高さ10mの防潮堤越えた…「津波防災の町」の誤算[記憶]<1>

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 東日本大震災には、多くの人の心をさいなみ続ける特異な一面がある。生き延びたことの後ろめたさ、だれかの命を奪い、傷つけたかもしれないミス、準備不足、想像力の欠如、落とし穴……。苦い記憶を引きずってきた被災者や当事者が、10年の節目を機に取材に応じてくれた。未来に向けた記憶の財産だ。

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防潮堤を越える津波。黒い壁となって街をのみ込んだ(2011年3月11日、岩手県宮古市田老で)(田老町漁協提供)
防潮堤を越える津波。黒い壁となって街をのみ込んだ(2011年3月11日、岩手県宮古市田老で)(田老町漁協提供)

 「津波防災の町」を宣言した町がある。岩手県下閉伊(しもへい)郡田老町といった。1896年の明治三陸津波で1859人の命が奪われ、1933年の昭和三陸津波でも911人が犠牲になった町だ。

 町は住民を津波から守る大事業に乗り出し、78年度に、高さ約10メートル、全長約2・4キロの巨大なX字形の防潮堤が完成した。「夜でも逃げやすいように」と、街も碁盤目状に造り替えられ、山際には避難階段が整備された。年1回の避難訓練にも力を入れ、ハード・ソフト両面で防災対策を講じてきた。

 国内外の研究者たちから注目を集める町になった。防潮堤は、いつしか万里の長城と呼ばれるようになった。昭和三陸津波から70年となる2003年3月3日の「津波防災の町」宣言は自負の表れでもあった。

 合併して宮古市田老と名を変えたその街は、防災の町宣言の8年後、再び巨大津波にのまれ、181人の犠牲者を出した。

 「防潮堤があるから大丈夫」「津波が越えるわけがない」。こう口にして避難をしなかった人もいたという。防潮堤近くで民宿を営んでいた小幡実さん(65)は、念のためと腰を上げたが、危うかったと打ち明ける。「私も津波は来ないだろうと安心して暮らしていた」

 東日本大震災では、12都道県で1万5899人が亡くなり、いまも2526人の行方がわかっていない。死因の9割は溺死だが、津波によって引き起こされた火事や、流れてきたがれきが原因で亡くなった人もいる。

 あれから10年。田老はいま、再び巨大な防潮堤で街を守ろうとしている。今度の高さは14・7メートルある。田老だけではない。多くの被災地が大規模な土木工事によって、津波に強い街に造り替えられた。悲劇を繰り返さないために、「あの日」の記憶を読み解かなければならない。

破られた「万里の長城」

 東日本大震災では、津波と地震で1万8000人以上の犠牲者が出た。津波に限って言えば、沖合で地震が起きたら即座に津波を連想する。これが最大の教訓だ。しかし、逃げ遅れて死の淵を歩いた被災者の経験にも、生き延びるためのヒントがあった。万里の長城と呼ばれた巨大防潮堤を築いた岩手県宮古市田老地区と、被災地最大3000人超の死者を出した宮城県石巻市から報告する。

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避難決断できぬまま

 宮古市の酒屋に生まれ、20歳代前半、田老で食料品店を営む一つ年上の男性とお見合い結婚し、3人の子どもに恵まれた。花輪節子さん(78)は、盆栽や自然石の採集など多趣味の夫・征夫ゆきおさんについてよく外出し、息子からは「金魚のフン」とからかわれた。あの日は一緒に居間でテレビを見ていた時だった。

 「おらの家は、頑丈だから大丈夫だ。防潮堤もある」。激しい揺れが収まった直後、征夫さんはこう言い切った。自宅1階は鉄筋コンクリート製。何より巨大防潮堤がある。節子さんも「これくらいの揺れなら」と思った。だが心は揺れた。

 念のため2人で外に出て様子を見ると、近所の住民が足早に避難を始めていた。「逃げとかんでいいのか」と声をかけられたが、地元消防の「津波は4メートル」との呼びかけに、征夫さんは「なんだ4メートルか」と逆に安心して家に戻った。

 いざという時に備え、節子さんは、診察券と免許証、小銭をポシェットに入れて腰に巻いた。夫婦でテレビやタンスなど居間の家財道具を押さえている時、再び強い揺れに襲われた。節子さんは「さすがに逃げっぺし」と声をかけたが、征夫さんは「おらの家が流れる時は田老は全滅だ」と動こうとしなかった。

 避難することなく、また大きな揺れが来て2人は玄関を出て外の様子を見た。征夫さんは「やっぱりこうやって地震は収まるんだ」と話し、家の中に戻ろうとした。瞬間、背後から黒い水が押し寄せてきた。

 津波にのまれた節子さんは居間の木柱に背中がぶつかり、幸いにも押し流されずに済んだ。ただ頭まで水につかり、目を開けられない。階段を探し、四つんばいではい上がった。水は2階に達する寸前で止まったが、征夫さんの姿は見えなかった。「命てんでんこだから堪忍して」とわびた。

 水が引いた後、どうにか台所の窓から外に出て、消防に助けられた。征夫さんの遺体は震災から10日目、自宅そばで見つかった。一人暮らしの市営住宅には、お気に入りの盆栽前でほほえむ遺影が置かれている。「防潮堤があるからと安心していた。逃げるべきだったし、せめて2人で2階にいれば」

「高台へ」拒んだ夫は

 佐々木トモさん(84)は、20歳代半ばで漁師町の田老に嫁いだ。2人の子供は独立し、老後は自宅の畑で野菜や花を育てる日々だった。足腰が弱くならないようにと防潮堤の上を歩くのが日課で、年1回開かれる地域の運動会にも毎年元気に参加した。散歩を終え、世間話でもしようと友人宅の玄関に手をかけた時、地震が起きた。

 慌てて家から飛び出してきた友人と抱き合った。そのまま揺れが収まるのを待って向かいの自宅に戻ると、夫の正夫さん(当時82歳)も散歩から帰ってきたところだった。防災行政無線は津波の高さを3メートルと知らせていた。

 「高台に行くべし」。トモさんは再三説得したが、正夫さんは玄関に座ったまま、「防潮堤を越えるわけがない」と腰を上げようとしない。腕も引っ張ったが、「うるさい」と腕を振り払われ、扉を閉められ鍵もかけられてしまった。

 仕方なく正夫さんを残し、300メートルほど離れた公民館の裏にある高台を目指した。地区の避難訓練には何度も参加し、震災2日前の三陸沖で起きた地震の際も訓練通りに逃げていた。トモさんにとって体になじんだ避難ルートだった。

 小さな地震でも津波を警戒することが身についていた。

 きっかけは嫁ぐ前の母親の言葉。田老より内陸の山あいで育ったトモさんは、「田老は津波がおっかねぇところ」「地震から30分くらいで津波が来る」と口酸っぱく言われた。それを50年間忘れずにいた。

 高台への上り坂を上って、「ここまで来れば大丈夫」と安心した時だった。振り返ると眼下の公民館の周りが黒褐色の津波にのみ込まれていた。腰が抜け、高台にいた住民が駆け寄り助けてくれた。「あと2~3分遅れていたら」

 夫は約3週間後、津波で約130メートル流された自宅の中で見つかった。4歳の時に昭和三陸津波に遭遇し、親に背負われて山に逃げたと言っていた正夫さん。「お父さん、それを覚えていたのに……。防潮堤があるからと油断したんだと思う。一緒に逃げてくれれば死ななかった」

内陸で見つかった巨石。推計140トン。海岸にあったものが流されたものだという(岩手県宮古市で)=山田助教提供
内陸で見つかった巨石。推計140トン。海岸にあったものが流されたものだという(岩手県宮古市で)=山田助教提供

140トン巨石 470メートル押し流す

 最大16メートル超の津波に襲われた宮古市の内陸で、巨大な石が見つかっている。横幅6・5メートル、高さと奥行きは2・5メートルほど。元の場所から470メートル流された巨石だ。

 筑波大などの研究チームが、密度などから推計した石の重さは約140トン。この重量や表面積などから解析したところ、石を運んだ津波の速さは、少なくとも秒速8メートルと割り出された。陸上男子800メートルの世界記録に匹敵する速度だ。津波を視認した後では、逃げ切れない可能性が高い。

 巨石の周囲には、海岸線から流れてきた消波ブロックや損傷した防潮堤など、1メートル以上あるコンクリート片や石が233個確認された。当時筑波大生として調査にあたった信州大助教の山田昌樹さん(31)(地質学)は「石を見て津波の威力や速さのすごさに驚いたことを覚えている」と振り返る。

 忘れずにいたいのは、災害時は思ったようには動けないということだ。

 一般人の平均的な歩行速度は、時速3・6キロ(分速60メートル)。国土交通省が東日本大震災時の避難速度を調査したところ、平均は2・24キロ(同37メートル)と3分の2に低下していた。避難場所へ向かう途中で余震で立ち止まったり、迷ったりした可能性が考えられるという。さらに、乳幼児や高齢者などと一緒に逃げた場合は、1・66キロ(同28メートル)と極端に遅くなっていた。

 安全な場所に避難するための所要時間と行動範囲は限られている。津波は沖合で発生した後、徐々に減速するが、到達後でも秒速8メートル程度。もう一度繰り返すと、見てから逃げても間に合わない。

津波急襲 決死の生還

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校舎に火の手 裏山へ

 美しい海岸が間近にある石巻市南浜町で、高橋政樹さん(66)は生まれ育った。町を出ることなく、17歳で地元の鉄工所に就職し、船や車の部品作りに汗を流してきた。両親と息子の4人暮らし。その日は、仕事の買い出しのため市内で軽トラックを運転中だった。貝やカニをとって遊んだ海で異変が起きるとは思わずに。

 「女川に6メートルの津波」。カーラジオから切羽詰まった女性の声が何度も聞こえてきた。高橋さんは、当時86歳だった足の弱い父清人さんと母やよゑさん(89)が心配で急いで自宅に戻った。両親はけがもなく家も大丈夫だったが、すぐに2人を乗せて避難場所に指定されている門脇小学校に逃げた。息子とも合流した。

 いったん職場に向かい、無事を報告。引き返すと校庭には約30人の住民が集まっていた。倒壊の恐れから体育館にも入れずにいたところ、異様な音が聞こえた。

 バキバキバキ――。海岸の方を見ると土煙が上がり、家々や電柱がまるでドミノのように倒れていた。思わず「津波だ」と叫んだ。校舎入り口に住民が殺到した。高橋さんも両親を気遣いながら向かった。最後尾で階段に足をかけると、灰色の水が入ってくるのが見えた。

 必死に3階まで上がり一息ついた後、様子を見ようと屋上に上がって絶句した。街は水につかり、炎上する家屋が浮かんで迫ってきた。「ここも火事になる」。両親のもとに戻り逃げようとすると、教室の窓が炎のオレンジ色で染まっていた。死を覚悟した。

 住民を救ったのは、裏山と職員の機転だった。日和山という小高い山がそばにあり、校舎2階裏にはベランダのような部分があった。ただ山までわずかに届かない。そこに職員が持ってきた教壇を橋代わりに架けた。教壇の長さはわずか2メートル程度だが、下の濁流を見ながら住民は渡り切り、裏山に逃れた。雪が降る日だった。気が抜けたやよゑさんが尻餅をつき、「お尻が冷たい」と漏らした。高橋さんの口からクスッと笑いが漏れた。助かったとようやく実感した。

 門脇小は高さ2メートルまで浸水し、3階まで延焼。大津波警報が出た際、児童が224人いたが日和山に避難していた。校舎は傷痕を残して部分保存され、来年度に公開される予定だ。

車水没 工具で脱出

 同市門脇町の雁部がんべ勝征さん(76)は、先輩に連れられて入った居酒屋で店員だった8歳年上の芳子さんを見て「きれいな人だ」と一目ぼれし、結婚した。50歳を前に設備工事会社を起こした。週6日は働き、昼は自宅で愛妻の料理を食べてまた職場に戻る。いつも通りに迎えた午後だった。

 「これはただ事じゃねえなあ」。雁部さんは会社の倉庫ですさまじい揺れに遭い、慌てて外に飛び出した。会社は海まで約300メートルと近いが、津波は想像すらしなかった。

 揺れが収まるのを待って車で数分の自宅に戻ると、芳子さんは無事でほっとした。自宅前で近所の人と雑談をし、会社に戻ろうと車で家を出たところだった。

 海の方から「ゴゴゴゴ」と重低音が聞こえた。津波だと直感し、自宅に戻ろうとハンドルを切った。ルームミラーを見ると津波が映っていた。次の瞬間、濁流にのまれた。前後左右、別の車やがれきが衝突してきて、ガンガンと音を立てた。

 200メートルほど流され、駐車場で止まった。ドアは水圧で開かずフロントガラスを蹴ったが割れない。みるみる周囲の水かさは増し、完全に水没。車内に水が入るのも時間の問題だった。

 「もう終わりだな」と観念した時、後部が流れで押し上げられたのか、車体が前を下に垂直になった。すると何かが運転席の足元に落ちてきた。見るとトランクにあったパイプレンチ。手に取り、必死にリアガラスをたたき続け、穴を開けると手でこじ開けて外に出た。近くに高台に上る階段が見えた。波間のがれきや車を踏み台にしてなんとかたどり着いた。気がつくと両手は血だらけだった。

 芳子さんは見つかっていない。花が好きで温室でサボテンを育てていた。「根元から優しく水をかけてよ」と、よく注意された。津波が来るまで時間はあった。「俺はなぜ、おっかあを連れてすぐ逃げなかったのか」。後悔が消えることはない。

「自ら守る」意識作り必要

 内閣府などは震災後、津波避難の実態を調べるため大規模な調査を実施している。津波に対する認識や避難行動の有無など計34問で、岩手、宮城、福島の沿岸自治体の1万1400人が回答した。結果からは住民の危機意識の差が読み取れる。

 例えば、避難したかどうかを聞いた設問には、80%の人が「避難した」と回答する一方、「避難しなかった」という人が14%に上った。理由として、「揺れ具合から津波が来ないと思った」「過去に津波が来なかった」と回答する人もいた。根拠のない考えから危険を過小評価する「正常性バイアス」という心理作用が働いたとみられる。調査の対象は生存者だけなので、死者や行方不明者の場合、避難しなかった割合はもっと多かったとも推測できる。

 「今後教訓とすべきこと(複数選択)」との設問では、「家族と避難について話し合うこと」が67%で最多だった。津波災害の経験者たちは、日頃から避難場所など約束事を決めておくことが必要だと認識を改めている。

 東京大総合防災情報研究センターの田中淳・特任教授(災害情報論)も「自宅に迎えに行かない」など家族間のルールを作っておくことが効果的とし、「まずは自分の命を守ることを考えられるように日頃から、家族で話し合っておくことが大切」と話す。

 注意すべきは、想定される南海トラフ地震や日本海側の津波は到達までの時間が短い点だ。津波注意報や警報が出たタイミングで避難を始めることが望ましいと指摘する。

 「揺れたら念のために避難する」「警報が出たら必ず避難する」。田中さんは正常性バイアスに陥らないために、「避難する具体的な引き金(きっかけ)を明確に決めておく」ことを勧めている。

 (グラフはいずれも内閣府などの調査を基に作成。質問項目によって回答者の母数は異なる。小数点以下は四捨五入し、合計が100%にならないことがある)

 取材・斉藤新、土谷武嗣、鶴田裕介、長谷川三四郎

 デザイン・佐久間友紀

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1858784 0 企画・連載 2021/02/22 05:00:00 2021/02/24 19:37:32 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/02/20210222-OYT1I50014-T.jpg?type=thumbnail

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