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 歴史を振り返れば、様々な理想や空想をかたちにした都市計画案というものは数多い。しかし、その中で専門家を超えて世間を驚かせた計画となると、そう多くはないだろう。数少ない例外の1つが、「東京計画1960」(1961年)だ。

丹下健三らによって提唱された「東京計画1960」(写真:川澄・小林研二写真事務所)
丹下健三らによって提唱された「東京計画1960」(写真:川澄・小林研二写真事務所)
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 それは当時47歳の建築家・丹下健三が研究室のスタッフと共に作り上げた、東京湾上のマスタープランだった。人口増加による用地不足や交通渋滞を解決するため、東京都心と千葉県木更津方面を結ぶ帯状の交通輸送システムを建設し、そこに公的機関や金融、研究所といった東京の中核機能を集中させる。その幹から枝葉を伸ばすようにして、居住施設も整備する──という内容だ。

 巨大な樹木のような構造で街を上空に拡張する「空中都市」(1960年)を既に構想していた博士課程学生の磯崎新も、この計画に参加している。

 当時、東京湾上に都市をつくるという発想自体は特別ユニークなものではなかった。先立つ1959年には、日本住宅公団初代総裁も務めた加納久朗らが2億坪の埋め立て計画「ネオ・トウキョウ・プラン」を政府に提案している。人口1000万人の大台が迫る東京の大改造は、都市に関わる人間がそろって情熱を傾けるテーマだったのだ。

 「ニューヨーク、パリ、ロンドン、それからモスコウも一千万に近づきつつある。(中略)一千万人間が集っても、非常に愉快に暮せる都市を建設したら、その国が勝利を得るのか、そういうバカなことをした国は亡びるのか、分散させたほうが栄えるのか。そういう文明史的洞察が必要だと思うのです」

 雑誌『中央公論』(1961年1月号)の座談会で、丹下はこう語っている。東京都の人口がおよそ1400万人に達し、世界に数十のメガシティー(人口1000万人以上の都市圏)が存在する現在から見れば、少々大げさにも感じられる発言だ。膨張と過密化が都市を破綻させるかもしれないという不安は、それほど大きなものだった。