天安門事件 日本、強硬な欧米と一線…外交文書公開2020

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1989年6月4日、天安門広場に突入した戦車の発砲に逃げまどう群衆(ロイター)
1989年6月4日、天安門広場に突入した戦車の発砲に逃げまどう群衆(ロイター)

 外務省が23日に公開した外交文書は、1989年6月に中国で起きた天安門事件を日本政府がどう受け止め、対応したかを詳細に記録している。同年に閣僚会議が発足したアジア太平洋経済協力会議(APEC)の誕生に向けた省庁の攻防など、外交の舞台裏も明らかになった。ファイル26冊の主なポイントを紹介する。(肩書は当時)

政権基盤が弱い海部首相、コメ問題より政治改革…米政府は「非生産的」と強い不信感

経済協力 早期再開探る

 日本政府は天安門事件後、欧米諸国による対中制裁と一線を画し、新規円借款の凍結などの対応にとどめた。公表された外交文書からは、欧米の批判をかわしながら、経済協力を早期に本格再開しようとしていた様子がうかがえる。

 「実態面で、今次事態の衝撃がなるべく小さくなるよう対処」

 「サミットまでは『模様ながめ』の姿勢をとり、(中略)徐々に関係を正常化していくとの方針」

 「(経済協力の)新規案件に係る慎重対応につき『凍結』、『中止』、『根本的見直し』等の表現は使わぬよう注意」

 6月22日付の首相への説明用文書「我が国の今後の対中政策」には、経済協力の再開を急ぐ日本政府の姿勢がにじみ出ている。

 文書はそのうえで、「我が国が有する価値観(民主・人権)」と「長期的、大局的見地からみて中国の改革・開放政策は支持」という「2つの相反する側面の調整」が求められているとし、「長期的・大局的見地の重視」が必要だとした。

 21日の「今後の対中経協政策について」と題した文書でも、日本の経済協力が「中国の近代化、開放化」を支援してきたと総括し、「近代化、開放化の大筋が維持される限りこれを変更すべき理由はなし」と強調。新規案件は「当面は延期」としつつ、すでに始まっている経済協力案件については、欧米の批判を避けつつ継続する方針を示した。

 7月14日からパリで開かれたアルシュ・サミットの外相会議では、三塚博外相が「(中国が)『改革・開放』政策へのコミットメントが変わらないことを示すのであれば、我々はこれに対する支援と協力を再開する用意がある、というメッセージを中国に対し伝える必要がある」と述べた。

 こうした日本の姿勢に、米国などからは「日本は経済優先」との批判もあった。

 米政府は6月15日、国務次官補代理が外務省幹部に「日本が継続中の対中経済協力案件を次々とapprove(承認)すれば、ワシントンを刺激する」と警告。7月8日には大統領補佐官が「日本は隙あらば経済利益を人道上の考慮に優先する国と米議会に見られている」と述べ、経済協力再開を「可能な限り延ばしてほしい」と求めたが、日本側は「少なくとも継続中の経済協力は静かに再開せざるを得ない」と伝えた。

 日本政府は米国などからの批判を気にし、「日本政府や日本企業の対応が突出し、火事場泥棒と映るような行為となるのを極力控える」との方針を繰り返し示していた。8月7日付の方針案では、経済協力に関わる人の往来を「出来る限り地味かつ静かに」行うように指示した。

 中国側も、経済協力の再開を様々な形で要請していた。李鵬首相は11月12日、訪中した日中経済協会の代表団に、凍結中の円借款の一部を「公表せず、少しずつ始めたらどうか。欧米の反応が公表すれば必ず出る」と持ちかけていた。

 川島真東大教授(東アジア国際関係史)は一連の文書について、「当時の外務省の見方がわかる一級資料だ」と評価した。

邦人救出 緊迫の「戦場」…銃声の中 軍と解放交渉

天安門広場をスケッチした文書
天安門広場をスケッチした文書

 天安門事件の際、在中国日本大使館が銃声が鳴り響く中で決行した邦人退避活動の一端が、外交文書から明らかになった。バスによる空港への輸送にあたる大使館員について、文書をまとめた館員が「戦場に送り出す気持ちだった」とつづるなど、緊迫した様子が伝わる内容となっている。

 6月13日付で、大使館が本省あてに送った「当館が行った邦人救援活動」とする文書によると、事件のあった同月4日未明にはバス、地下鉄などの交通機関が完全にストップしたため、北京国際空港への移動の足がたたれた邦人から大使館に救助要請が殺到し始めた。大使館員の家が銃撃を受けたり、邦人カメラマン男性が足に被弾して、搬送されたりする事案も発生した。

 大使館では翌5日から、大使館員が同乗したバスで助けを待つ邦人がいる大学などを回り、空港や一時滞在先のホテルへとピストン輸送した。乗務を嫌がる中国人運転手を1時間説得して、ようやく乗車させることもあった。10日までの6日間で、のべ109回の輸送作戦を実施し、1494人を退避させた。

 7日には、会社事務所が軍に包囲され、取り残された邦人から救助要請が入った。銃声が絶え間なく聞こえる中、車両では銃撃される恐れがあるため、大使館員2人が徒歩で事務所に向かった。軍に直接、解放をかけあい、約2時間後に包囲が解かれて脱出し、事なきを得た。

 北京国際空港では、騒乱でパスポートを持参できなかった邦人のため、大使館の旅券担当官がパスポート代わりになる臨時の「渡航書」を発給した。現金を持たない邦人も、航空会社へ借用書を出すことで搭乗可能とする措置がとられた。

 外務省のまとめによると、負傷者が2人出た以外は、4000人近い邦人が騒乱の中、帰国した。

指導部当初から「流血回避困難」

 学生らのデモに対する武力弾圧は、当初から中国指導部の念頭にあったとみられる。公開文書によると、5月20日に李先念・前国家主席が岡崎嘉平太・日中経済協会常任顧問に対し、「流血の事態は避けねばならないが、ある状況に至れば流血は避けられない」と述べていた。

 また、トウ小平氏は11月13日、訪中した日中経済協会の代表団に、「愛国主義教育が足りなかった。動乱は思想の混乱によって生じた」と説明し、「学生、特に青年に対して再教育を行わなければならない」と語った。

共産党内権力争い注視

 日本政府は、天安門事件に関連した中国共産党内の権力争いにも高い関心を払っていた。

 5月22日に外務省中国課が北京の日本大使館へあてた公電では、北京市内に戒厳令が出て2日経過してもデモ隊の排除に動かない理由として「(中国)指導部内の意思決定メカニズムが正常に働いていない可能性も排除し得ない」と、政権内の主導権争いの存在を指摘した。

 天安門事件では、中国指導部の最高実力者、トウ小平中央軍事委員会主席や李鵬首相ら保守派と、学生らへ融和姿勢をとった趙紫陽総書記との路線対立が顕在化し、結果的に趙氏が失脚した。

 公電では趙氏の動向が公式に発表されないことを「抑制的な対応が学生デモを増長させ、責任が党内で問われた」と推測。今後は、李氏がトウ氏ら長老を後ろ盾として政権を維持していく可能性が大きいとしながらも「国政運営も容易ではなく地位は不安定なものになる」と展望した。

 事件を主導したトウ氏に対しては総じて厳しい論調が目立つ。文書では、大衆の反発の矛先がトウ氏に向かうとして、「引退を早めざるを得ない状況に追い込まれる可能性もある」とも言及している。

 結局、中国共産党は6月24日、上海市党委書記(政治局員)だった江沢民氏を総書記に選出。トウ氏は11月に中央軍事委員会主席を江氏に譲り、引退を表明した。

支援「内向き中国に戻さぬため」…谷野作太郎・元中国大使

 天安門事件を振り返ると、あれほどの事態が起こるとは日本を含めてどの国も想定していなかった。事件当時はアジア局審議官で、すぐ後にアジア局長に就任した。日本は中国を政府開発援助(ODA)で支援していたが、北京の日本大使館職員から涙声で「目の前で青年が撃ち殺された。これまで日本がやってきたODAにどんな意味があったのか」との電話を受けたのが記憶に残る。

 事件の翌月にあったアルシュ・サミットでは、西側先進国が中国批判を強める中、日本が共同制裁の回避などを訴えて中国の孤立化阻止に動いた。トウ小平は天安門事件の引き金を引いたが、(トウ氏の)改革・開放路線は東南アジア諸国連合(ASEAN)なども強く支持していた。外国に依存せず経済・社会を建設すべきだとする「自力更生」を掲げた毛沢東時代の内向きな中国に戻してはいけないという思いが日本には強かった。

 天安門事件後も経済協力を保持したことを後に批判する声もあるが、当時の国内世論も踏まえたもので、間違いではなかった。

APEC初開催…通産省 必要性を強調/外務省 阻止へ根回し

 環太平洋諸国が経済連携について話し合うアジア太平洋経済協力会議(APEC)は、1989年11月にオーストラリアで初開催された。日本政府内では、通商産業省(現・経済産業省)がこの構想を推進したのに対し、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国の反発を心配した外務省が慎重論を唱え、実現を阻止しようとしていたことが外交文書から浮かび上がった。

 APEC構想の源流となったのは、オーストラリアのホーク首相が同年1月にソウルで行ったスピーチで、経済協力強化に向けた閣僚会議の開催を呼びかけた「ホーク構想」だった。

 通産省も同時期に類似の提案をしており、通産審議官が3月、ASEAN各国を訪れて必要性を説いた。一方、外務省は、経済のブロック化とみられる可能性や、「わが国が先走った場合、アジア諸国の中には『大東亜共栄圏』の再来ではないかとか、そこまで行かなくとも自分たちが日本経済圏の支配下に置かれるのではないかとの懸念を強める者が出る可能性」(日本大使館発の公電)があるとして、慎重姿勢だった。

 外務省は実際、構想を頓挫させるため根回しに走った。2月13日には「アジア太平洋閣僚会議構想への対応」とする内部文書をまとめ、豪が通産省と連携して「ホーク構想」を推進すると予想したうえで、「早急に当省の態度を決定し、官邸に働きかけを行う要あり」「ASEAN諸国の意向を内々に打診。これら諸国が否定的であれば、構想自体をつぶすことも可能となろう」とした。

 外務審議官が3月20日、ASEAN訪問を控えていた竹下首相に説明に入った際には、通産省の動きに対してマレーシアやインドネシアは「消極的」であり、「これ以上積極的な動きをすべきではない。ASEAN側に変なナショナリズムが生じたら、訪問の意義を害する」とまで進言した。首相は「わかった」と応じたと報告されている。

 外務審議官は24日に後藤田正晴・前官房長官と面会した際にも、「(通産省の)省益中心の行動に困っている」と通産省の対応を直接的に批判した。

 だが、アメリカとカナダが構想に積極的になった結果、11月には計12か国の経済閣僚らが参加してAPECの閣僚会議が初開催された。APECはその後、93年に首脳会議をスタートさせるなど国際的枠組みとしての存在感を増し、現在では環太平洋の21の国・地域が参加している。

サッチャー英首相来日…返還後の香港 行く末懸念

1989年9月に来日したサッチャー英首相(右から2番目)
1989年9月に来日したサッチャー英首相(右から2番目)

 1989年9月に来日したサッチャー英首相は、海部首相との夕食会で、「中国の指導者たちはいざとなったら抑圧を辞さないことが明確になった」と語り、97年に中国に返還される香港の行く末を案じていた。

 夕食会では、海部氏が、直前に行われた伊東正義元外相を団長とする日中友好議員連盟の訪中の際、「中国は、改革・開放路線の堅持を何度も強調していた」と紹介したのに対し、サッチャー氏は「中国政府が天安門事件が起きなかったかのごとき言い方をするのは不可能」と中国を強く批判した。

 サッチャー氏はさらに、「1997年以降に香港が中国に返還されることもあり懸念している」と述べたが、海部氏は「日本の投資についてはこれまで通りの交流関係を続けるよう慫慂しょうようしてまいりたい」と応じただけで、温度差が浮き彫りになっている。

 香港では近年、中国が介入を強め、中国が約束していた「一国二制度」が骨抜きになっている。今年6月には、反体制活動を取り締まる国家安全維持法が施行され、民主活動家や中国批判を展開するメディア幹部らが相次いで逮捕された。

 かつてのサッチャー氏の懸念は、現実のものとなっている。

 政治部 森藤千恵、森山雄太、西田道成が担当しました。

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1724986 0 政治 2020/12/24 05:00:00 2022/12/20 19:24:50 2022/12/20 19:24:50 https://www.yomiuri.co.jp/media/2020/12/20201223-OYT1I50066-T.jpg?type=thumbnail

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