菅直人 来歴

菅直人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 15:06 UTC 版)

来歴

幼少期

1946年10月10日岡山県出身の父・菅寿雄の勤務先である山口県宇部市に長男として生まれる。父・寿雄は宇部曹達(のちのセントラル硝子)に勤める技術者(後に常務[3])だった[4]。母は純子。姉が一人いる。

宇部市立神原小学校を経て1959年3月に宇部市立琴芝小学校卒業。1962年3月、宇部市立神原中学校卒業。同年4月山口県立宇部高等学校へ進学。少年時代は、勉強はできるが運動神経は鈍かった[5]幕末志士高杉晋作に憧れていた[4]。このころは父と同じ東京工業大学に進み、サラリーマン技術者になろうと考えていた[5]1963年、高校2年生の夏、父の転勤に伴い菅一家は東京都三鷹市に引っ越し、東京都立小山台高等学校2年に編入。父は再度の転勤で三重県に引っ越すが、菅は姉と東京に残る。その後、津田塾大学に入学していた従姉の伸子が菅家で下宿を始める[5]1965年3月、卒業。

学生運動から市民運動へ

同年、東京工業大学理学部に入学、一年後に応用物理学科へ進学。在学中は学生運動にのめり込んだ。東工大の同級生によれば、大学の自治会に入り込んでいた中核派に対して菅は「イデオロギーでは何もかわらない。現実的な対応をしなければ」と批判し、15人ほどの組織「全学改革推進会議」を立ち上げて極左系とは違う学生運動を行った[6]。この全学改革推進会議は先鋭化していく全共闘共産党の支配下にある民青とも異なり[7]、大学寄りの体制側グループでもない第4のグループであった[8]。この集団は200人ほどの組織になった[8]

大学紛争の影響で卒業研究ができなかったため、紛争が収まった後できちんとやりたいとの自身の意向により一年留年[9]1970年3月、東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。この年の弁理士試験には不合格。結婚については菅伸子を参照。

小田島特許事務所に就職。1971年、弁理士試験に合格。弁理士を志望したのは、同じ大学出身の技術者であった父から、会社内での技術者の不遇を聞かされており、本屋で見つけた弁理士の本で関心を持ち、有名企業に就職しても、自分の将来・先が、わかるなどの理由からだった[10]

また、「社会運動に関わりたい、そのためにはあまり拘束されない自営できる道を確保したい」というのが最大の理由だった[11]。1974年に独立して「菅特許事務所」を開設する[11]。その後弁護士となっていた大学の後輩と共に菅・高橋特許法律事務所を設立した[5]

市川房枝立候補運動

1971年、東京の地価高騰に疑問を抱き一橋大生の協力を得て土地問題のシンポジウムを開催。1972年の春に「宅地並み課税推進討論集会」を開催し、市川房枝青島幸男青木茂都留重人を招く。「よりよい住まいを求める市民の会」と「恐怖の化学物質を追放するグループ」を結成し、市民運動を展開[5]

1973年、市川や青木が代表幹事を務める「理想選挙推進市民の会」から誘われて東京都議会議員選挙を手伝い、その後菅らのグループは市民運動の成果を政治に反映させたいと考え、1971年の参議院選挙で落選し引退を宣言していた市川に1974年の参院選全国区への立候補を依頼。市川は度重なる要請にも応じなかったが、菅らは「市川房枝を勝手に推薦する会」を結成。根負けした市川が立候補を決めたことを受けてグループは「市川房枝さんを推薦する会」を結成し、菅が選挙事務長に就任した[5]。20日間余りの選挙運動で人員の手配や事務管理などを切り盛りした菅は「庶務課長」と呼ばれ、市川は2位当選した。市川が1981年に死去した際、菅は「政治家としての発言力、信頼性は恐らくナンバーワンで、なにより存在そのものに意味がありました」「私は何ものにも替えがたい貴重な薫陶を受けたと感謝しています」といった言葉を寄せている[5]

政界へ

無所属立候補

市川の支援団体「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」の支持を得て、1976年第34回衆議院議員総選挙旧東京7区から無所属で立候補するも次点で落選[12][13]

社会市民連合・社会民主連合

1977年、江田三郎の要請を受けて社会市民連合に参加した[14] が、市川房枝から反対され「参加民主主義をめざす市民の会」から退会した[15]。社会市民連合では江田とともに代表に就任。同年7月の第11回参院選東京都選挙区から出馬したが落選。

1978年田英夫らが合流した社市連は社会民主連合となり、菅は副代表に就任。1978年度版の平凡社百科年鑑に市民運動家として掲載された。

1979年10月7日に行われた第35回衆院選旧東京7区から社民連公認で立候補するも、次々点で落選した。このころは経済的に苦しく、弁理士業務の傍ら補習塾を開いていた[5]

衆参同日選挙となった1980年6月22日第36回衆院選では、前回を9万近く上回る票を獲得し1位で初当選。当時の朝日新聞社石川真澄記者は、自宅が菅の選挙区の近くだったこともあり、裏方の手伝いをし、当選後も自宅に菅が来ることがあった。些細な雑談の折に、石川記者は「甘いマスクで上手に隠しているが、頭のいい勉強家」であると感じている[16]マスコミは「政治家の秘書や二世、官僚ではなく、労組宗教団体の支援も持たない、いわば『顔のない男』が激戦区を勝ち抜いた」「市民選挙の有効性を実証」と書き立てた[5]土地問題や税制などを中心に、政府を鋭く追及する市民派の論客として知られるようになっていった。1981年には丸山ワクチンの不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。

1983年12月18日第37回衆議院議員総選挙で当選(2期目)。 1985年、社会民主連合副書記長兼政策委員長に就任。 1986年7月6日第38回衆議院議員総選挙で当選(3期目)。この総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。1990年2月18日第39回衆議院議員総選挙で当選(4期目)。

1992年6月13日PKO国会において、衆議院本会議中西啓介議院運営委員長解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を超過し、議長の発言中止命令を無視して演説を続け、衛視に壇上から押し出され、降壇させられるなどPKO協力法成立の際に激しく抵抗した。

非自民連立政権から自・社・さ政権へ

1993年7月18日第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。同年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任した。

1994年に社会民主連合が解散。その後は新党さきがけに入党。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として政策調整に当たった。当時の自民党政調会長加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれ、この時代に「住専処理スキーム」が決定。また、さきがけ東京代表として1995年統一地方選挙第17回参議院議員通常選挙で党勢拡大に尽力[注釈 1]

厚生大臣として初入閣

1996年1月第1次橋本内閣厚生大臣(第80代)として初入閣。薬害エイズ事件病原性大腸菌集団感染問題やらい予防法の廃止に対応した。

薬害エイズ事件

1995年(平成7年)秋、エイズ訴訟問題の集会で妻の伸子が川田龍平と会ったことがきっかけでこの問題に関わるようになる[17]。新党さきがけは党を挙げて取り組む方針を決め、菅は自民・社会両党にプロジェクトチーム作りを提案するが拒否される。翌1996年1月の橋本内閣発足にあたり、自民党は自社さ連立政権政策合意文として「薬害問題を教訓として再発防止に努める」を提案するが、菅は「教訓といったらもう終わってしまったことのようではないか」と反発、「責任問題を含めて真相究明に努める」と改められた。また橋本龍太郎総理大臣が行う施政方針演説に盛り込まれていた自民党案も、合意文に改めさせた[17]。前政権の大蔵大臣に代わる重要ポストとしてさきがけが厚生大臣に送り込んだ菅は、住専問題処理の難航で第136回国会後の衆議院解散もあり得ると考え、3カ月でできることとしてエイズ訴訟の和解と公的介護保険導入の2つに絞った[17]

1996年(平成8年)1月23日、菅は11人の専従スタッフによる薬害拡大の原因解明調査班を設置。26日、それまで厚生省が見つからないと繰り返し主張していた薬害エイズに関する資料だったのだが、1983年(昭和58年)当時のエイズ研究班によるメモが、3階にある薬務局審査課の書庫で発見され通称「郡司ファイル」[注釈 2]と命名されファイルの内容は非加熱製剤の危険性を十分認識しているものとした。2月9日に報告を受けた菅は同日夜の緊急記者会見で発表。発見から2週間かかったことについて「厚生省は建物が大きいので、担当者から大臣のところまでたどり着くのに2週間かかったようだ」とコメントした[17]。この会見により厚生省と安部英医師を薬害エイズを作り出した元凶として一方的に断罪するマスコミ報道が繰り返し続けられた。この発見について飯島勲は、内部資料の捜索は前任の森井忠良が始めたものであり、菅は森井と官僚たちの手柄を横取りしたと主張している[18]。一方菅は「資料がわずか3日で見つかるのはおかしい」との質問に「調査班を設置して本格的に調査を始めた。そして見つかった」と答えている[17]

また、テリー伊藤と対談した当時の大蔵省官僚(匿名)は当時の菅の指示について、「あいつ(菅)は本当に頭がいいなあとわれわれが驚いたのは、それを小さい単位にしたことですよ。小さく分けた。しかも縦に分けた。(中略)どういう分け方かというと、単に班をつくったわけじゃなくて、この部屋のこのロッカーはこの3人、このロッカーはあんただけ、というふうに細かく縦に分けたんです。それを全部自分で割り振った。それを表にして突きつけた。文句いいようがなかった。ロッカーが自分だけの責任になったら、それは探しますよ。(後略)」と述べている[19]

2月16日、菅は厚生省で原告や弁護団を前に「菅も官僚も謝る」「謝ってすむ問題ではありませんが、本当に心から、心からお詫びいたします」と謝罪し、頭を下げた。またある女性が持ってきた、息子の骨壷に跪いて手を合わせ、この光景にすすり泣きの声とともに拍手がわいた。菅が厚生大臣として厚生省の責任を認めたことで、真相究明を求める世論が高まった[17]

この事件の菅の処理について、彼の対談の際、カレル・ヴァン・ウォルフレンらは、日本に初めて官僚説明責任という概念を持ち込み、『アカウンタビリティ』という言葉を定着させたと述べている[20]。2月21日に厚生省が公開した薬務局生物製剤課の資料では、1983年(昭和58年)7月4日に、危険な非加熱製剤の取り扱い中止と安全な加熱製剤の輸入を奨励しているのに対し、7月11日の資料は正反対の内容となっていた。この方針転換について、荒賀泰太薬務局長は課の方針ではないとしたが、菅は衆議院厚生委員会で「転換理由を判断できる資料はなく不可解」と答弁した[17]

O157とカイワレ問題

1996年8月のO157騒動の時には「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への風評被害が発生し、結果倒産破産するカイワレ農家や業者(その大半が自営業者零細企業であった)が続出、自殺者まで出る事態となった。しかし、その後の立入検査においては施設、従業員および周辺環境からはO157は検出されなかった[21][22][23][24] ため、菅は記者会見で自らカイワレサラダを食べることで安全性をアピールし、沈静化を図った。一方で「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。

その後、東京と大阪で風評被害を受けたカイワレ大根生産業者らが起こした国家賠償を求める民事裁判では、2002年には大阪地裁判決文で「当時のO-157感染症の発生状況に照らし、これから更なる調査を重ねなければならない状況下において、かかる過渡的な情報で、かつ、それが公表されることによって対象者の利益を著しく害するおそれのある情報を、それによって被害を受けるおそれのある者に対する十分な手続的保障もないまま、厚生大臣が記者会見まで行って積極的に公表する緊急性、必要性は全く認められなかったといわざるを得ない」として、「中間報告の公表は、相当性を欠くものと認定せざるを得ない」と厚生大臣だった菅および厚生労働省公表方法の過失と風評被害を認定した[25]。この大阪地裁での判決について、菅は、ホームページ上で「十分な科学的根拠がない」と判決が認定した疫学調査は、集団食中毒などでは極めて有効な調査方法であるとして「裁判官の判断は疑問」と反論した[26]。しかし2004年にも大阪高裁の判決では、厚生省の公表によって「被控訴人が被る打撃や不利益に思いを至せば、その時点では、公表すべき緊急性、必要性があったものということはできない」「公表方法の選択が政策的判断であるという見地に立つとしても、その判断には逸脱があり違法である」と当時の菅大臣および厚生省の過失を認定し、国側が敗訴した[25][注釈 3]

ほか、1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島(てしま)へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入った[27]

  • 菅の厚生大臣在任中に基礎年金番号制度の導入が閣議決定された(導入されたのは小泉純一郎が厚生大臣だった1997年1月)。そのため、2007年に自民党から年金記録問題(「消えた年金記録」問題)についての責任を問う主張があった[28]。これに対して、菅は問題の原因は基礎年金番号の導入ではなく年金記録の名寄せ作業がしっかりできていなかったためであるとして「言いがかり以外の何ものでもない」と反論した[29]

民主党結党・初代民主党代表

1996年9月28日新党さきがけ鳩山由紀夫旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加。菅は鳩山と共に共同代表となり旧民主党が結党された。結党当初は衆議院議員が50人、参議院議員が5人の計55人が参加した。同年10月20日、初の小選挙区比例代表並立制での選挙となる第41回衆議院議員総選挙において、東京18区から立候補し当選。(6期目)

1998年4月27日新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流し新民主党を結成し、党代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。

1998年7月12日の第18回参院選橋本内閣の経済失政を鋭く批判し[30]、27議席を獲得する。参議院は自民党が過半数割れとなり、当時総理大臣だった橋本龍太郎は敗北の責任を取り、総辞職した。内閣総理大臣指名選挙では、自由党日本共産党は第一回投票から菅に投票し決選投票では公明改革クラブ社民党・さきがけの支持もあり参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。

1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙で、1月の代表選では再選するが松沢成文と拮抗し、9月の代表選では鳩山由紀夫に敗北した。この直後、党政策調査会長に就任した。

2度目の代表就任

2000年(平成12年)に党幹事長に就任。同年6月25日第42回衆議院議員総選挙で当選(7期目)。2002年(平成14年)12月に鳩山由紀夫が代表を辞任すると、岡田克也幹事長代理を代表選で破り、再び党代表に就任。次の内閣の総理大臣にもあわせて就任した(社民連時代は社会党シャドーキャビネットに入閣しなかった)。政治家の年金未納問題により辞任に追い込まれる2004年5月10日まで務めた。

民由合併・マニフェストの導入

2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した(民由合併)。

同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェスト(政策綱領)に掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例代表では自民党を上回った。菅代表は衆院選を迎えるに当たり、時の小泉首相に対し、自民党はマニフェストを国民の前に提示するかどうかを迫り、期限や事後チェック付きの政権公約としてのマニフェストと従来の公約との違いを自民党にも明確化するよう迫った[31]。実際に2003年衆院選が行われることになると、小泉自民党を含む主要政党のほとんどがマニフェストを掲げて選挙戦を戦うこととなり、結果として菅および民主党が日本におけるマニフェスト選挙の定着に大きな役割を果たすこととなる。菅個人は、この2003年衆院選において初めて小選挙区のみで出馬し、比例上位優遇で国替えしてきた鳩山邦夫を破った。

年金未納の発覚と党代表辞任

小泉内閣閣僚3人の国民年金未納が相次いで発覚した際、菅は街頭演説で「ふざけてますよね。“未納三兄弟”っていうんですよ」と自民党議員を批判し、年金未納問題に火を付けた(“未納三兄弟”は、1999年に発売された歌『だんご3兄弟』にちなむ)。年金未納閣僚はその後も続々と発覚した。これをチャンスと捉えて民主党次の内閣全員の国民年金納付書を公開して国民にアピールしようとしたところ、菅自身の厚生大臣時代の年金未払い記録が明らかとなった[32]。菅は行政側のミスであると何度も主張したが、行政側がその都度強く否定し、マスコミ報道などによる世論により、2004年5月10日に党代表を辞任。しかし、辞任後、社会保険庁側から間違いを認めて国民年金脱退手続きを取り消したこと、同期間に国民年金の加入者であったことを証明する書面が送付された[33]。菅が主張したとおり国民年金の資格喪失は「行政上のミス」によるものであるにも拘らず、事後納付もできないため、未納は解消されず(未納期間2ヶ月)。政治評論家岩見隆夫からは「菅氏の国民年金未加入問題は、本人の申し立て通り『行政上のミス』であった。当時、菅は辞めたほうがいいと書いたことは誤り、お詫びします」としつつ「自身の無年金のおかしさに気付き、対応しなかったのは、政治家としてうかつであった」といった指摘もなされた[34]

民主党代表辞任後

2004年7月、菅は自己を見つめ直したいという意図から「お遍路さん」スタイルで四国八十八カ所巡りを開始した。これは都合7回に分け、2013年9月に結願した[35]

2005年4月法政大学大学院客員教授に就任、「国民主権論」と題して講義を行う(2005年10月まで)[36]

2005年(平成17年)9月11日第44回衆院選小泉首相解散による郵政選挙)では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認で立候補し、事実上の一騎討ちとなった。郵政民営化・刺客選挙を展開して時流に乗る自民党に対し、民主党は党全体が大逆風を受けていたが、菅は勝利し(9期目)東京の小選挙区では唯一の当選者となる(土屋は比例復活)。

同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補し、小沢一郎からも本命視されていたものの、投票直前の演説で若き日からの辛酸と情熱を巧みに訴えた若手の代表格前原誠司に2票差で敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されたが、これを固辞し、一兵卒として前原民主党を支えると表明した。党代表戦に敗れた後は、団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動や、バイオマスの活用を盛んに提唱し始めた。

トロイカ体制時代

2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣。その後行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争い47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任。代表に就任した小沢一郎、幹事長鳩山由紀夫と菅の3人による挙党一致体制はトロイカ体制と呼ばれ、2009年に起きた政権交代の原動力となった[37]。菅は党代表代行として国会論戦について主に担当し、国会での代表質問、テレビ出演などを積極的にこなした。

2007年東京都知事選挙
2007年撮影
2007年4月東京都知事選挙への出馬待望論が民主党内で沸き起こった。背景には民主党が都議会与党だったにも拘らず独自候補の擁立を図る小沢執行部の方針と人選がなかなか決まらぬお家事情があり、党中央の要職にある菅本人が出馬の可能性を否定し続ける中、石原慎太郎東京都知事に対抗できる目玉候補として朝日新聞などにも立候補を促された。しかし「国政に携わり政権交代を実現する」ため「太陽が西から出ても、出ることはない」と固辞を貫いた。その一方で浅野史郎宮城県知事など党内外の知名度の高い人物に出馬を打診したとされるがことごとく失敗した。この問題では、菅直人と親交関係にある五十嵐敬喜法政大学教授や当時・菅グループのメンバーで民主党都連会長円より子らが立ち上げた市民団体「浅野史郎さんのハートに火をつける会」(現都民のハートに火をつける会)などの説得に応える形で浅野が立候補を決意したことで、民主党は独自候補の擁立を見送って社民党などとともに支援に回ることとなったが、浅野があまり都政に精通していなかったことやなかなか決断せず立候補の表明が遅れたこと、さらに日本共産党が擁立した吉田万三足立区長との一本化に失敗したことなどが響き、浅野は石原知事に惨敗した。
ガソリン国会
2008年2月、民主党道路特定財源暫定税率問題対策本部長として、小沢代表のもとでガソリン国会の陣頭指揮を取り、国会論戦、テレビ出演、地方視察を行った。この中で自民党の二階俊博古賀誠などを、道路族幹部として激しく批判した。
YKKK
このころ、自民党の山崎拓加藤紘一国民新党亀井静香としばしば意見交換を交わすなど連携を深め4人の頭文字から「YKKK」と称された。山崎は2008年12月14日に4人そろって出演したテレビ朝日系の番組サンデープロジェクトで「この4人が政界再編の一つの軸となり得る」と語った[38]

2009年5月に小沢一郎が西松建設事件に関連して自身の公設秘書逮捕された件で党代表を辞任すると、後任の代表となった鳩山由紀夫により、菅は引き続き党代表代行に再任。小沢も代表代行に就任しトロイカ体制は継続された。

鳩山由紀夫内閣

2009年9月16日副総理就任に際して会見

2009年8月30日第45回衆議院議員総選挙で当選(10期目)。2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣発足により、副総理として入閣。あわせて内閣府特命担当大臣経済財政政策科学技術政策)および「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」(いわゆる国家戦略担当大臣)に就任した。しかし、その後国家戦略相として予算編成の「司令塔」を期待されながら、その役割を果たせていないと鳩山首相から評された[39]。政府の新成長戦略策定の主導を果たしたが、予算編成には間に合わずに出遅れ感を際立たせることにもなった[40]

2010年1月7日財務大臣藤井裕久の辞任に伴い、副総理、経済財政政策担当相と兼務する形で、後任の財務大臣に横滑りで就任した。国家戦略担当大臣および科学技術政策担当大臣は退任し、国家戦略担当相は行政刷新担当相の仙谷由人が、科学技術政策担当相は文部科学大臣川端達夫がそれぞれ兼務し引き継いだ。財務大臣就任以後も、脱官僚をアピールするために、財務省の大臣室ではなく引き続き官邸内の副総理室にとどまり、財務官僚が官邸に通う形にした。

一方で、国会質疑の場で乗数効果、消費性向などについての質問を受けると答に窮し、質疑を止めて官僚を呼ぶ[41] など財政政策に対する理解の浅さを指摘された場面もあった。

2010年3月19日、民主党東京都連会長辞任(民主党東京都連通常総会開催まで海江田万里衆議院議員が民主党東京都連会長職務代行に就任)。

鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置する[42] などポスト鳩山の有力候補の一人と目された。

内閣総理大臣就任

2010年6月25日第36回主要8か国首脳会議にてドミートリー・メドヴェージェフ
2010年6月27日、日米首脳会談後の記者会見にてアメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(右)と
2010年11月14日チリ共和国大統領セバスティアン・ピニェラ(左)と
2011年4月17日アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(左)と
2011年8月23日アメリカ合衆国副大統領ジョー・バイデン(左)と

2010年(平成22年)6月2日の鳩山総理の退陣表明を受け、民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日民主党代表選挙に勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日天皇によって任命された。6月8日首相官邸での記者会見の際には、「政治の役割は国民・世界の人が不幸になる要素をいかに少なくする『最小不幸社会』を作る事だ」と述べた[43]

小沢グループとの党内対立

鳩山の後任を決める2010年6月の民主党代表選挙において菅が出馬表明すると小沢一郎の党運営に不満を持っていた枝野幸男仙谷由人らが菅支持に回った。小沢グループは菅の対抗馬として樽床伸二を擁立した。菅は樽床に勝利し、反小沢の急先鋒ともいわれた枝野、仙谷をそれぞれ党幹事長官房長官に起用、小沢の意向により廃止された政策調査会を復活させた。また小沢、鳩山代表時代に作成されたマニフェストの一部修正にも取りかかった。こうして政権交代の原動力とも言われたトロイカ体制は崩壊し、メディアから"脱小沢"と称される路線に傾いていくこととなる。こうした動きを世論はおおむね評価し、内閣発足直後の内閣支持率は約60%という高水準だった。

しかし、就任してまもなく自由民主党の案を参考にして消費税増税(およびそれを財源にした法人税減税)を含む税制改革を打ち出したため、中小企業自営業者を切り捨てるものであるとの批判を浴び、発言が二転三転した[44]。この影響もあってか、7月11日投開票の第22回参議院議員通常選挙で、民主党の獲得議席は現有の54議席を大きく下回る44議席にとどまった。この結果、参議院で過半数を失うねじれ状態にとなり、菅の党内における求心力は低下した。9月の党代表選に向け、菅は再選に意欲をみせるが、小沢に近い議員グループを中心に党執行部の参院選敗退の責任を問う声が強まり、小沢擁立の動きも加速した。

こうした中、党の分裂を懸念した前首相の鳩山由紀夫が仲介に乗り出す。鳩山は菅に小沢の出馬見送りと引き換えに枝野幹事長、仙谷官房長官の更迭や小沢の要職での起用、トロイカ体制に輿石参院会長を加えた「トロイカ+1」体制の構築などを菅に要請し[45]、告示直前まで調整が行われたが、菅は密室談合を懸念し両者折り合わず、最後に菅-小沢会談が行われたが、結局物別れに終わった[37]。鳩山はこれまでの菅続投支持から一転、小沢支持を表明。これを受け小沢は告示日である9月1日に出馬表明し、代表選での菅との直接対決に突入した。この代表選において菅は金銭問題が取りざたされる小沢を意識し、クリーンでオープンな党運営や雇用政策の重視を主張し、一方の小沢は衆議院総選挙での2009マニフェストの順守、地方への紐付き補助金の一括廃止、早期の消費税率アップの反対など主張した[46]

小沢の出馬表明当初は党内最大グループを率い、鳩山グループの支持を取り付けた小沢が国会議員票では優勢との見方もあった[47] が、菅は世論調査で小沢を上回る支持を得たことを背景に攻勢を強め[48]、9月14日に国会議員による投開票が行われた結果、小沢を下し再選を果たした[49]

9月17日菅改造内閣発足。内閣改造人事では、仙谷官房長官は留任、枝野の後任の幹事長に外相の岡田克也、岡田の後任の外相に前原誠司を充てるなど非小沢系が要職に起用され、「脱小沢」を強化 した[50] が、副大臣・政務官人事では小沢グループからも多数起用し、党内融和に一定の配慮を示したとも見られている[51]

この代表選で再選したことにより内閣支持率は回復するが、代表選期間中に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応が迷走したことなどにより支持率は再び低下に転じた。前原誠司元外相によれば、民主党政権は処分保留による船長釈放を「検察独自の判断」と強調し、政治的判断による釈放を否定してきたが、実際は当時首相だった菅直人が、アジア太平洋経済協力会議首脳会議があるとして「胡錦濤が来なくなる」「オレがAPECの議長だ。言う通りにしろ」と迫り、逮捕した中国人船長の釈放を指示したという[52]

また衆院北海道第5区補選(2010年日本の補欠選挙)や、大型地方選(福岡市長選挙和歌山県知事選挙茨城県議会議員選挙)で連敗。統一地方選を翌年春に控えた民主党内の不満が高まっていった。こうした中、2011年1月14日、菅は内閣改造を行い、菅第2次改造内閣が発足。しかし、政権の低迷は続き、3月6日、前原誠司が外国籍の人物から違法献金を受けていた件で外務大臣を辞職した直後の2011年3月11日、菅自身にも外国人献金問題(後述)が持ち上がった。

諫早湾干拓事業問題

2010年12月15日には諫早湾干拓事業に関する緊急に記者会見して堤防の5年間の開門を命じた福岡高裁の判決について、自身の知見を理由に上告しないことを表明し、政府に開門を求める判決を確定させた[53][54]

東日本大震災・福島第一原子力発電所事故

2011年3月11日17時、東北地方太平洋沖地震発生を受けて記者会見する
2011年3月12日、被災地を上空から視察

2011年(平成23年)3月11日14時46分に東北地方太平洋沖地震が発生。東日本大震災およびそれに付随する形で福島第一原子力発電所事故が発生すると、地震・原子力災害の対策に政府野党が集中し、菅内閣への退陣運動は一時的に中断し、菅は内閣総理大臣として災害対策に当たった。震災翌日の3月12日に自ら自衛隊のヘリで津波により破壊された被災地を上空から視察した。

菅は震災発生の翌3月12日に自衛隊の派遣規模を2万人から5万人に拡大するよう指示し、3月13日には、首都直下地震への対処計画をもとに、自衛隊史上最大となる陸海空合わせて10万人規模の災害派遣を指示した。5日後の18日には10万人を超える態勢となり、最大時で約10万7千人規模の派遣となった[55][56]

菅おろし

2011年5月27日第37回主要国首脳会議にて

菅は震災の発生を機に国会のねじれを解消し、復興対策を円滑に進めるため、自民党に対し大連立を打診したが、不発に終わった[57]。さらに2011年4月の統一地方選で与党が敗北するなど、与党・民主党内でも菅政権に対する不満が募り、小沢一郎を中心とする民主党一部勢力が「菅おろし」への動きを活発化させるようになる[58]

2011年6月2日、菅の地震・原発災害への対応が不十分であるとして、野党の自民・公明両党により内閣不信任決議案衆議院本会議に提出・上程。小沢に近い議員を中心に野党の不信任案に同調する動きが強まり、前首相鳩山由紀夫も同調する構えを見せ、一気に不信任決議の可決や党の分裂が懸念される事態となった。

同日、菅は不信任決議投票の本会議を前に鳩山と会談し、自らの退陣に言及して不信任決議案に反対させる合意を取り付け、その後の民主党代議士会で「震災対応にメドをつけたら若い人に責任を引き継いでもらいたい」と語った。この発言は辞任を示唆した[59]報道された。これを受けて小沢グループは不信任案に同調する方針を撤回し、当日の衆議院本会議で内閣不信任決議案は否決された。実際、民主党内で不信任案に同調したのは、松木謙公横粂勝仁にとどまった[60]

退陣へ

これ以降、官房副長官仙谷由人など閣内の一部からも早期退陣論が出るようになり[61]、菅が退陣した上での大連立を模索する動きもあった[62]。菅自身は、自然エネルギー庁構想を掲げ[63]、再生エネルギー法案を通そうと模索し、続投することに意欲をみせた[64]

2011年6月15日の「再生可能エネルギー促進法案成立緊急集会」では「国会には、菅の顔をもう見たくないと言う人が結構たくさんいる。それなら、この法案を早く通した方がいい。その作戦でいきます」[65]「再生エネルギー法案が成立するまで辞任しない」と発言し、同法案を支持するソフトバンク社長孫正義から称賛された[64]

菅のこうした動きに退陣を促した鳩山由紀夫前総理は「ペテン師」と非難し[66]、日刊スポーツからは菅おろしの中「一人菅軍」と称された[64]

同年6月27日、菅は首相官邸で記者会見し、自らの退陣条件として、「今年度第2次補正予算案の成立、再生可能エネルギー特別措置法案[67] の成立、特例公債法案の成立が一つのめどになる」と明言した。ただし具体的な辞任時期は示さなかった[68]

同年7月6日、菅は「辞める、退陣するという言葉を私自身、使ったことはない」と述べた[69]。このころの世論調査では政権発足後最低の支持率を記録した[70][71]

同年8月26日、菅は退陣の条件としていた3法案の成立を受け、「本日をもって民主党代表を辞任し、新代表が選出された後に総理大臣の職を辞する」と辞任を正式に表明した[72]。「厳しい環境のもとでやるべきことはやった。一定の達成感を感じている。国民の皆さんのおかげ。私の在任期間中の活動を歴史がどう評価するかは、後世の人々の判断に委ねたい」と述べた。福島第一原子力発電所事故について「総理としての力不足、準備不足を痛感した」と振り返った[73]

しかし、2001年から2010年にかけて、民主党北海道総支部連合会が朝鮮総連傘下の「金剛山歌劇団」に「歓迎 金剛山歌劇団」広告を毎年50万円を税金が原資の政党交付金が使われていたのが産経新聞の調査で発覚した。さらに6250万円を北朝鮮関係団体に献金していた菅直人総理大臣は2011年6月15日に約2年間休眠していた「日朝国交正常化推進議員連盟」の会合を再開させたが副会長の一人は菅側近で竹島の領有権放棄を日本に求める「日韓共同宣言」なるものに署名した土肥隆一衆院議員であった。同年7月21日には中井洽元拉致問題担当相が極秘に中国の長春で北朝鮮の宋日昊朝日国交正常化担当大使と日朝国交のために会談した。菅は同年8月29日、2010年11月に起こった延坪島砲撃事件を受けて凍結していた朝鮮学校に対する高校授業料無償化適用審査手続きの再開を高木義明文部科学大臣文部科学省に置き土産として指示した[74][75]

同年8月29日に行われた民主党代表選では、菅の下で財務大臣を務めた野田佳彦が選出された。その日のブログで「再生可能エネルギー促進はライフワーク」とし、植物のエネルギー利用を図るため「『植物党』を作りたい」と記している[76]

内閣総辞職に際して花束を贈呈される菅

8月30日に開かれた閣議で菅は内閣総辞職を決定。9月2日野田内閣発足に伴い、正式に内閣総理大臣を退任した。

内閣総理大臣退任後

2016年9月、中華民国総統府にて

総理大臣退任後の2011年9月、首相経験者として鳩山由紀夫とともに民主党最高顧問に就任[77]。11月には、自身の支持グループである国のかたち研究会の会長に復帰した[78]

2012年3月には私的な勉強会である「自然エネルギー研究会」[79]、民主党の議員連盟である「脱原発・ロードマップを考える会」[80] を相次いで立ち上げ、2012年6月には「脱原発ロードマップを考える会」において2025年度までに原子力発電所の稼働をゼロにし、それまでの間は新しい原子力規制組織の審査を前提に、原発の再稼働を認めるとの提言をまとめた[81]。また、この年に国連ミレニアム開発目標 (MDGs) 後の国際開発目標であるポスト2015年開発目標に関するハイレベルパネルのパネルメンバーとして参加している[82]

2012年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では、民主党への大逆風が吹くばかりか、乗車していた選挙カーが事故を起こし、自身が負傷するなど辛酸を舐めた。なお、この際の交通事故の賠償金は政治活動費から支出された[83]小選挙区自民党土屋正忠に敗れたものの、民主党が獲得した比例東京ブロック3議席の最後の1議席に辛くも滑り込み、復活当選した(11期目)[84]。なおこの時、菅内閣不信任案に賛成し、民主党を離党した無所属横粂勝仁が、菅直人に対抗するため神奈川11区から鞍替えしたが、落選した。

2013年2月、実母が住んでいた三鷹市下連雀に転居。築後半世紀近くが経っていた家を取り壊し新築した[85]。同年7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙で民主党は公示2日前に東京都選挙区での候補者を鈴木寛に一本化することになったが、これに対して菅は公認を外されて無所属で出馬することになった大河原雅子の応援を行ったため、党東京都連は「反党行為に当たる」として処分を党執行部に求め、党役員会は処分を検討することとなった[86]。 当初、海江田万里代表細野豪志幹事長は除名を主眼に置いた厳しい処分で臨む方針であり、海江田代表は菅に自主的な離党を迫った[87] が、菅は「どんな処分も受け入れる」としながらも離党を勧告された途端、「受け入れられない」と拒否。その上、党内からは「厳し過ぎる」との批判が高まり、処分内容が軽減されることとなった[88]。2013年8月20日、菅への処分は党員資格停止(3ヵ月)に決定し、同時に党最高顧問を解任された[89]

2014年4月には、トルコアラブ首長国連邦への原発輸出を可能とする原子力協定承認案の衆院本会議での採決を巡って民主党執行部の協定賛成の方針に反し、辻元清美ら党内の脱原発派の議員8人とともに欠席、棄権した。民主党はこの行動により大畠章宏幹事長名で菅を「注意」とする処分を決定した[90]

菅の脱原発を巡るこれら一連の行動に、民主党の支援団体の一つで原子力推進の立場をとる電力総連などは激しく反発しているとされる[91]

2014年12月14日に行われた第47回衆議院議員総選挙では、再び自民党の土屋正忠に小選挙区で敗れたものの、前回と同様に比例東京ブロックで最後の1議席を獲得し、復活当選した(12期目)[92][93][94][95]

民進党成立後

2016年3月、民主党は維新の党などと合流し、党名を民進党に改称、菅は民進党の所属となった。同年9月に行われた民進党代表選挙では「若手候補を支えたい」と語り、20人の推薦人確保に苦慮していた若手候補の玉木雄一郎の推薦人に名を連ね支援した[96]。この代表選の結果、選出された蓮舫を代表とする体制の下で党最高顧問に復帰する。

2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明[97][98]。蓮舫の辞任に伴う代表選挙(9月1日投開票)には前原誠司枝野幸男が名乗りを上げ、保守リベラルの対決とも評された[99]。菅は党内リベラル派が支援する枝野の推薦人に名を連ね[100][101]、支援したが、選挙の結果、前原が当選した。

立憲民主党成立後

武蔵小金井駅前にて街頭演説をする菅

2017年9月28日、衆議院解散。同日午後、前原は民進党両院議員総会において、希望の党に公認申請を依頼し、事実上同党と合流することを提案。前原の提案は全会一致で採択された[102]。しかし9月29日、希望の党代表の小池百合子は民進党全体との合流を否定し[103]安全保障関連法の容認と憲法改正などを条件に掲げ民進党内の左派、リベラル系議員を排除する(「排除の論理」)と断言[104][105]、菅らも希望の党との合流を拒否されるとの見方が強まった[106]。かつて、旧民主党結成時に「排除の論理」で旧社会党系議員を排除した菅が今度は自らが排除される側となり、報道では「皮肉な歴史の巡り合わせ」と報じられた[107]

同年9月30日未明、共同通信が「枝野幸男が無所属で出馬する方向で検討に入った。考え方の近い前議員らとの新党結成も視野に入れている」と報道[108]。同日中に民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回る[109][110]。同日夜、枝野、長妻昭福山哲郎辻元清美近藤昭一らは都内のホテルの一室に新党設立を前提として集まり、協議した[111][112]

10月2日夕方、枝野は記者会見し、新党「立憲民主党」を立ち上げると表明した[113][114][115]。菅は枝野の呼びかけに応える形で同党への参加を表明し[116]、同日、民進党を離党した。10月3日、長妻は東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に新党設立を届け出て、受理された[117]。設立届には枝野、長妻、菅、赤松広隆阿部知子初鹿明博ら6人が名を連ねた[117][118]

立憲民主党が設立された10月3日、希望の党は衆院選の第1次公認192人を発表。同党が東京18区にテレビ東京記者の鴇田敦を擁立したことが明らかとなった[119][120]。10月4日、日本共産党東京都委員会は立憲民主党や社民党と共闘するため、東京1、5、6、7、18、21区について新人候補の擁立を取りやめると発表した[121]

同年10月22日の第48回衆議院議員総選挙に立憲民主党公認で立候補[122]。自民党の土屋正忠、希望の党の鴇田らを破り13選[123][124]。7年ぶりに小選挙区で議席を奪還した[125][126]

2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙では、かつて自身の内閣で防衛大臣政務官を務めた長島昭久が自民党の刺客候補として送り込まれるも、接戦の末に破り、14期目の当選を果たした(長島は比例復活で当選)[127][128][注釈 4]枝野幸男代表の辞任に伴う代表選挙(11月30日実施)では、国のかたち研究会(菅グループ)が中心となって西村智奈美を擁立し、推薦人となった[129][130]

2022年4月23日、西村智奈美幹事長は、同年夏の第26回参議院議員通常選挙大阪府選挙区(改選数4)で立憲民主党候補を支援する特命担当に菅を任命したと明らかにした。大阪を本拠地とする日本維新の会への対決姿勢を打ち出す菅の希望だったといい、地元組織に所属しない議員が選対組織に関与するのは異例[131][132]。しかし立憲の候補者は当選圏内の半分の票にも届かず惨敗に終わった[133]

2023年4月には、鳩山由紀夫と共に衆議院山口2区補欠選挙において平岡秀夫の応援に駆け付けたが[134]、平岡は自民の岸信千世に約5800票差で敗れ落選している。

2023年10月20日、東京新聞が「菅直人元首相、次期衆院選東京18区に出馬しない意向固める」と報道をした[135][136]。10月21日には、読売新聞[137]NHK[138]はじめ他のメディアも一斉に報じた[139]。11月5日、記者会見を開き、次期衆議院議員総選挙に立候補せず、政界を引退することを正式に表明した[140]。自身の後継として武蔵野市長松下玲子を指名した[141]








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