升田幸三賞・伊藤匠七段の「持将棋定跡」は短手数で相入玉の斬新さ…後手番で力戦志向、藤井聡太竜王や豊島将之九段の変化呼ぶ[指す将が行く]

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 将棋で「相入玉」の戦いと言われたら、通常の手数の2倍である200手超の泥仕合が浮かぶが、そこに新しい風を吹き込んだのが棋界きっての序盤巧者である伊藤匠七段だ。角換わり相腰掛け銀の後手番で、実にスマートに上部を開拓する。100手ちょっとで相入玉を果たし、持将棋として引き分けに。そこで先手番を得る斬新さ。升田幸三賞に選ばれた伊藤七段の「持将棋定跡」を本人の見解をもとに掘り下げる。(デジタル編集部・吉田祐也)

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升田幸三賞を受賞した伊藤七段=吉田祐也撮影
升田幸三賞を受賞した伊藤七段=吉田祐也撮影

角換わり相腰掛け銀、先手が9筋の突きこし生かし上部開拓

 自身の戦術が2023年度将棋大賞の升田幸三賞に選ばれたことについて、伊藤七段は「全く考えておらず、本当に驚きました」と語る。

竜王戦本戦・丸山九段-伊藤七段戦は入玉をめぐる戦いだった=若杉和希撮影
竜王戦本戦・丸山九段-伊藤七段戦は入玉をめぐる戦いだった=若杉和希撮影

 「持将棋定跡」として形になった対局が、初めて将棋ファンの前に登場したのは、2023年7月の竜王戦本戦・丸山忠久九段-伊藤匠七段の一戦だ。この対局のベースとなっているのは、2022年に行われた豊島将之九段-永瀬拓矢九段戦(王座戦五番勝負第2局)や、藤井聡太竜王-伊藤匠七段戦(棋王戦挑戦者決定トーナメント)で、角換わり相腰掛け銀の先手9筋突きこし型の将棋だ。端の位をいかすべく、先手は入玉模様の将棋だった。後手は特に入玉を狙っていなかったが、自身が指して敗れた対局を伊藤七段は突き詰めて研究していた。

相入玉でないのに「持将棋定跡」と認識された丸山九段戦

 昨年の竜王戦の対丸山九段戦。角換わり相腰掛け銀の先手9筋突きこし型に対し、伊藤七段は△1六竜(第1図)として、上部開拓の姿勢を明示した。それまでは、入玉模様の先手玉を寄せようとしていたが、方向性を変えて持将棋「引き分け」を狙う戦略に出た。先手の丸山九段は「持将棋ではつまらないから寄せに行ったけど、全然だめだった」と振り返る。▲5一馬(第2図)は6一の地点から動かした手で、強気の攻め方だが、伊藤七段はこの瞬間を狙っていた。

第1図
第1図
第2図
第2図

 上部開拓に徹しなかった先手玉に生じた一瞬の隙。第2図から△9四歩として、伊藤七段はあっという間に先手玉を寄せきった。相入玉でもないし、持将棋でもない結末。なのに、なぜこの対局が棋士の間で「持将棋定跡」として認識されていたのか。実は竜王戦の1か月ほど前に収録があった銀河戦の佐々木勇気八段-伊藤匠七段の将棋が、同じような将棋で相入玉、持将棋になっていた。テレビ棋戦である銀河戦の放送は竜王戦の丸山-伊藤戦よりも後だったので、「持将棋定跡」がファンにお披露目される「ラグ」が生じた。

実は「持将棋定跡」だった一戦。伊藤七段が丸山九段に勝利した=若杉和希撮影
実は「持将棋定跡」だった一戦。伊藤七段が丸山九段に勝利した=若杉和希撮影

「元祖」の一局は佐々木八段戦、110手で持将棋成立の衝撃

 第3図は銀河戦の佐々木-伊藤戦の終局図だ。後手玉は完全に相手陣へ入りきっているわけではないが、双方の合意で相入玉の認識となり、持将棋となった。この持将棋が成立した第3図。なんと手数は「110手」なのだ。通常の公式戦が終局する手数と変わらない。伊藤七段は「正確な記録はわかりませんが、史上最短手数で持将棋が成立した一戦でしょう」とユーモアたっぷりに話した。指し直しで先手となった伊藤七段が佐々木八段に勝利したことで、後手番の面白い戦略として、棋士の間で話題になっていた。

第3図(第31期銀河戦、囲碁・将棋チャンネル主催)
第3図(第31期銀河戦、囲碁・将棋チャンネル主催)

「24点法」のアヤ、広瀬九段「伊藤七段は持将棋を戦略的に活用」

丸山九段-伊藤七段戦の新聞解説を担当した広瀬九段(一番奥)=若杉和希撮影
丸山九段-伊藤七段戦の新聞解説を担当した広瀬九段(一番奥)=若杉和希撮影

 竜王戦の丸山-伊藤戦の新聞解説を務めたのは広瀬章人九段だった。居飛車最先端の将棋に精通する広瀬九段は、銀河戦の「短手数持将棋」を知っていて、丸山-伊藤戦を見守りながら「続けて出たので、持将棋定跡と呼ぶべきでしょうか。新しい戦術です」とうなずいていた。広瀬九段は「伊藤七段は持将棋を戦略的に活用しています。相入玉模様の将棋になったとき、アマチュア大会やAI同士の対戦(大会など)は『27点法』で勝敗をつけますが、棋士の公式戦は『24点法』が採用されています。ゆえに持将棋、引き分けのアヤが生じる。そこに目をつけたわけです」と解説した。

棋王戦第1局、後手で「持将棋定跡」のバリエーションを披露

棋王戦第1局は藤井竜王が先手、伊藤七段が後手番だった=日本将棋連盟提供
棋王戦第1局は藤井竜王が先手、伊藤七段が後手番だった=日本将棋連盟提供

 昨年の竜王戦七番勝負で挑戦者になった伊藤七段。藤井竜王は伊藤七段の研究を警戒し、「持将棋定跡」は現れなかった。そして、今年2月の棋王戦五番勝負で2人は再び相まみえた。富山県での第1局は、角換わり相腰掛け銀の9筋付き合い型。後手の伊藤七段は、9筋が違う形でも「持将棋定跡」を用意していた。

 先手玉を端で泳がせ、後手はじっくりと上部を開拓する。迎えた第4図は攻防に△3六角と打ったところ。相入玉模様で点数勝負も視野に入っているため、角打ちは先手の飛車を狭くして「5点」の確保をちらつかせた手でもある。藤井竜王は「伊藤七段の戦略が巧妙で、ここから先は持将棋で許してという感じでした」と語った。ある程度、想定通り進めていた伊藤七段は「第4図の角打ちは確信があったわけではなくて。▲2六歩と打って、寄せの土台を築く怖い筋もありますし」と冷静に明かした。

第4図(第49期棋王戦五番勝負第1局、共同通信社主催)
第4図(第49期棋王戦五番勝負第1局、共同通信社主催)

「引き分け」で後手番しのいだものの、次局の先手番を生かせず

第5図(第49期棋王戦五番勝負第1局、共同通信社主催)
第5図(第49期棋王戦五番勝負第1局、共同通信社主催)

 玄妙な▲2六歩は入玉のすべを心得た伊藤七段ならではの読み筋だ。多彩なパターンで相入玉に持ち込む「持将棋定跡」はさらなる進化を遂げていた。藤井竜王は必死に飛車を逃がして点数を確保。伊藤七段は練習将棋の裏付けもあるようで、慣れた様子で点数を集め、入玉を果たした。藤井竜王が▲8三玉(第5図)と「トライ」したところで、「待っていました」と言わんばかりに持将棋が成立した。終局した手数は129手で、やはり従来の持将棋とは一線を画する短さだ。伊藤七段は「引き分け」で後手番をしのいだ形となった。

棋王戦第1局で伊藤七段は持将棋、引き分けに持ち込んだ=日本将棋連盟提供
棋王戦第1局で伊藤七段は持将棋、引き分けに持ち込んだ=日本将棋連盟提供

 ただ、伊藤七段は次の先手番をものにできず、藤井竜王が棋王を防衛した。後手番で「持将棋定跡」はあれど、課題は残った。タイトル戦勝利という結果は得られなかったが、伊藤七段の創意工夫は、角換わりにおける後手苦戦の現状から生まれた産物でもある。「ファンの方に話題にしていただきましたが、自分ではたいそうな戦略だとは思っていません」と、持将棋定跡について、こだわりは見せていなかった伊藤七段。

 それでも、戦術の体系化が評価され、升田幸三賞という栄誉を得た。「数年前と比べると後手に苦労が多くなっている印象ですが、まだまだ後手にも工夫の余地があると考えています」と率直な言葉。表には出していない様々なバリエーションの「持将棋定跡」を手持ちカードにしていると感じさせる。

藤井竜王、豊島九段の指し方に変化、「定跡」のさらなる進化は?

2021年の竜王戦七番勝負で激闘を繰り広げた豊島竜王と藤井三冠(肩書はいずれも当時)=吉田祐也撮影
2021年の竜王戦七番勝負で激闘を繰り広げた豊島竜王と藤井三冠(肩書はいずれも当時)=吉田祐也撮影

 戦略家の伊藤七段が見せた居飛車後手番での新戦略。そんな工夫や、後手番で苦労する現状が呼び水となり、しのぎを削るトップ棋士は、それぞれに自己改革をしている。豊島将之九段は昨年から、得意だった角換わりの「定跡形」をほとんど指していない。藤井竜王は今年に入り、相居飛車の後手番は力戦を志向している。藤井-豊島の顔合わせとなる名人戦は間もなく開幕する。2021年の竜王戦七番勝負の頃は、両者は最先端の定跡形での戦いだったが、今回のシリーズは趣向を変えて力将棋が見られるだろう。

叡王戦挑戦者決定戦で永瀬九段を破った伊藤七段=吉田祐也撮影
叡王戦挑戦者決定戦で永瀬九段を破った伊藤七段=吉田祐也撮影

 伊藤七段は、3月の叡王戦挑戦者決定戦で永瀬九段を破り、竜王戦・棋王戦・叡王戦と短期間で3度目のタイトル戦登場となる。4月7日に開幕する藤井竜王との叡王戦五番勝負で別のパターンの「持将棋定跡」が出るのか。そして、公式戦で「持将棋定跡」をまねする棋士が出てくるのか。伊藤七段は「まだ公式戦で現れていないような展開など、様々な形で持将棋を志向する戦術が指される可能性はあるのかなと思います」と予測している。2024年は、将棋界で定跡や戦術の概念が変わりゆく年になるかもしれない。

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5223249 0 竜王戦 2024/04/05 17:00:00 2024/04/05 17:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2024/04/20240404-OYT8I50049-T.jpg?type=thumbnail

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