多士済々たる幕末維新期の群像にあって、「大村益次郎」(おおむらますじろう)は異色中の異色です。長州藩領の村医者の家に生まれ、最初は蘭方医として名を成しますが、やがて兵学者として著名な存在に。さらに明治政府が樹立されると、軍事の専門家として出仕します。このような生涯を歩んだ人物は日本史上でもまれです。蘭方医だった大村益次郎が、いかにして兵学者や軍人の道を歩むことになったのかを探りつつ、その生涯をご紹介していきます。
大村益次郎は幕末維新期の政治家・軍人・蘭学者です。1824年(文政7年)に長州藩の藩領となる周防国鋳銭司村(すおうのくにすぜんじむら:現在の山口県山口市南東部)に生まれました。
幼名は「惣太郎」。のちに「村田良庵」(むらたりょうあん)、「村田蔵六」(むらたぞうろく)を名乗っています。
大村益次郎は、長州藩の軍事に携わるようになってから使いはじめた名前です。生家は村医者を営む漢方医でしたが、1842年(天保13年)、19歳で蘭方医「梅田幽斎」(うめだゆうさい)に入門して、蘭学を学びはじめます。
翌1843年(天保14年)には漢学学習のため豊後国(現在の大分県)に赴いて「広瀬淡窓」(ひろせたんそう)の「咸宜園」(かんぎえん)に入塾。1年ほど学んだあとに帰郷しますが、この1年は大村益次郎にとって大きな転機となりました。
諸国から集まった俊秀と起居を共にしつつ学ぶことで、猛烈な向学心に目覚めたのです。広瀬淡窓の「農兵採用論」を学ぶ機会もありました。
これは「兵は武士でなくとも良い。町人・農民の兵で組織された軍隊の方が強い」という理論です。「武士=職業軍人」とする当時の常識を信じていた大村益次郎にとって、非常に刺激的な教えとなりました。
一旦は故郷へ戻った大村益次郎でしたが、湧き上がる向学心を抑えることができず、1846年(弘化3年)には大坂(現在の大阪府)へ赴き、「緒方洪庵」(おがたこうあん)が営む蘭学塾「適々斎塾」(てきてきさいじゅく)に入塾します。
「適塾」とも呼ばれる関西屈指の蘭学塾のなかにあって、持ち前の集中力と理解力で高度な蘭学を吸収。適塾在籍中に1年半の長崎留学を果たして塾に戻ると、師匠の緒方洪庵から塾頭を命じられるほどの能力を身に付けました。
しかし、1850年(嘉永3年)、大村益次郎は家業の村医者を継ぐため退塾を余儀なくされます。大坂という都会で最先端の知識を学んだ知識人にとって、村医者稼業は退屈至極。生来の無愛想も手伝って、来る患者の数は減る一方だったと言います。
1853年(嘉永6年)、大村益次郎は四国の宇和島藩に向かいました。アメリカのペリー艦隊来航によって騒然とする世情を受け、藩主の「伊達宗城」(だてむねなり)が蘭学に達者な人材を求めたところ、緒方洪庵が大村益次郎を紹介したのです。
村医者の経営を弟に任せて宇和島藩に赴いた大村益次郎は、「お雇い」という身分で、オランダ語兵学書翻訳に携わるかたわら、藩主直々の命令で軍艦建造にも着手。
1855年(安政2年)9月、薪を燃料にした動力源で航行する「宇和島丸」を完成させます。日本人のみの力で建造した日本初の西洋式軍艦でした。
1856年(安政3年)、大村益次郎は江戸へ出て私塾を開塾。さらに幕府が新設した「蕃書調書」(ばんしょしらべしょ:オランダの兵学書を翻訳する幕府の部署)と「講武所」(こうぶしょ:剣術・槍術など日本古来の武芸に加え、西洋砲術や西洋式の軍事調練を行う部署)に招かれます。
大村益次郎が適塾で学んだのは主に医学でしたが、宇和島在住時にもっぱら兵学書を翻訳していたこともあり、西洋兵学の知識に長けた希有な人材として抜擢されたのです。こうして幕府の機関で立ち働くうちに大村益次郎は、蘭方医・蘭学者と言うより、西洋兵学者として著名な存在になっていきました。
江戸では大学者として一目置かれた大村益次郎も、身分面では宇和島藩お雇い、幕府準旗本でしかありません。ここに目を付けたのが長州藩でした。「当代超一流の学者を幕府や宇和島藩に取られる前に」との思惑から、1860年(万延元年)、大村益次郎に出仕を命じます。
故郷への愛着が人一倍強かった大村益次郎は求められるまま藩士となり、長州藩江戸屋敷で西洋兵学の講義を行うようになったのです。1861年(文久元年)1月、藩命によって帰国すると、陸海軍の指揮官を育成する藩立の西洋兵学校「博習堂」(はくしゅうどう)の基礎作りを命じられます。
ここでは大村益次郎がかねてより藩に進言していた「教科書には翻訳書を使用する」という方式が採用されました。これまで西洋兵学の教科書には原書を使うのが一般的でしたが、語学の習得からはじめる必要があり、多くの人材に迅速に西洋兵学を習得させることが適いません。
翻訳書の使用こそ合理的と考えての提案でした。藩の洋学学習所として全面的に翻訳書を取り入れたのは、この博習堂が日本初です。こうした改革などもあり、長州藩は雄藩(ゆうはん:幕政に影響力を持つ藩のこと)のなかでも早い段階で軍制西洋化に成功しています。
長州藩にあって大村益次郎は主に軍務方として藩政にかかわるかたわら、萩にある藩校「明倫館」(めいりんかん)で西洋兵学を教授していました。しかし幕府による「第二次長州征伐」が発令されると、これを迎撃するための軍隊創設を命じられます。
ここで大村益次郎はかつての師匠・広瀬淡窓の唱えていた「農兵採用論」に基づき、町人・農民階級からなる部隊の創設を藩上層部に進言。既存部隊の再編制や指揮官クラスの西洋式軍事訓練、新鋭西洋式銃の調達など幕府軍を迎え撃つ準備を着々と進めました。
幕府軍は100,000人以上の兵力で4方面から進軍しましたが、展開は一方的。旧型の西洋式銃や火縄銃が主力火器の幕府軍は、最新式の西洋式銃を有し、先進的な軍事訓練を受けた長州勢にことごとく撃退され、総勢わずか3,500人の長州藩が勝利。
大村益次郎自身も総参謀として石州口で指揮を執り、幕府軍を壊滅に追い込みました。この戦闘の最中、大坂城(現在の大阪城)で指揮を執っていた14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が死去したことで第二次長州征伐は終結しますが、これにより一気に幕府の権威は失墜するのです。
1868年(慶応4年)1月に「戊辰戦争」が始まると大村益次郎は、武力討幕軍陣営に加わるために上洛。新政府の軍防事務局判事加勢を命じられ、軍政の実務に携わります。閏4月には江戸に赴き、上野山に立てこもる「彰義隊」の討伐を指揮。佐賀藩が鋳造した最新鋭の西洋式大砲アームストロング砲2門による砲撃や、最新鋭の西洋式銃を投入したこともあり、勝敗は1日で決しています。
戊辰戦争終結後は明治政府に出仕し、兵部大輔(ひょうぶだいふ)という役職に就任。大村益次郎は、ここで軍制改革を断行するため数多くの献策を政府上層部に提出しました。陸軍はフランス、海軍はイギリスにならうこと、藩兵の解体や帯刀の禁止、徴兵制度採用などです。
しかし、「武士=職業軍人」というあり方を否定する数々の建言を行ったことで、不平士族に目の敵にされます。1869年(明治2年)、京阪地方旅行中に不平士族の襲撃を受け、負傷。
そのとき一命は取り留めたものの、傷の悪化が原因で後日没しました。享年45歳。数々の軍制改革を実現したことから、やがて「日本陸軍の父」と称されるようになり、1882年(明治15年)には「靖国神社」(東京都千代田区)に銅像が建立されました。
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