FASHION / TREND & STORY

「彼女の血にはディオールが流れている」――デルフィーヌ・アルノーが語る、家族の絆

LVMHの総帥であるベルナール・アルノーを父に持ち、2023年2月1日にディオール(DIOR)の会長兼CEOに就任したデルフィーヌ・アルノー。10,000字インタビューを通して、これまでの軌跡、そして家族との絆について迫る。

世界一の大富豪であり、ラグジュアリーの世界に君臨するLVMHの総帥であるベルナール・アルノーを父に持ち、2023年2月1日にディオール(DIOR)の会長兼CEOに就任したデルフィーヌ・アルノー。英国人ジャーナリスト、ギャビー・ウッドによる10,000字インタビューを通して、これまでの軌跡、そして家族との絆について迫る。

2023年2月1日の朝、前夜のルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)パーティーの疲れをみじんも感じさせない、落ち着き払った様子で、デルフィーヌ・アルノーはクリスチャン ディオールの会長兼CEOとして、新たなオフィスに足を踏み入れた。LVMHの総帥、ベルナール・アルノーの長子、そして唯一の娘として、彼女は父親が率いるLVMH傘下の企業で数十年の経験を積んだのちに要職を歴任し、ファッションビジネスのあらゆる面を学んできた。

現在47歳のデルフィーヌはこの日、同グループの極めつきの至宝を手にした。それが父親が最初に買収したメゾンであり、彼女自身も子どものころから週末には父親に連れられて訪れていた場所、こよなく愛されたムッシュ・ディオール(従業員からは今でもこう呼ばれている)の本拠地だ。ディオールは77年前に、女性が自分の人生に抱く夢のあり方を変えた、画期的なデザイナーだ。クリスチャン・ディオールという名前は、フランスの歴史と分かちがたく結びついている。そして先述の2月1日に、デルフィーヌは女性として初めて、このブランドを率いることになったのだった。

「名の知れた一家で育つと、間違いをする権利は与えられません」

どれだけ気さくであっても、アルノー家の人々は、この家の名をいただくがゆえの孤立を免れない。結束が固く、極端な秘密主義で知られるアルノー家の内情に対する関心は、このところにわかに高まっている。これには、創業者である父ベルナールが、LVMHの将来にまつわる意思決定のミッションを5人の子どもに分割して与えたという事情がある。「名の知れた一家で育つと、間違いをする権利は与えられません」と、デルフィーヌの弟、アントワーヌは説明する。「どんな些細な欠点でも、とがめられますから」

自身がホストを務める「LVMHプライズ」にて、マリア・グラツィア・キウリと。2017年。Photo ©︎ Getty Images

私が最初にデルフィーヌ・アルノーと会ったのは、彼女がディオールのトップに就任してから7ヶ月が経ったころだった。同ブランドのクリエイブ ディレクター、マリア・グラツィア・キウリパリに構えるスタジオのロビーで、デルフィーヌは、ディオールのネイビーのスーツをまとい、両手をポケットに入れた姿で、私を迎えた。立ち居振る舞いには思慮深さがにじみ出ており、180センチ近くある堂々とした長身にふさわしい、落ち着きもある。この日はディオールの2024春夏シーズンのショーの前日にあたり、スタジオではネオンピンクとイエローがまぶしいリハーサル用の舞台装置の前に、黒のレザーの椅子が3脚置かれた。ジーンズに黒のセーター姿のマリア・グラツィアは、デルフィーヌの隣に座り、グリ・ディオール(ディオール・グレイ)の毛色のプードルを紹介する。

1947年にクリスチャン・ディオールが描いたのが、女性の人生についてのストーリー、戦争の惨禍から抜け出した女性たちが期待する未来の姿だとするなら、彼が興したブランドを今、女性として初めて率いる2人が語るのは、また新たなストーリーだ。CEOにデルフィーヌを、そしてクリエイティブ ディレクターにマリア・グラツィアを擁するディオールは、新しい時代に向けて動き出している─それは、多忙なワーキングマザー2人が、女性が着るものや着たときの感覚、そしてブランドの衣服を作る人たちが感じる思いについて、決断する立場にある未来だ。アルノー家とは家族ぐるみの付き合いがあり、13年間にわたりLVMHの取締役を務めているマリー=ジョゼ・クラヴィスは、ディオールのトップを務める2人をこう表現する。「ここでは、本物の才能を持つ女性2人が、伝えるべきメッセージを日々、自らの生活で体現しています。あらゆる場所にいる女性にとって、最高のお手本だと思います」

マリア・グラツィアによるディオール2024年春夏プレタポルテコレクション。Photo courtesy of Gorunway.com

デルフィーヌは受け手の立場を貫き、決して干渉しない。彼女はこの前に2回、制作中のコレクションを見る機会があった。「毎回目にするたびに、少しずつ良くなっていることがわかるんです」と、デルフィーヌは言う。黒のプリーツスカートは、ディオールが1947年に打ち出した「ニュールック」へのオマージュで、アシンメトリーのホワイトシャツの襟もとにも、そのイメージがアレンジした形で使用されている。キトゥン・ヒールの黒のグラディエーターブーツは、パールがあしらわれたストラップも相まってセクシーな印象を残す。また、さまざまな柄のレースを用いたコットンドレスもある。そして、黒のコートにはX線写真を思わせる、ぼやけたエッフェル塔の画像がプリントされていた。

父から受け継いだ天賦の才、そして女性経営者としての気概

それから数週間後、私はル・ストレーザで、デルフィーヌとランチを共にした。家庭的な雰囲気のあるこの店で、デルフィーヌがカプレーゼとミネストローネをオーダーした後、話題の中心となったのは、彼女のプライベートに関する、非常に繊細な感覚だった。デルフィーヌと話をするうえでの難題はここにある。誰から見ても人当たりが良いのは間違いないが、あまり多くを語らないタイプなのだ。

何度か話をする中で、私からの質問に対する、彼女の答えはいつも簡潔だった。だがそれが傲慢さ、さらに言えば遠慮の表れだとは感じられなかった。インタビューということで警戒感を覚えていたのかもしれないが、それでも、彼女は自身の世界を垣間見る機会を、私にたくさん与えてくれた。

クリスチャン・ディオールのフレグランス「デューン」のローンチイベントにて。1991年撮影。©︎ Getty Images

そこで感じたのは、彼女がそもそも、人生にストーリーを求めていないのではないかということだった。何を訊いても、ストーリーを語るような答えが返ってくることはなかったからだ。これはひょっとすると、謙虚さの一つのかたちなのかもしれない。そしてこの謙虚さは、礼儀正しさの表れでもある。アルノー家を取り巻く人たちに話を聞いたとき、(疲れを知らない働きぶり以外で)繰り返し話題に浮上したのは、この家の人々がとても礼儀正しい、という点だ。

私が見た中で、彼女が一番生き生きとしていたのは、ほかの人を称賛するときだった。その称賛の相手が、自身が作品を所有しているアーティストでも、数十年にわたってディオールの店舗に勤めて、最近足を骨折した店員でも、その様子に変わりはない。そして、父ベルナールに寄せる愛情と尊敬も、同様にありありと見て取れた。私が話を聞いたある人物は、この父娘の関係について、お互いに「深い尊敬の念」を持っていると表現した。

父ベルナール・アルノーとともに、当時LVMH傘下ブランドだったクリスチャン・ラクロワ(CHRISTIAN LACROIX)1992年春夏コレクションのバックステージにて。©︎ Getty Images

「私は親に反抗したことは一度もなかったですね」と、デルフィーヌは私からのわかりきった質問に笑顔で応じた。父親と同様に、デルフィーヌは「何が売れるか」を直感的に察知する才能を持っている。すべてとは言わないまでも、この感覚の一部は経験から得たものだ。「理屈ではありません」と彼女は説明する。実際、ランチをとりながらの会話で彼女が言及した唯一の仕事上の課題は、採用時に、応募者がこの感覚を持ち合わせているかを見極めるのが難しい、という点だった。これは父ベルナールが持つ才能だ。「父はテーブルに置かれた15種類のバッグから、即座に『これは売れる』というバッグを選ぶことができます」と、面白がりつつ驚いているような口調で、彼女は私に説明した。

LVMHというレガシーを受け継ぐ、ノブレスオブリージュ

デルフィーヌが生来の聞き手なのは明らかだ。「どんなときも、耳をそばだてています」というのは、ある友人の弁だ。この目立たない資質こそ、彼女の最大の強みかもしれない。そして、圧倒的に男性が多いLVMHグループの中で、彼女を異端の存在にしているのも、この特質だ。クリエイティブの過程に関わる人たちを断固として守り、繊細な気遣いを見せるデルフィーヌは、若いデザイナーを発掘するLVMHプライズの発案者でもあり、才能ある者を発掘する能力は折り紙つきだ。

ビジネスにおいては情け容赦なく、厳格な父親のベルナールは、「カシミアを着たオオカミ」という異名でも知られている。2022年にはLVMHの取締役会を説き伏せ、CEOと会長の退任年齢を75歳から80歳に引き上げた。これにより、ベルナールにはこれからもう5年、自身の5人の子どもの働きぶりを統括することが可能になった。子どもたちは、取締役会が全員一致で承認しない限り、今後30年間は自身が持つ会社の株を売ることができない。さらにその後も、譲渡先はアルノー家の直系の子孫に限定すると定められている。

「ル・バル」でデビュタントを飾った際は、クリスチャン・ラクロワによるロマンティックなフローラルモチーフのガウンを着用。1994年撮影。©︎ Getty Images

今では70以上のブランドを抱える、LVMHグループは、デルフィーヌの言葉を借りるなら「ヨーロッパでもトップクラスの企業」だ。実際、同グループは世界最大のラグジュアリー・コングロマリットで、ファッションブランドだけでなく、ホテルやワイナリー、世界レベルの美術館シャンパンブランドの大部分を傘下に収めている。

この一大帝国におけるディオールの持つ意味は、単に創業者の思い入れだけにとどまらない。実際、LVMHの株式のうち41.4%を占めているのだ。ディオールはグループの中で、文化の伝統を受け継ぐとともに、アンバサダー的な役割も果たしている。ベルナールは火災の被害に遭ったパリのノートルダム大聖堂再建に2億ユーロ(現在のレートで約320億円)を拠出すると言明したほか、今年パリで開催される夏季オリンピックにはスポンサーとして1億5000万ユーロ(同約240億円)の契約料を支払っている。フランスではエコノミストから、ベルナールの影響力は国を率いる大統領を上回るとの声も上がるほどだ。

さらに娘のデルフィーヌも、父よりは目立たない形で、社会貢献事業を行っている。こちらの支援先はフランスの学校だ。支持する理念について、私が尋ねたときにも「教育には力を入れています」との答えが返ってきた。「個人的に知っていて、才能ある子どもたちの発掘に長けた特定の学校に対して、行っていることです。とても優秀なのに、奨学金を返済するお金がない学生の支援などですね」。これは彼女が公の場で明らかにしていない取り組みだ。

勉強とスポーツに明け暮れた幼少時代、アルノー家の英才教育とは

自身の子ども時代について、デルフィーヌは「勉強とスポーツ中心の、とても健康的で、落ち着いた生活でした」と振り返る。「あちこち出歩くことは許されていませんでした。いえ、多少なら許されましたが、とにかく懸命に努力することがメインテーマだったんです。私たちは、父が懸命に働く姿を見て育ちました。祖父もそうです。土曜の午前中もオフィスにいましたからね。2人は一緒に働いていて、時には私もお供をしたものです」

ベルナール・アルノーは、フランス北部のルーベで、建築業を営む家に生まれた。クリスチャン・ディオールが「ニュールック」を披露した年に両親は結婚し、その3年後には母方の祖父からベルナールの父に事業が受け継がれた。

ルイ・ヴィトン2024-25年秋冬コレクションに来場したデルフィーヌとアントワーヌ。©︎ Getty Images

娘のデルフィーヌが生まれたとき、ベルナールはまだ26歳。当時の妻は、同じくフランス北部出身だったアン・ドゥヴァヴラン。デルフィーヌと弟のアントワーヌは「とても厳格な方針のもとで育てられた」と、友人のクラヴィスは教えてくれた。ベルナールが夕食前に、子どもたちの算数の勉強を見ていたというのも、今では有名な話だ。ギャラリー経営者で、最初に絵画を販売した相手がデルフィーヌだったという、旧友のアルミン・レッシュもこう付け加える。「ほかの人より優秀であればあるほど、達成すべき目標も高くなる。フランスではそのように言われて育てられるのが普通なんです」

アルノー家の子どもたちは、競争心を強く持つようにと教育されてきた。「でも、『自分のベストを尽くすように』ということですよ」とデルフィーヌは言う。「それこそ自分のやるべきことですから。もちろん、周りの人のことへの思いやりを決して忘れずに、でも常にできる範囲でベストを尽くすんです」

「聞くだけで疲れそう」と私が思わず呟くと、「そうですね。確かに疲れます!」と笑う。

原風景に刻まれた、ディオールのパリ本店

彼女は比較的ゆったりと暮らしていた、アメリカ滞在時の3年間を懐かしそうに回想する。このとき、父親のベルナールが家業の不動産業でアメリカに支社を設立しようとしていた関係で、一家はニューヨーク市のすぐ北にある町、ニュー・ロシェルに暮らしていた。デルフィーヌが10歳のときに、家族はフランスに戻ったが、彼女はこのときにはすでに完全にバイリンガルになっていたという。

1984年にクリスチャン・ディオールを買収した直後、1986年に発表されたメンズコレクションにて、フランソワ・レオタール・元フランス文化大臣と俳優のトニー・カーティスとともに。当時のウィメンズのクリエイティブ・ディレクターはマルク・ボアン。©︎ Getty Images

父ベルナールが、最初の企業買収に踏み切ったのも、ちょうどこの時期だった。買収相手は、ディオールを傘下に持つ企業だった。「父は常に、ディオールには特別な愛情を注いでいました」とデルフィーヌは語る。「買収して間もないころから『ディオールを世界で一番憧れられるブランドにする』というヴィジョンを掲げていました」と言ったが、すぐに「ルイ・ヴィトンと並ぶようなブランド、という意味ですよ!」と付け加えた。買収後すぐに、ベルナールは娘のデルフィーヌをモンテーニュ通り30番地にあるディオールのパリ本店に連れていった。「私は呆然としました」と、彼女はこのときのことを振り返る。「小さな女の子にとって、ディオールを訪れ、ドレスやバッグ、帽子を見るのは本当に素敵なことでした。夢を見させてくれる場所でした」

そう聞いた私は、「学校の友達に話すことがたくさんあったでしょうね?」と水を向けた。するとすぐに、まるでドアが閉まるように雰囲気が変わり、アルノー家特有の秘密主義が顔をのぞかせる。「その話はしませんでした」と、彼女は即座に答えた。

このディオールへの初訪問をきっかけに、父親の職場訪問はアルノー家の長く続く慣例となった。ベルナールはその後も、毎週土曜日になると決まって子どもたちを連れ、傘下ブランドの店舗を訪問した。今も彼は娘を伴ってさまざまな拠点を訪問するが、その下敷きとなったのがこの、子ども時代の店舗訪問だった。

一度目の結婚、盟友ジョン・ガリアーノへの追憶

デルフィーヌが15歳のときに、両親は離婚し、ベルナールはカナダ人ピアニストのエレーヌ・メルシエと再婚。その後、ベルナールとエレーヌの間にはアレクサンドル、フレデリック、ジャンという、3人の息子が生まれる。フレデリックとジャンに教師として文学を教えていたのは、その後フランスのファーストレディとなるブリジット・マクロンだった。デルフィーヌにとっては今でも、ブリジットは良い友達だ。

一方、自身の孫たちから“マムーン”と呼ばれる、前妻のアン・ドゥヴァヴランも、離婚後パトリス・デ・メーストルと再婚する。パトリスはロレアルの創業者の娘で実業家のリリアンヌ・ベタンクールの財産管理責任者を務めていた人物だった。デルフィーヌには「人を思いやり、心地よさを愛する」点で、実母と似たところがあると、弟のアントワーヌは指摘する。「母も姉も、フランス語でいうアール・ド・ヴィーヴル(生活の美学)と、家族への驚くほどの思いやり」を備えているという。

17歳で、デルフィーヌはディオールで香水販売を体験すると、その後ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、そしてフランスのリールにあるビジネススクールで学んだ。18歳になると、自身にとって最初のルイ・ヴィトンのバッグ「ノエ」を贈られた。卒業後は数年間、コンサルティング会社のマッキンゼーで働いたが、いつか家業に戻ることは織り込み済みだった。メンターであるシドニー・トレダノの言葉を借りるなら、「彼女の血にはディオールが流れている」のだ。

デルフィーヌは2005年、イタリアの著名なワイナリーの御曹司であるアレッサンドロ・ヴァラリノ・ガンチアと結婚した。彼女が結婚式でまとった、まるでおとぎ話のようなウエディングドレスは、ジョン・ガリアーノデザインで、完成までに延べ1,300時間を要したという。ガリアーノ自身は「あれは楽しかった」と振り返る。「でも、フィッティングは大変でした。親戚一同が集まって、実のお母さんに、義理のお母さんも……」

披露宴には、政治家や実業界の有力者、俳優、ファッション業界のスターなど、数百人が顔をそろえた。当時の新聞はその様子を、ギリシャ神話の神々が集う山になぞらえて「VIPのオリュンポス山」と形容した。だが2人の結婚生活は、5年で終わりを迎えた。

ディオール2003-04年秋冬プレタポルテコレクションにて、当時ディオールのクリエイティブ・ディレクターを努めたジョン・ガリアーノと。©︎ Getty Images

2011年、ガリアーノが泥酔して反ユダヤ的な発言をしたとしてディオールを解雇されたとき、デルフィーヌはまだこのブランドを率いていたわけではない。だが、当時のことを彼女はこう振り返る。「私がいた部屋に、父のアシスタントがやってきて、『ジョン(・ガリアーノ)が警察に逮捕されました』と告げました。あれは本当にショックでした。彼が表現したこと、使った言葉は、到底容認できるものではありません」と彼女は言ったが、その言葉には怒りよりも悲しみが感じられた。「このメゾンにとってとてもつらい時期でした。でもこうしたときにこそ、人は多くを学ぶのです」

私生活とビジネスにおけるターニングポイント

その1年前、デルフィーヌは現在のパートナーであるグザヴィエ・ニールとの交際をスタートさせた。「フランス版スティーブ・ジョブズ」と呼ばれることもあるグザヴィエは、フランスの通信会社「フリー」の創業者として知られるテック界のビリオネアで、ル・モンド紙の共同オーナーでもある。人生観を共にする相手をパートナーに選んだのは、父親の影響を受けている面とも言えるだろう。グザヴィエは決して豊かな家に生まれ育ったわけではないが、才能ある若者を支援してきた実績によって、フランスではヒーロー視されているビジネスマンだ。彼が運営するビジネス・インキュベーター「ステーションF」は、世界最大規模のスタートアップ支援施設として知られており、ほかにも学費無料のエンジニア養成機関「42」を経営している。

チャールズ英国国王とカミラ王妃の訪仏に合わせて開催された晩餐会に出席した、デルフィーヌとグザヴィエ・ニール。©︎ Getty Images

19歳で学校をドロップアウトしたグザヴィエは、24歳の時に最初の成功を収めている。このとき開発したのはミニテル(インターネットの先駆けとされる、フランスで各家庭に配布されたネットワーク端末)を使ったアダルトチャットという、いかにもフランス的なサービスだった。

デルフィーヌとグザヴィエの間に生まれた娘のエリサは現在11歳、息子のジョセフは7歳。母になったことで、違った視点から物事を見られるようになり、「すべてが相対的になりました」とデルフィーヌは言う。友人のレッシュも私とのインタビューで、デルフィーヌについて「彼女が息子さんを妊娠したとき、とても幸せそうだったのを今でも覚えています」と振り返る。「数週間にわたって仕事に行けない間も、エリサを迎えに行くために、必要とあれば学校に足を運んでいました」

ガリアーノがディオールを去る数年前、デルフィーヌはもう一人のデザイナーと接触していた。「秘密裏に、何度もミーティングを開催しました」と、そのデザイナー、ニコラ・ジェスキエールは回想する。当時、ニコラはバレンシアガのクリエイティブ・ディレクターで、デルフィーヌはディオールの副社長の立場にあったが、グループ全体の人材登用に関わる、より重要な業務を兼任していた。ミーティングでは、ある役職が話題にのぼったが、ニコラはこのとき、移籍の準備ができていなかった。それからかなりの年月が経ち、ルイ・ヴィトンのウィメンズ・コレクションのアーティスティック・ディレクターをオファーされたときも、ニコラは当初、難色を示した。だが、デルフィーヌ自身もルイ・ヴィトンに移籍すると聞いて考えを変えた。「私にとってはそれが決定的な要素でした」と話すニコラにとって、デルフィーヌは人生を変えた存在なのだという。

「LVMH プライズ」の審査会にて、ニコラ・ジェスキエールとともに。2014年当時、ニコラはルイ・ヴィトンのアーティスティック・ディレクターに就任したばかり。©︎ Getty Images

ニコラは彼女が着る服を提供する中で、デルフィーヌの人柄について多くの理解を得た。10年にわたり、彼女はニコラがデザインする服を毎日まとい、着用時の感想を告げていた。彼女の意見を取り入れて、ニコラは無数のディテールを変更したという。「弱気になれば、自分を守りたいと思うものですし、強い気持ちがあれば、守るという気持ちは薄くなります」。こうした個人の実感に基づく感想をほかならぬCEOから聞かされれば、それだけで大きな違いがあると、ニコラは言う。これこそCEOが女性であることが、意味を持つ場面だ。

「彼女は彼の最高のチアリーダーで、彼もまた、彼女の最高のチアリーダー」

デルフィーヌとグザヴィエが暮らす、パリ16区の家を訪れると、まず目に入るのは円形の玄関ホールだ。1階の部屋は曲線を描く壁で囲まれ、ふんだんに花が飾られ、巨大なフレンチドアと庭につながっている。足を踏み入れるだけで、心が落ち着く空間だ。

昨年秋のある夜に訪れた際には、家のスタッフがうやうやしく私のコートを預かってくれるとともに、デルフィーヌがこの家のリビングルームから颯爽と歩み出てきた。その振る舞いは温かみがあり、堂々としていて、落ち着きを払っている。この日、彼女はずっとオフィスにいたが、今はマリア・グラツィアがデザインした、スマートな黒のスーツをまとっている。ヒールを履いた彼女は見上げるほどの長身で、ゲストの誰よりも背が高い。とはいえただ一人例外がいて、それが5歳からの親友ではつらつとしたセゴレーヌ・ガリエンヌだ。どちらもディオールをまとった2人はまるで双子のようで、ソファに寄り添って座ると、セゴレーヌはデルフィーヌのひざに手を置き、リラックスした様子で、気の置けない会話をしている。

セゴレーヌとデルフィーヌは、サントロペで同じスイミングコーチのレッスンを受けていたのが縁で出会い、今でも夏にはこの地を訪れている。セゴレーヌの父親は、ベルギー生まれのビリオネア、故アルベール・フレールで、ベルナール・アルノーとともにワイナリー「シャトー・シュヴァル・ブラン」のオーナーを務めていた。

友人たちは、アルノー家の面々とのナイトアウトのエピソードを、嬉々として振り返る。ナイトクラブでDJに興じたアレクサンドル、テキーラショットが大好きな女性たち、カール・ラガーフェルドまで顔を出した、といった話題だ。「彼女は楽しい時間を過ごすのが好きでしたね」と語るのは、友人である美術商のラリー・ガゴシアン。一方で友人のレッシュは、デルフィーヌは規律を厳格に守るタイプで、前日にどれだけ夜遅くまで起きていたとしても、翌朝の早い時間にはパーソナル・トレーナーのレッスンを受けていたと証言する。

2023年の全仏オープンを観戦するデルフィーヌとグザヴィエ。©︎ Getty Images

ゲストがディナーの前のドリンクを楽しむ間、母親と同様に長身のエリサはジーンズとグリーンのTシャツ姿で、せわしなくリビングルームに出入りしている。壁を飾るのは、シンディ・シャーマン村上隆、ヘンリー・テイラーなどのアート作品、庭にはフランク・ゲーリーやウーゴ・ロンディノーネの彫刻、そして家のそこかしこには、イヴ・サンローランの時代にディオールの仕事をしていた、ラランヌによるメタル素材の家具が置かれている。ダイニングテーブルの上には、上空から見たロサンゼルスを描いた巨大な絵画が飾られている。これはマーク・ブラッドフォードの作品で、彼はデルフィーヌのパリの家をよく訪ねているという。

「私にとってはとても居心地のいい場所なんです」と、マークは私の取材に語ってくれた。銃犯罪が多いことなどで知られるロサンゼルスのサウスセントラル地区で育ったマークは、非常に政治的で、なおかつ大きな成功を収めているアーティストだが、デルフィーヌをソウルフードのレストランに連れていく約束をしたが「彼女ならまったく問題はないでしょう!」と笑いながら話し、さらにこう続けた。「確かに有名な家庭の出身ですが、それは私には全く関係ないですし、話をする分には気になりません。家族の間に愛情があるのは、見ればわかります。見るだけで、まるで温かい毛布をかけられたように感じる人も、世の中にはいるんです」

この日の晩に集まった11人のゲストには、デルフィーヌがこれまでにコラボしてきたエヴァ・ジョスパンやジャン=ミシェル・オトニエルなどのアーティスト、家具デザイナー、そしてフォトグラファーのブリジット・ラコンブがいた。ゲストたちは美しい装飾に囲まれた、こぢんまりとした丸いダイニングルームに集まった。給仕が丁寧な手つきで、風味を加えた魚、とろけるほど柔らかいステーキ、キャラメルアイスクリームを添えた焼きリンゴ、そして小さなチョコレートを積み上げたタワーを供する。会話は流れるように進む。パリで開催中の優れた展覧会、地方の家、イヴ・サンローランの晩年、ラガーフェルドの飽くことのない読書欲など、話題は多岐にわたった。

デルフィーヌとパートナーは、うっとりとした目でお互いを見つめ、それを見たテーブルを囲むゲストからは、そんな2人をやんわりとからかう声も上がった。このカップルを評して、ブラッドフォードは「彼女は彼の最高のチアリーダーで、彼もまた、彼女の最高のチアリーダーなんです」と語る。パートナー関係においては、どちらかが注目を独り占めしてしまうこともあるが、2人の場合は違うというのが、ブラッドフォードの意見だ。「彼が話しているとき、彼女は微笑んでいますし、彼女が話すと、彼も微笑みます。心が豊かになる関係ですね。本当にそうしたものが、2人の間にあるのは見ていてわかります」

ディナーが終わり、2人は玄関ホールに立ち、ゲストを見送る。断片的に会話が続く中で、ゲストはリビングルームからホールに向かい、警備担当者がいるゲートを抜けると、パリの夜へと消えていった。

Photography: ANNIE LEIBOVITZ Fashion Editor: Tonne Goodman Hair: Braydon Nelson Makeup: Francelle Daly Produced by AL Studio Set design: Mary Howard studio Tailor: Jen Hebner at Carol Ai Studio Text: GABY WOOD Translation: Tomoko Nagasawa Adaptation: Shunsuke Okabe