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 1962年8月25日。当時、磯崎新が住んでいた東京都文京区駕籠(かご)町の家に、何十人もの人々が詰めかけた。20代の美術家の吉村益信、篠原有司男らに加えて、丹下健三(建築家)、伊藤ていじ(建築史家)、岡本太郎(美術家)、瀧口修造(美術評論家)、土方巽(舞踊家)、一柳慧(作曲家)といった、そうそうたる顔ぶれがそろった。

 まもなく渡米する吉村の壮行会というのが一応の趣旨だったが、建築と様々な芸術分野との衝突を期待する思惑もあっただろう。案内状には「Something Happens」と書かれていた。その期待に応えてか、吉村は血が出るまで歯を磨くパフォーマンスを披露し、土方と篠原は磯崎邸の屋根に上って裸踊りを繰り広げた。閑静な住宅街にパトカーで警官が駆けつける。翌朝、責任者として警察署に出頭したのは磯崎だった。

 吉村や篠原といった若い美術家たちと、磯崎の関係は深かった。吉村は磯崎の高校の後輩で、磯崎に自宅兼アトリエの設計の相談をしたこともある。磯崎がアイデアを簡単な図面にして渡したところ、吉村は大工に相談してそれを建ててしまった。現在も東京都新宿区百人町に残る白塗りの木造建築「新宿ホワイトハウス」(1957年竣工)の誕生だった。

東京都新宿区百人町の路地裏にある「WHITEHOUSE(ホワイトハウス)」の外観。磯崎新氏が設計した「新宿ホワイトハウス」が、新たなギャラリースペースとして改修され、今も活用されている(写真:日経アーキテクチュア)
東京都新宿区百人町の路地裏にある「WHITEHOUSE(ホワイトハウス)」の外観。磯崎新氏が設計した「新宿ホワイトハウス」が、新たなギャラリースペースとして改修され、今も活用されている(写真:日経アーキテクチュア)
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 建築家・磯崎新の“裏デビュー作”といえなくもないこの建物を拠点にして、1960年、前衛芸術集団「ネオ・ダダ」(当初は「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」)は結成された。立ち上げメンバーは、後々まで前衛芸術家として活躍する吉村や篠原、赤瀬川原平、荒川修作など。第1回グループ展には既製品やゴミを使ったオブジェが並び、チラシを全身に巻きつけて銀座の通りに繰り出す吉村のパフォーマンスはマスコミの格好のネタにもなった。

 1960年の夏は、20代の終わりに差し掛かった磯崎にとって特別な時間だっただろう。公式の建築家デビュー作となる「大分県医師会館」(大分市、1960年竣工)の工事は始まっていた。暇さえあれば新宿ホワイトハウスに入り浸り、夜は仲間たちとともに街に繰り出した。目的は遊びではなく、日米新安全保障条約の締結に対する反対デモだ。

「安保の批准が成立したあけがた、ぼくは首相官邸のまん前にいた。(中略)その日までの一週間に、ぼくらは一年分ぐらいを歩いただろう。毎日国会をまわり、銀座に流れ、そして時には、二回以上もこれを繰返した。(中略)それまでのデモのなかで、ぼくは幾度となく、アメリカ人の大げさな墓石とそっくりの国会議事堂が、炎上するのではないかという幻想にとらわれた」

 『空間へ』(1971年)に収められた「年代記的ノート」の中で、磯崎はこう振り返っている。芸術をひっくり返そうとするネオ・ダダと、政治をひっくり返そうとする安保闘争。磯崎は熱い運動の感覚に浸っていたはずだ。新安保条約は1960年6月19日に自然成立し、23日に発効。安保闘争は急速にしぼんでいくものの、デモが内閣を退陣に追い込んだという事実はその後の反体制運動に拍車をかけた。その勢いはベトナム戦争の反戦運動でさらに高まっていく。

 磯崎自身は「東京計画1960」などの過労でしばらく療養を余儀なくされるが、1962年には「孵化(ふか)過程」を発表する。東京都営繕局の高官の海外視察への同行(1963年)や丹下の下での「スコピエ都心部再建計画」(1965年開始、旧ユーゴスラビアの都市マスタープラン)によって、世界の諸都市にも足を運んだ。

 1963年に31歳で「磯崎新アトリエ」を設立し、3年後には「大分県立大分図書館」(1966年、現アートプラザ)で日本建築学会賞を受賞。ネオ・ダダなどの前衛芸術運動を意識しながら、建築界の異端児として躍進していった。