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土方歳三と刀
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土方歳三と刀 土方歳三と刀
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土方歳三(ひじかたとしぞう)は、幕末に京都の治安維持のために結成された「新撰組」の副長。新撰組を盤石な組織にするために、規律を破る者は容赦なく切腹させたため、土方歳三は「鬼の副長」と呼ばれていました。様々なドラマや小説、漫画やゲームなどの登場人物としても取り上げられた土方歳三は、没後100年経っても愛されています。土方歳三が出会った数々の人物とのエピソードや、土方歳三の愛刀が持つ逸話とともに、土方歳三の生涯についてご紹介します。

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土方歳三と近藤勇(天然理心流)の出会い

土方歳三のイラスト

土方歳三

土方歳三は、1835年(天保6年)、武蔵野国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に誕生。出生前に父を失い、6歳で母を亡くしているため、次兄夫婦に育てられます。

少年時代から武人として名を上げたいという想いは強く、「バラガキ」(乱暴者)と呼ばれるほどのヤンチャ坊主。14歳から24歳までの10年間には諸説ありますが、呉服屋へ奉公に上がっていたと言われています。

その後、実家秘伝である「石田散薬」の行商をするようになり、仕事の合間に剣の腕を磨いたのです。

土方歳三は10人兄弟の末っ子で、「のぶ」という姉がいました。のぶの夫である佐藤彦五郎は、試衛館(天然理心流剣術)の近藤勇と義兄弟の契りを結んでおり、その縁で土方歳三は試衛館へ正式に入門。

佐藤彦五郎は、土方歳三と義理の兄弟であるだけでなく、後援者として試衛館出身の新撰組を見守り続ける存在となるのです。

池田屋事件で土方歳三が担った役割とは

14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護のためと称して「浪士組」が募集されると、土方歳三ら試衛館の8人はこれに参加することを決めます。しかし、京都で聞かされた清川八郎(きよかわはちろう)の演説によって、浪士組の本当の目的は将軍警護ではなく、攘夷(じょうい)であることが判明。これに異を唱えた24名が、京都守護職の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の庇護(ひご)を受けて新撰組を発足するのです。

新撰組は、京都の治安維持に尽力しますが、その中で尊攘派がもくろんでいた計画を知ることに。それは、御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮を幽閉し、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)・松平容保を暗殺、孝明天皇を長州に連れ去るという物。

この計画は、土方歳三が攘夷派志士の後援者である古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)に自白を迫り、明らかになりました。尊攘派が会合を行なうと知った新撰組は、彼らの潜伏していた池田屋に踏み込み、御所の焼き討ちを食い止めます。これが世に言う「池田屋事件」。

当時の新撰組はまだ立場が弱く、あとからやって来た会津藩や桑名藩に手柄を取られる恐れがありました。土方歳三は、彼らが池田屋に入るのを防ぐことで、新撰組の手柄を守ったのです。

土方歳三の愛刀/和泉守兼定

池田屋での戦果を伝えるために、近藤勇が佐藤彦五郎宛てに手紙を書いています。そこに記載されている「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)は、2尺8寸であったと書かれており、現存していません。松平容保より賜った物で、会津藩御抱鍛冶であった11代目兼定の作と言われています。

土方歳三所有の兼定作はもう1振あり、土方歳三が箱館戦争(はこだてせんそう)のときに佐藤彦五郎に送った兼定は、2尺3寸1分6厘。こちらは12代目兼定の作とされ、彦五郎に送られた際には刃こぼれがあったと言われています。昭和初期に修理され、土方歳三の実家に送られたあと、土方歳三資料館の所蔵となりました。

和泉守兼定
和泉守兼定
不明
鑑定区分
未鑑定
刃長
-
所蔵・伝来
松平容保 →
土方歳三 →
土方歳三資料館

戊辰戦争が始まり、劣勢になっていく新撰組と土方歳三

大政奉還によって、幕府が事実上崩壊すると、戊辰戦争が開戦。新撰組の属する旧幕府軍は、新政府軍の洋式銃や大砲に圧倒され、もはや刀や槍の時代ではないことを思い知らされます。近藤勇が処刑され、沖田総司が結核で絶命するなど、次々と仲間を失う中、残りの隊士や旧幕府軍とともに、土方歳三は果敢に戦い続けます。

旧幕府海軍の副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)と合流し蝦夷地へ渡ると、五稜郭(ごりょうかく)で新政府軍を迎え撃つことに。この戦闘で、土方歳三は腹部を撃たれ戦死。墓は日野の石田寺に建てられましたが、彼の亡骸がどこに埋められたのかは不明です。

土方歳三の愛刀/葵紋越前康継

康継は江戸初期の刀工で、南蛮鉄を使用することでも有名です。徳川家の「葵の御紋」と「康」の字を使うことを徳川家康から認められるほど、高い技術を持っていました。

この「葵紋越前康継」(あおいもんえちぜんやすつぐ)も、松平容保から拝領したと伝えられています。土方歳三が新政府軍と戦っている間、佐藤彦五郎もまた、甲州勝沼の戦いに臨み敗れていました。これによって、彦五郎の長男・源之助の日本刀がすべて没収されることになり、気の毒に思った土方歳三が佐藤家に贈ったのが葵紋越前康継だと言われています。

葵紋越前康継

ランク 刃長 所蔵・伝来
表:以南蛮鉄於武州江戸越前康継
裏:安政六年六月
十一日於伝馬町
雁金土壇払
山田在吉試之
同年十一月廿三日
於千住府ト太々土壇払山田吉豊試之
2尺3寸5分(71.2cm) 佐藤彦五郎新撰組資料館

土方歳三のルーツに触れることができる「土方歳三資料館」

東京都日野市に、土方歳三の兄の子孫によって1994年(平成6年)に開設された「土方歳三資料館」があります。資料館のある場所は、土方歳三が子供の頃に住んでいた家の跡地です。

館内には、愛用していた日本刀「和泉守兼定」をはじめ、身に付けていた鎖帷子や直筆の書簡(手紙)など、土方歳三にゆかりのある品が数多く展示されています。

また、庭には土方歳三が植えたとされる矢竹も。植えるときには、「武士になって名を上げる」という願いをこめたと言われています。

この資料館を訪れれば、土方歳三のルーツに触れることができるでしょう。

終焉の地・函館にある「土方歳三函館記念館」

土方歳三「終焉の地」である北海道函館市には、その波乱に満ちた生涯を紹介する「土方歳三函館記念館」があります。

館内には、新撰組隊士に関連する刀剣の数々や、函館戦争の貴重な資料など、土方歳三にゆかりのある品々が豊富です。なかでも、リボルバー拳銃「ルフォーショウ」は、あの有名な肖像写真を撮影するとき、土方歳三の腰にあったとされています。

また、展示品だけでなく、土方歳三の生涯をDVDで振り返る映像コーナーも。さらに、館内では土方歳三ら新撰組の生き残りが北海道に渡るときに乗った船、「開陽丸」の一部も再現されています。

土方歳三の活躍を知ることができる、函館の記念館を訪れてみてはいかがでしょうか。

戊辰戦争

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