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日本初の「幕末のビール」を味わう
このように、いまやビールは百花
幸民麦酒について日本化学会春季年会(3月)で特別講演した小西酒造の辻巌取締役生産本部長によれば、商品名の「幸民」は、1853年頃、日本で初めてビールを作った人物の名前からつけたという。江戸後期~明治初期の蘭学者・川本幸民(1810~1871年)だ。川本は「化学」という言葉を日本で最初に使った人物として知られるが、英語が堪能で1853年にペリーが浦賀に来航した際には幕府側の通訳として黒船に乗り込んだその人でもある。川本は艦上でビールを振る舞われ、関心を持ち、ビールの自家製造に挑んだ、と川本家に言い伝えられている。また、1846年に出版され、当時欧州で広く読まれていたドイツの農芸化学書「化学の学校」には、ビール製造について詳しく書かれてあるのだが、川本はこの「化学の学校」を和訳した「化学新書」という本を1860年に出版している。川本家での言い伝えなどから考えると、ペリー来航から間もなく、「化学の学校」に記載された方法に従って、日本で初めてのビールを東京・茅場町の自宅で作ったとみられる。
この歴史的なビールの復刻は、2010年、川本の生地である兵庫県
〈1〉細かく砕いた麦芽1に対し、冷水3と沸騰水4を混ぜ、1~2時間温かい所に置いて65~70度に保てば、その液はデキストリン(でんぷん分解物)と糖を含んで甘みが出る。さらに麦芽からたんぱく質が出て溶け込んでいる。この液体をモスト(モルト)と呼ぶ。
〈2〉布で
〈3〉冷却して30度に保ち、ギスト(酵母)を茶さじ1杯加えるとただちに発酵し、1~2日後に再び清澄する。これがビールである。
〈4〉この方法でできたのがいわゆる白ビールで、苦くない。そこで、この液を煮沸する際にホップを少々加えれば、ルプリン(ホップ雌花の黄粉)が溶解して、苦みが加わり、おいしくなるだけでなく、時間がたっても腐敗しない。
辻さんによれば、「化学新書」には酵母についての詳しい記載はないが、当時、ビール酵母の入手は困難だったことから、代わりうるものとして清酒酵母を利用したいと考え、復刻にあたっては、清酒酵母を使ったという。
幸民麦酒を飲んでみる。日本のビールの「原点」といっても、黒船の時代である。飲む前は味について正直、大きな期待はしていなかったのだが、ゴクッと飲み干してみて、予想は完全に覆された。泡はキメ細かく、例えて言えばギネスビール(アイルランド)のような印象。苦みは抑えめですっきりしたのどごしだ。なかなかいけるではないか。辻さんは、講演で「化学新書にある麦芽1、水3、湯4の割合で混ぜるとアルコール分は4.5%になり、今の作り方に近い。よくできているレシピだと感じた」と語っていた。納得である。
川本幸民が日本初のビールを作ってから約15年。1869年(明治2年)に在留外国人によって国内初のビール醸造所「ジャパン・ブルワリー」が横浜に開業する。翌1870年(明治3年)、同じように横浜に開設された「スプリングバレー・ブルワリー」は現在のキリンビールの前身だ。1876年(明治9年)に札幌にできた「開拓使麦酒醸造所」が今のサッポロビール、1889年(明治22年)、大阪で創業した「大阪麦酒会社」は後のアサヒビールにつながる。この間、1886年(明治19年)には国産ビールの製造量が輸入量を上回り、日本国民にビールが広く浸透していく。1900年(明治33年)頃には100社ほどのビール会社が日本にあった。その後、酒税の導入により小規模な醸造所が次第に
サントリーは昭和初期の1930年代に一度、ビール市場に参入したが、業績不振により数年で撤退。長らく大手3社による市場独占が続いた。しかし、1963年(昭和38年)にビール分野に再進出し、現在の大手4社時代を築く。
1987年(昭和62年)に「アサヒスーパードライ」が発売され、いわゆる辛口でキレのあるビールが人気を博す。「ドライ戦争」と呼ばれ、ビール市場の奪い合いの状況が生まれた一方で、消費者はビールの味わいに多様性を求める志向も生まれてきた。例えば、スーパードライとほぼ同時期に出た麦芽100%ビール「モルツ」(サントリー)のほか、「エビス」(サッポロ)のように通常のビールより値の張るプレミアムビールも一定の存在感を示している。メーカー各社の味の改良は続き、味へのこだわりが日本人にも生まれてくるようになった。