新撰組の主な戦士と愛刀

斎藤一(新撰組・三番隊組長)
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斎藤一(新撰組・三番隊組長) 斎藤一(新撰組・三番隊組長)
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「新撰組」(しんせんぐみ)の「三番隊組長」を務めた「斎藤一」(さいとうはじめ)は、「溝口派一刀流」(みぞぐちはいっとうりゅう)と、「聖徳太子流」の剣術を修めた剣客です。「沖田総司」(おきたそうじ)や「永倉新八」(ながくらしんぱち)らと並ぶ、新撰組屈指の腕前であったと評されています。 そんな斎藤一は、業物(わざもの:切れ味の良い刀)として名高い名工、「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)が鍛えた日本刀を手に、京都の治安を乱す志士達を始め、新撰組内に潜入した間者(かんじゃ:敵方に潜み、その動向や様子を探る者)から裏切り者まで、次々と始末した人物でした。 明治維新後は警視庁に奉職(ほうしょく:公職に就くこと)し、東京の治安維持に尽力。1877年(明治10年)に起こった「西南戦争」では、「警視隊」として従軍するなど、後年にも剣の実力を発揮。幾度もの修羅場を経験しながらも天寿を全うした齋藤一。その生涯を、愛刀にまつわる逸話と共にご紹介します。

人を殺めて京都へ逃亡した斎藤一(さいとうはじめ)

斎藤一

斎藤一

斎藤一は1844年(天保15年/弘化元年)、江戸幕府の御家人であった「山口右助」(やまぐちゆうすけ)の次男として、江戸に生まれました。

斎藤一が最初に学んだ剣術の流派は、「溝口派一刀流」。「近藤勇」(こんどういさみ)が営む「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)の道場、「試衛館」(しえいかん)にも出入りしていたと伝えられています。

新撰組の「二番隊組長」であった永倉新八(ながくらしんぱち)の著書「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)によれば、斎藤一は、試衛館での稽古後に、今後の日本について語り合う仲間であったことが記されており、新撰組結成以前より、近藤勇らとの距離が近い人物だったことが分かるのです。

斎藤一にとって、最初の転機となったのは1862年(文久2年)、19歳前後のとき。些細な口論が原因で人を殺めてしまい、京都に逃亡することになるのです。

父親の知り合いであった剣術道場主にかくまわれて事なきを得ますが、ここで一心不乱に剣術に励み、「聖徳太子流」の剣術を修得。師範代まで務めたことからも、相当な剣の使い手だったことが窺えます。

新撰組への参加と斎藤一の役割

京都で近藤勇と合流

近藤勇

近藤勇

1863年(文久3年)、近藤勇らが「浪士組」(ろうしぐみ)に参加するために上洛すると、ほどなくして斎藤一も合流。詳細な時期は分かっていませんが、近藤勇らが京都残留を願って、「京都守護職」を務める会津藩(現在の福島県)藩主、「松平容保」(まつだいらかたもり)へ提出した嘆願書には、すでに名前を連ねています。

1864年(文久4年/元治元年)6月に起こった「池田屋事件」(池田屋騒動)では、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)隊の一員として加わり、屋内に切り込んで奮戦。会津藩から金10両(現在の約100,000円)、別段金7両(現在の約70,000円)を下賜される活躍を見せました。

こうした働きもあり、新撰組内における斎藤一の地位は徐々に上がっていきます。「副長助勤職」から「四番隊組長」、そして、1865年(元治2年/慶応元年)の組織改編では、「三番隊組長」に抜擢されました。なお、このときの一番隊組長は沖田総司、二番隊組長は永倉新八です。斎藤一を含むこの3名は、新撰組が誇る三大剣士とも称されています。

過酷な撃剣指導や間者の摘発

さらに斎藤一は、新撰組内において、「撃剣師範」(げっけんしはん)も務めていました。その指導は非常に厳しく、夜中に突然招集をかけ、暗闇の中で刃引きした真剣を得物(えもの)として試合をさせたり、就寝中に突然切り込んだり、実戦さながらの稽古を取り入れていたのです。

新撰組が、周囲から恐れられる剣客集団として名を馳せた背景には、斎藤一らの妥協なき訓練も、ひと役買っていたと言えます。また、新撰組内に潜む間者を摘発する能力の高さも、斎藤一の特長でした。1864年(文久4年/元治元年)に起こった「禁門の変」の際は、長州藩(現在の山口県)から潜入していた「御倉伊勢武」(みくらいせたけ)と「荒木田左馬之亮」(あらきださまのすけ)を敵と見抜いて斬殺(ざんさつ)。

また、薩摩藩(現在の鹿児島県)に通じていた「五番隊組長」の「武田観柳斎」(たけだかんりゅうさい)も、一刀のもとに切り伏せています。

伊東甲子太郎

伊東甲子太郎

さらに1867年(慶応3年)、新撰組の「参謀」(さんぼう:局長の相談役)を務めた「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)が、「御陵衛士」(ごりょうえじ)と呼ばれる朝廷警護組織を創設し、新撰組から分離した際に斎藤一は、近藤勇の命令を受け、間者として御陵衛士に潜入。

伊東甲子太郎に近藤勇暗殺の企てがあることを察知します。このような斎藤一の活躍により、近藤勇らによる伊東甲子太郎の粛清が決定。

そしてこれが、新撰組を二分することになった、新撰組と御陵衛士による抗争事件「油小路事件」(あぶらのこうじじけん:別称[油小路の変])のきっかけとなったのです。

貴重な切り合い体験談を残す

1867年(慶応3年)12月7日、土佐藩(現在の高知県)の藩士ら16人が、紀州藩(現在の和歌山県)の用人(ようにん:大名家などにおいて、様々な雑事などを司った者)「三浦休太郎」(みうらきゅうたろう)を、「天満屋」(てんまや:京都の油小路にあった旅籠屋[はたごや])で、襲撃する事件が起こりました。

このとき、9人の隊士と共に三浦休太郎を守護し、土佐藩士らを撃退した斎藤一は、貴重な実戦記録を残しています。明治・大正期の小説家「子母澤寛」(しもざわかん)が記した「新撰組遺聞」(しんせんぐみいぶん)の中で、斎藤一本人の談話が採録されているのです。

斎藤一によれば、実際の切り合いの場では、「相手がこう来たら、こう払ってこう返す、こう切り込んでいくなどということは不可能」であり、「夢中になって切り合うのが実際」とのこと。この談話は、実際の切り合いを知る上で、貴重な体験談として広く知られています。

愛刀は「国重」が鍛えた業物

斎藤一の愛刀を鍛えたと伝わる「鬼神丸国重」(きじんまるくにしげ)は、江戸時代中期に活躍した、備中国(現在の岡山県西部)出身の刀工です。大坂で「二代 河内守国助」(かわちのかみくにすけ)の門下に入り、その後、摂津国・池田町(現在の大阪府池田市)に移って定住したことから、作刀の銘には、「摂州住池田鬼神丸国重」などと切っています。

なお、鬼神丸国重は、江戸時代後期に発表された、日本刀における切れ味の番付を記した「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)、及び「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)において、「業物」に列せられた名工です。

明治維新後は警視庁に奉職

松平容保

松平容保

1868年(慶応4年/明治元年)、「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)を皮切りに、「旧幕府軍」と「新政府軍」との間で「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発すると新撰組は、旧幕府軍に属して各地を転戦。斎藤一も、北上しながら会津へと至ります。

ここで斎藤一は、負傷した土方歳三に代わり、「新撰組隊長」として指揮を執りますが、「白河口の戦い」(しらかわぐちのたたかい)や「母成峠の戦い」(ぼなりとうげのたたかい)などで敗戦。会津藩が降伏したあとも徹底抗戦を続けますが、会津藩主・松平容保の説得でようやく投降し、新政府軍の捕虜となるのです。

戊辰戦争の終結後は、しばらく会津に留まり、「藤田五郎」(ふじたごろう)に改名。1876年(明治9年)、もと・会津藩の「大目付」(おおめつけ:江戸幕府への謀反を起こさないように監視する役職)であった「高木小十郎」(たかぎこじゅうろう)の娘・時尾(ときお)と結婚。

その後、1877年(明治10年)2月、警視庁の警部補に着任すると、「西南戦争」に従軍し、「勲七等青色桐葉章」(くんななとうせいしょくとうようしょう)の勲章、及び賞金として100円(現在の約2,000,000円)を、明治政府より下賜される活躍を見せました。

晩年、警視庁を退職してからの斎藤一は、「東京高等師範学校附属博物館」(東京都文京区)の看守に着任。しかし、実質的な役割は剣道師範であったとされ、斎藤一こと藤田五郎が竹刀を構えると、誰ひとりとして、その竹刀に触れられなかったと伝えられています。斎藤一の剣術が、晩年まで衰えなかったことが窺える逸話です。

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芹沢鴨(新撰組・初代局長)

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「芹沢鴨」(せりざわかも)は、筆頭局長として草創期の新撰組を牽引した人物です。京都での破天荒な振る舞いや、同志に暗殺されるという非業の死を迎えたことで、その名を知られていますが、江戸幕府が京都の治安維持のために募集した、「浪士組」(ろうしぐみ)参加以前の前半生は、謎に包まれています。また、剣術の腕前は相当な人物だったとも言われ、「近藤勇」(こんどういさみ)と「土方歳三」(ひじかたとしぞう)も、芹沢鴨の暗殺に際しては、周到な策を講じました。 酒乱や自制心の欠如など、致命的とも言える短所が、命取りとなった芹沢鴨。その破天荒な生涯を、愛刀の逸話と共にご紹介します。

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近藤勇(新撰組・局長)

近藤勇(新撰組・局長)
幕末期、新たな政局の中心となりつつあった京都では、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬い、外敵を排除する思想)を掲げた過激派による、「天誅」(てんちゅう)と称するテロが横行し、治安は極度に乱れていました。この治安回復のために新設されたのが、会津藩(現在の福島県)が務めることになる「京都守護職」。さらには、会津藩による支配のもと、実働部隊として「新選組」が新設されます。この新選組に局長として君臨し、並み居る猛者達を束ねたのが、「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)宗家4代の「近藤勇」(こんどういさみ)でした。ここでは、近藤勇の足跡や愛刀、そして天然理心流剣術などについてご紹介します。

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新見錦(新撰組・局長)

新見錦(新撰組・局長)
「新選組」(しんせんぐみ)草創期における中心人物の中でも、「新見錦」(にいみにしき)ほど、謎に満ちた存在はいません。水戸藩(現在の茨城県)脱藩を自称しておきながら、水戸藩の史料には名前が確認できず、一時期は局長格、次いで副長の地位にあったとは伝えられていますが、確たる活動が分かっておらず、判明しているのは、剣の腕前が確かであったことのみです。 新選組二番隊組長を務めた「永倉新八」(ながくらしんぱち)の回顧録「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)、幕末の「西本願寺」(京都市下京区)において、侍臣(じしん:主君のそば近くに仕える者)を務めていた、「西村兼文」(にしむらかねふみ)の手による「新撰組始末記」など、同時代にまつわる史料に基づき、謎めいた新選組の隊士・新見錦の姿に迫ります。

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土方歳三(副長)

土方歳三(副長)
土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕末に京都の治安維持のために結成された「新撰組」の副長。新撰組を盤石な組織にするために、規律を破る者は容赦なく切腹させたため、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていました。様々なドラマや小説、漫画やゲームなどの登場人物としても取り上げられた土方歳三は、没後100年経っても愛されています。土方歳三が出会った数々の人物とのエピソードや、土方歳三の愛刀が持つ逸話とともに、土方歳三の生涯についてご紹介します。

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山南敬助(新撰組・総長)

山南敬助(新撰組・総長)
新撰組結成当初の中心メンバーであり、のちに「総長」を務めた「山南敬助」(やまなみ/さんなんけいすけ)。「局長」の「近藤勇」(こんどういさみ)、「副長」の「土方歳三」(ひじかたとしぞう)から一目置かれた存在でありながら、晩年、屯所脱走による罪で、切腹を余儀なくされました。 不可解な脱走を企てた理由は、今も解明されていません。しかし、山南敬助の愛刀「摂州住人赤心沖光」(せっしゅうじゅうにんせきしんおきみつ)に、屯所脱走の鍵が隠されているという説もあります。 ここでは、山南敬助が愛用していたこの刀にまつわる逸話や、その生涯についてご紹介すると共に、切腹の引き金となった、屯所脱走の謎にも迫ります。

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沖田総司(一番隊組長)

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「沖田総司」(おきたそうじ)は、江戸時代末期の武士で、幕末の京都の警察組織である「新選組」(しんせんぐみ)最強の剣豪です。 若くして天然理心流道場「試衛館」(しえいかん)に入門し、近藤周助(新選組局長・近藤勇の養父)の内弟子となりました。 沖田総司は、近藤勇・土方歳三とともに「新選組一番隊組長」として活躍していましたが、労咳(ろうがい:結核)により病床に伏します。 療養の甲斐なく夭折(ようせつ)した天才剣士という沖田総司の悲劇的な生涯は、小説や映画などの世界で「薄幸の美青年」と脚色されて描かれてきました。 ここでは、沖田総司の生涯と、沖田総司の愛刀についてご紹介します。

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永倉新八(新撰組・二番隊組長)

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「永倉新八」(ながくらしんぱち)は、「新撰組」(しんせんぐみ)の二番隊組長を務めた人物。「池田屋事件(池田屋騒動)」をはじめ、新撰組の隊士の中でも、第一線で活躍を続けた、同組きっての剣豪です。明治維新後は、新撰組の記録作成に専念し、「浪士文久報国記事」(ろうしぶんきゅうほうこくきじ)や、「同志連名控」(どうしれんめいひかえ)などの著書に記録を残しました。これらは、新撰組や、その往時を知る貴重な史料として、現在も重要視されています。つまり永倉新八は、歴史的な貢献度も高い新撰組隊士とも言えるのです。愛刀「播州住手柄山氏繁」(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)を手に戦い、幕末期を駆け抜けた姿や、晩年の著作活動に焦点を当て、永倉新八の実像に迫ります。

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藤堂平助(新撰組・八番隊組長)

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「新撰組」(しんせんぐみ)にその草創期から参加し、「八番隊組長」を務めた「藤堂平助」(とうどうへいすけ)。「池田屋事件」(池田屋騒動)などでも活躍した新撰組きっての剣客でありながら、のちに新撰組を離れ、同組の参謀であった「伊東甲子太郎」(いとうかしたろう)が結成した、「御陵衛士」(ごりょうえじ)に参加。その後、「油小路の変」(あぶらのこうじのへん)において、非業(ひごう)の最期を遂げました。 藤堂平助の新撰組への参加から離脱までの経緯、そして、愛刀「上総介兼重」(かずさのすけかねしげ)にまつわる逸話を軸に、その数奇な生涯を辿ります。

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原田左之助(新撰組・十番隊組長)

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