言われています。

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結城秀康の武将年表

結城秀康の武将年表
結城秀康 結城秀康(ゆうきひでやす)は、徳川家康の次男の立場にありながら、数奇な運命を辿った戦国武将です。 元服を果たす前に、豊臣秀吉のもとへ養子に出されましたが、豊臣家の後継者が豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に決まると、今度は下総国(千葉県北部、及び茨城県南西部)結城晴朝(ゆうきはるとも)の養子となります。 天下人の家系に生まれながら、流転の境涯(きょうがい:この世で置かれている立場、身の上)にあったのです。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで活躍し、権中納言(ごんちゅうなごん)にまで昇進しますが、34歳の若さで病没してしまいます。 結城秀康は名刀を数多く所有し、そのなかでも南北朝時代の名工・郷義弘(ごうよしひろ)による「稲葉郷」(いなばごう)は、上杉討伐の際、上杉軍の抑えとして、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に留まる結城秀康へ、徳川家康が秘蔵の采配(さいはい:戦場において、兵士達を指揮するために大将が手にして振っていた武具)と共に託した1振。 結城秀康亡きあとも、代々、越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の家宝として受け継がれ、のちに作州松平家(さくしゅうまつだいらけ)へと伝えられています。 この他にも結城秀康は、童子切安綱(どうじぎりやすつな)や石田正宗(いしだまさむね)など、名立たる日本刀を所有していました。

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石田三成の武将年表

石田三成の武将年表
石田三成 近江国(現在の滋賀県)に生まれた石田三成は、幼い頃から天下人・豊臣秀吉の右腕として活躍したことで知られています。 豊臣政権下では司法や行政を担当し、知将として貢献しました。豊臣秀吉の代名詞でもある「太閤検地」は、全国を駆けまわった石田三成の脚と頭で遂げた実績です。 不公平を嫌った、真面目な石田三成の人柄を示す逸話には事欠きません。猛将・島左近(しまさこん)を召し抱えるにあたっての禄高は、なんと自身と同じ額。 豊臣秀吉が石田三成の心配りを評価して家来にすることを決めた「三献の茶」(さんこんのちゃ)や、盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ)との友情を物語る茶会など、数多くの逸話が挙げられます。 その優れた頭脳をもって、豊臣秀吉と共に天下統一の夢を追いかけた石田三成でしたが、天下の覇者となるべく、徳川家康が台頭してきた時勢には抗うことができませんでした。 なお、石田三成の愛刀であった「石田正宗」は、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に贈られています。

石田三成の武将年表

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