父の死で知った「代替療法に意味なし」

悲しき善意が生む地獄の苦しみ

  • 松浦 晋也
  • 2017年05月11日

 2015年の春、母がアルツハイマー病を発症したという事実は、徐々に母の親戚や交友関係に広がっていった。経路は主に電話だった。

 この時期、母はまだ電話の応対ができたが、それでも「様子がおかしい」と気が付く人もいる。そんな人は、私が電話に出ると「最近どうなさったのでしょうか」と聞いてくる。

 それとは別に「このところ水泳に来ていませんがどうなさいましたか」「もうずいぶんとコーラスのサークルにいらっしゃっていませんけれど、具合でも悪いのでしょうか」といった電話もある。最初のうちは、適当にごまかしていたが、やがてごまかすわけにはいかなくなった。

 「実は認知症を発症しまして……」

 と説明すると、大抵は息を呑み、「お大事になさってください」という言葉と共に電話を終えることになる。中にはお見舞いを送ってきてくれる人もある。それは大変ありがたいことなのだが、どうにも対応に困るものもあった。

 「これを飲んでみて下さい。使ってみて下さい」と届く、代替療法のあれこれ――サプリメントや健康食品、健康グッズである。

父の死でたどりついた結論、「代替療法に意味なし」

 私は、父を見送った経験から、健康か病気かに関係なく、健康食品もサプリメントも、それらに代表される代替医療も無用と考えている。それらの多くが高額であることを考えれば、有害無益とすら言える、と思う。

 父はがんのために2004年9月にこの世を去った。

 再発を繰り返すと、父は「もうつらいから手術はしない」といい、2004年の春には抗がん剤治療も拒否してしまった。そして「なすべきことをし終えた者はいつまでも生きるべきではない」と言って死に支度をはじめた。

 家族としては、たまったものではない。
 なにかできることはないかと、代替医療を色々と探し、父に与えた。

 キノコや海草のエキス、北米原住民のハーブ、アンズや梅の種の抽出物、民間療法のあれやこれや――どれも結構な値段がした。父はそれらすべてを「そうか」とだけ言って服用したが、それは、自分を気遣う家族の気持ちに配慮したからだったのだろう。

 大量の蔵書を整理し、全国にいる友人知人に「今生の別れだ」といって会いに行き、中国へのツアー旅行に参加して自分の育った街を見学し(父は満州育ちだった)、最後は3週間ほどの入院生活を経て、父はこの世を去った。

本連載、ついに単行本化。
タイトルは『母さん、ごめん』です。

 この連載「介護生活敗戦記」が『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本になりました。

 老いていく親を気遣いつつ、日々の生活に取り紛れてしまい、それでもどこかで心配している方は、いわゆる介護のハウツー本を読む気にはなりにくいし、読んでもどこかリアリティがなくて、なかなか頭に入らないと思います。

 ノンフィクションの手法でペーソスを交えて書かれたこの本は、ビジネスパーソンが「いざ介護」となったときにどう体制を構築するかを学ぶための、読みやすさと実用性を併せ持っています。

 そして、まとめて最後まで読むと、この本が連載から大きく改題された理由もお分かりいただけるのではないでしょうか。単なる介護のハウツーを語った本ではない、という実感があったからこそ、ややセンチな題となりました。

 どうぞお手にとって改めてご覧下さい。夕暮れの鉄橋を渡る電車が目印です。よろしくお願い申し上げます。(担当編集Y)

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