「源頼朝」(みなもとのよりとも)と言えば、鎌倉幕府の初代将軍。圧倒的なリーダーシップで源氏・東国御家人をひとつにまとめ上げ、「平家滅亡」を成し遂げました。また、政治の実権を朝廷から奪って、武家政権を確立。容姿端麗・頭脳明晰・武術に優れたスーパーヒーローです。
「組織作りの天才」と尊敬を集めた、源頼朝の生涯に迫ります。
源頼朝は、1147年(久安3年)尾張(現在の愛知県名古屋市)生まれ。幼名は「鬼武者」。
父は清和源氏の武将「源義朝」(みなもとのよしとも)、母は熱田神宮の宮司「藤原李範」(ふじわらすえのり)の娘「由良御前」(ゆらごぜん)です。
3男として生まれますが、実母が正室だったために、生まれてからすぐに後継者としての高い教育を受けて育ちます。
1158年(保元3年)12歳のときに、皇后宮権少進に任官。翌年2月、鳥羽法皇の皇女「上西文院」に仕え、上西文院蔵人に。
1月には右近衛将監、6月には後白河上皇の皇子「二条天皇」に仕え、蔵人に任じられます。とても優秀で昇進が早く、まさにエリートコースを歩んでいました。
そんな中、1159年(平治元年)、13歳のときに実母が死去。同年、父と共に「平清盛」を打倒するため、「平治の乱」に初陣します。
このとき、従五位下「右兵衛権佐」(うひょうえごんのすけ)の官位を賜り、「佐殿」(すけどの)と呼ばれるようになるのです。
しかし、平治の乱に敗れて捕らえられることに。父・源義朝は死刑。源頼朝も死刑になるはずでしたが、運良く、敵・平清盛の義母「池禅尼」(いけのぜんに)によって助命され、1160年(永暦元年)から20年間、伊豆国(現在の静岡県南部)に流刑となったのです。
源頼朝は、子どもの頃から「年齢よりも大人びている」、「容貌優美」と言われていました。池禅尼に助命されたのも、その愛くるしさと健気さを不憫に思われたためと伝えられています。
源頼朝の生涯にかかわった人物は数多くいますが、ここでは特に重要な人物を「人物相関図」で分かりやすくご紹介します。
初陣である平治の乱に敗れた源頼朝は、1160年(永暦元年)から約20年もの期間、伊豆国の「蛭ケ小島」(ひるがこじま)に流刑(るけい:島送りの刑)となりました。
蛭ケ小島での源頼朝の生活は、流人(るにん:流刑に処せられた人)としては比較的自由なもので、平氏による監視も緩やかなものであったと言われていますが、流刑は流刑。土地を所有することも、家来を持つことも、当然伊豆国の外に出ることも源頼朝には認められておらず、その社会的地位は否定されていました。
しかし、捕らわれの身でありながらも伊豆で学問を究めて、史上有数の政治家へと成長。後白河上皇と平氏との間に展開する政治情勢の変化を、的確に把握していたと言われています。周囲からの援助により生活が困窮することはなかったと伝えられており、特に、武蔵国比企郡(むさしのくにひきぐん:現在の埼玉県)の代官であった「比企掃部允」(ひきかもんのじょう) の妻「比企尼」(ひきのあま)は、乳母として献身的に源頼朝を援助し支え続けたと言われているのです。
1177年(治承元年)30歳のときに、伊豆国の豪族である「北条時政」(ほうじょうときまさ)の娘、「北条政子」(ほうじょうまさこ)と恋愛結婚。
その後、1180年(治承4年)に後白河上皇の皇子「以仁王」(もちひとおう)が平氏打倒の詔を発令し、ついに源頼朝は、北条氏を中心に「三浦義澄」(みうらよしずみ)、「千葉常胤」(ちばつねたね)、「上総介広常」(かずさのすけひろつね)、「畠山重忠」(はたけやましげただ)など、東国の豪族をまとめ上げ、宿敵・平家滅亡のために挙兵します。
北条政子は、1157年(保元2年)生まれ。源頼朝よりちょうど10歳年下です。
最初のふたりの関係は、北条政子の父・北条時政が、流人である源頼朝の監視役だったこと。そんな北条時政が京に大番役に出ていた際に、源頼朝と北条政子は恋愛関係になったのです。
結婚したいというふたりに、当初、北条政子の父・北条時政は大反対。しかし、源頼朝が好きで諦められない北条政子は、駆け落ちをして第1子・大姫を出産し、ようやく結婚を認められます。源頼朝が30歳、北条政子が20歳のときでした。
このことから、北条政子は欲しい物は絶対に手に入れる、激しい女性であることが分かるのです。さらに、日本の歴史上、最強の鬼嫁と言われる北条政子の激しさを表すエピソードがあります。それは、源頼朝の浮気発覚時。浮気と言っても、当時は一夫多妻制だったので、妾を持つことは常識でした。
しかし、北条政子が第2子を妊娠しているとき、源頼朝が妾(めかけ)の「亀の前」と仲むつまじくしているのを知ると、嫉妬して許すことができず、「亀の前」が宿泊していた屋敷に火を点け焼き殺してしまったのです。さらに屋敷の主も流罪に。気に入らない人に対しては徹底的に攻撃するタイプでした。
源頼朝は、一説によると恐妻家だったと言われていますが、ここまでされたら恐れずにはいられません。結局、源頼朝は北条政子との間に5人の子どもに恵まれますが全員亡くなり、妾との間には1人も子どもがいなかったので、源頼朝の血は絶えてしまいました。
北条政子と結婚することで、源頼朝は北条家の莫大な富と後ろ盾を得ましたが、心の安らぎは失ったのかもしれません。
なお、北条政子は、豊臣秀吉の側室「淀殿」(よどどの)と足利義政(あしかがよしまさ)の側室「日野富子」(ひのとみこ)と並び、「日本の三大悪女」に数えられています。
1180年(治承4年)5月、以仁王と「源頼政」は、「宇治平等院の戦い」に敗れて早々に戦死してしまいます。そこに、平氏は詔を受けたすべての源氏追討に宣戦布告するのです。
同年8月、源頼朝は東国の武士達に挙兵を呼びかけ、出陣を決意。まず、伊豆の目代(もくだい)「山木兼隆」(やまきかねたか)を討ち取って平氏の連絡網を切断し、伊豆制圧に成功します。次に、300兵で「石橋山の戦い」を仕掛けますが、敗れて安房国に逃亡。
しかし、上総国と下総国の武士、2万の兵を味方に付け、さらに武蔵国入りして武蔵の武士団も味方に付けることに成功するのでした。そして、父方ゆかりの地・鎌倉へと入るのです。
これだけ多くの味方に恵まれたのは、源頼朝が挙兵参加者に所領の安堵を保障し、敵方の没収地を新しく与えるという制度を作ったためでした。
そんな中、1181年(治承5年)に平清盛が病死。すると、源頼朝は軍勢を携えて「源義仲」(みなもとのよしなか)を討滅。
そして、1184年(元暦元年)に「一ノ谷の戦い」、1185年(文治元年)に「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」を起こし、ついに平家を滅亡させるのです。
ところが、この平家滅亡の最大の功労者と言われる、腹違いの弟「源義経」(みなもとのよしつね)を謀反の疑いで追討。源義経をかくまっていた奥州藤原氏をも滅亡させてしまいます。
源頼朝は関東を平定し、1190年(建久元年)に上洛。後白河法皇、後鳥羽天皇に謁見して「権大納言」、「右近衛大将」に任命されますが、満足せず両職を辞退。そこでついに、1192年(建久3年)「征夷大将軍」に任命され、鎌倉の地に鎌倉幕府を開くのです。
まず源頼朝は、法皇に迫って朝廷から政治の実権を奪います。そして、各国にひとり「守護」(治安の維持と警察権の行使)と「地頭」(年貢の徴収や納入)を設置して、任命する権利と兵糧米を入手する権利を獲得。
さらに中央機関として、御家人を組織し統制する「侍所」、政務や財政事務を司る「政所」、裁判事務を担当する「問注所」を設置し、幕府の体制を強化します。
御家人に対しては、先祖伝来の所領の支配を保障する「本領安堵」、御恩(新恩給与)と奉公の授受を確立する「封建制度」を整え、世界史的にも先駆的な軍制の創設を成し遂げるのです。
源頼朝について、「九条兼実」(くじょうかねざね)の日記「玉葉」では、「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」。また、「慈円」(じえん)の日記「愚管抄」では、「ぬけたる器量[才能]の人」と書かれています。
源頼朝は、自ら前線で戦うことは少なかったようです。自分が何でもやらなければ気がすまないという、よくいる独裁者ではなく、部下を信じ、各現場を代理指揮官と軍監にゆだねる軍制を考案したのです。これは、世界的に見ても先駆けでした。
御家人ひとりひとりの顔、名前、特徴を把握し、適材適所に配置。任せる技術で、御家人の心をひとつにまとめ上げる組織作りを果たします。
さらに、武芸に長け源氏の宝剣「髭切」(ひげきり)を所持し、いざというときには相手を確実に惨殺。石橋山の戦いでは、強弓を引いて鎧武者を一撃するなど、実績が伴うカリスマでした。享年、53歳。源頼朝死後、源氏はたった3代で滅亡するのです。
源頼朝は、多くの同族や弟・源義経を死に追いやったことから、「情けがない将軍」、「冷酷な政治家」と酷評されることもあります。確かに、同族に厳しく、子孫が断絶したことは最悪なこと。しかし、源頼朝は自分の血筋よりも日本国の将来を1番に見据えて組織を作り、行動したのではないでしょうか。人々が本領安堵して暮らせる世の中になるように。
ところで「徳川家康」は、源頼朝を手本にして江戸幕府を作ったと言われています。したがって、源頼朝が考案した武家政権の軍制システムは、江戸幕府が終わる1867年(慶応3年)まで、約700年間続くのです。
北条政子は、源頼朝のことを「官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い」と述べました。源頼朝こそが、日本国の基礎を創った真の英雄と言えるのではないでしょうか。
一般的に、源氏の代表的な家紋として挙げられるのが「笹竜胆紋」(ささりんどうもん)です。
晩秋の9月頃に、紫色や青色のかわいらしい花を咲かせる野草、竜胆(りんどう)がモチーフにされており、「竜胆紋」(りんどうもん)とも呼ばれます。
竜胆は、万葉集(まんようしゅう:現存する、最古の和歌集。編者は不明)や枕草子(まくらのそうし:平安時代中期の随筆。著者は清少納言)にも登場しており、古来より調度品や着物などの文様(もんよう:模様)にも用いられています。
家紋化したのは鎌倉時代初期の頃で、特に公家(くげ:天皇や朝廷を意味する言葉。広く、有力氏族のことを指す)の間で使用されていました。
主に笹竜胆紋を使っていた公家は、62代「村上天皇」を祖とする「村上源氏」(むらかみげんじ)の久我家(こがけ)・六条家・愛宕家(おたぎけ)・中院家(なかのいんけ)・千種家(ちぐさけ)・植松家・久世家(くぜけ)・東久世家・岩倉家。
また、59代「宇多天皇」(うだてんのう)を祖とする「宇多源氏」(うだげんじ)の五辻家(いつつじけ)・綾小路家(あやのこうじけ)・慈光寺家(じこうじけ)・大原家の他、藤原北家(ふじわらほっけ)の高倉家・堀河家などの公家も竜胆紋を使用しています。
しかし実は、源頼朝が笹竜胆紋を使用していたという確証が見つかっていません。源頼朝は、56代「清和天皇」を祖とする「清和源氏」(せいわげんじ)。その清和源氏の中で笹竜胆紋を使っていたのは一部の竹内家のみでした。
諸説ありますが、源頼朝は家紋を使用していなかったのではないかと考えられています。しかし、「旗」という点では、源頼朝にはある強いこだわりがありました。それは、「白旗」。
「源平合戦」において源氏は白旗、平家は「赤旗」を掲げて政権を争い戦いました。その戦いで勝利した源頼朝は、このときから白旗を「栄誉の証」として考え始めます。
その後、源頼朝は一族に対しても白旗を使用できるのは源氏の嫡流(ちゃくりゅう:正統の血筋。家督を受け伝えていく家柄)のみと定め、御家人達にも白旗を用いさせず、家紋を必ず記すように命じていました。これは、家紋を持つ武家が増えたきっかけとも言われています。
ではなぜ「源氏=笹竜胆」というイメージが一般的になったのでしょうか。それについても諸説ありますが、歌舞伎の演目のひとつである「勧進帳」(かんじんちょう:源義経と弁慶の物語)が影響していると言われており、着物に笹竜胆紋を入れることで源義経が源氏の縁者であることを表現したことが、大衆に源氏=笹竜胆の印象を少なからず与えたと考えられます。
しかしながら、源頼朝と笹竜胆紋に関するエピソードもいくつかあり、狩りに出かけた源頼朝が、北条政子から竜胆を捧げられたことが家紋に発展したという説も。
現在では「ササリンドウ」が、源頼朝と縁が深い神奈川県鎌倉市の市章に制定されています。
なお、源頼朝が白旗を使用していたことを裏付ける物として、源頼朝が眠る鎌倉の鶴岡八幡宮内にある「白旗神社」に、その名前が残っています。
源頼朝は鎌倉幕府を成立させ、武家社会の礎を築いた人物として広く知られていますが、和歌にも長け、その歌が「新古今和歌集」に選ばれています。
「陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ 壺の石ぶみ」
いはで(現在の岩手県)、しのぶ(現在の福島県)でのことを言わないで偲んでいるのは理解しかねます。壷の石碑を踏むのではなく、私への手紙に書き尽くして下さい。
「岩手」(地名)と「言はで」(言はないで)、「しのぶ」(福島県の地名)と偲ぶ、蝦夷と得ぞ、文と踏みなど掛け言葉が巧みに使われた名歌です。
これは慈円が「手紙では言えない」と詠んだ歌に対する返しの歌ですが、「ふみつくしてよ」という言葉の中に、他人の言葉にしっかりと耳を傾ける、源頼朝の器の大きさが垣間見えるのです。
「太刀 銘 安綱」(名物 髭切/鬼切)は、源氏重代の宝刀。平安時代に「源満仲」が作らせた2振のうちの1振です。
源満仲が罪人を試し切りした際に、罪人の髭まで切り落としたことから「髭切」と号が付けられました。その後、化け物の鬼を退治して「鬼切」、友の日本刀を切ったことから「友切」などと号が変わり、源氏は敗戦続きに。
しかし、源頼朝の父・源義朝が神託を受けて髭切に名前を戻し源頼朝に継承すると、日本刀に力が再び戻って源頼朝を助け、源平合戦において源氏を勝利に導いたのです。
このことから、太刀 銘 安綱(名物 髭切/鬼切)は、鎌倉幕府の開府を手助けした1振と呼ばれています。
なお、銘の安綱は「国綱」と改竄されています。こちらにも、何かの意味があるのかもしれません。
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